想い流すは港にて

六畳のえる

想い流すは港にて

 1


「今日混んでるわねー」

「ですね」


 わずかに黄色になり始めた銀杏が見える、学食の一番奥。引き摺ったらうるさそうな薄クリーム色の2人掛けテーブルに、ほぼ同時にトレーを置いた。


 昼休みはこの学食は大混雑で、急いでクラス棟から来ないと食欲旺盛な男子高生に全ての席を占拠されてしまう。


「あと半月で中間テストかあ。まだ日程発表されてませんけど」

「去年と同じなら文化の日前後でやるわね。あーあ、2学期制の学校は中間も期末も2回でいいってのに……」

「その分出題範囲が狭いと思って我慢しましょう、ふーさん……うう、気が重いぜ……」


 スプーンを置いて大げさに頭を抱え、茶色のショートを振り乱して悶える和桜かずさに、思わず吹き出しそうになる。


「ふーさんは受験勉強まっしぐらって感じですか?」

「まあ国立狙ってるからね、塾で過去問地獄って感じ」

「でも受かればハッピーなキャンパスライフですもんね! いいなあ、アタシも今のうちから頑張らなきゃ!」


 器に入らないようにロングの黒髪を後ろに払い、鶏唐揚げのみぞれ煮を食べながら、箸休めに彼女の百面相を楽しんでいた。




 私、花塚はなつか文葉ふみはと、目の前で先生のプリントが見にくいと文句を言っている白沢しろさわ和桜かずさの出会いは1年半前。お手軽キャンプをやる部活に後輩として入ってきた。


 キャンプに詳しかった先輩が卒業するってことで3月末で解散になったけど、彼女とは今でも大の仲良し。同じ文系選択だった、というのも大きいかもしれない。


 とはいえ、受験の2文字がのしかかり、放課後に2人でファミレスに入る時間も徐々に減っている。そんなわけで、昼休みはたまに、こうして学食に集まって、50分間のおしゃべりタイムを取っていた。




「うー、寒くなってきたなあ」

「この前の雨で一気にだよね」


 縮こまる白帆。私より数センチ低い、160もない彼女が、余計に小さく、可愛らしく見える。


 白のカーディガンの上にベージュのマウンテンパーカー、ダークブラウンのスカートにはホワイトのドット。私服を毎日選ぶってのも大変だけど、季節感を反映できるのは素敵。秋色コーデに包まれながら、彼女はペットボトルのレモンティーに口をつけた。


「そうそう、ふーさん、あれ行きません? 『白と嘆きの花束』、すっごい泣けるらしいですよ」

「あ、いいね、気になってた! あそこのシネマでやってるよね?」

「多分。あと、Silver Good Newsの新しいMV見ました? 今回の良いですよ!」

「うっそ、見てない! あとでチェックする!」


 他愛もない話、それが楽しい。まるで学年も越えた親友のよう。


「いやあ、秋は過ごしやすくて最高ですね! アタシ、一番この季節が好きです。春生まれですけど」

 クスクス笑いながら、鼻歌を鳴らす。機嫌が良いときに奏でる、曲名も知らない歌。


「あ、次の時間、移動教室だ! アタシ、先に出ますね!」

「ん、行ってら。私はもう少しここいるよ。映画の件、また連絡するね」

「よろしくお願いしますっ」

 

 私の分のトレーと食器も重ねて、返却口に運んでいく彼女。やがて、混雑を避けるために遅めに来た人を華麗によけながら、出口へ向かっていった。



「『白と嘆きの花束』、と」


 スマホで上映時間を調べる。さすがじわじわヒットしている悲恋もの、いつもの場所で1日5回もやっていた。


「映画……」


 口を結んで項垂れる私を慰めるように、嘲笑うように、後ろの窓を風が叩いた。



 和桜かずさとこれを見に行くのか。運命ってのはどうにも悪趣味で、厄介で。

 まるで学年も越えた親友のように見える私達だけど、私は彼女をそんな風には見られない。


 恋愛感情抜きでは、彼女を見られない。




 ***




「ごちそうさま」

 タイミング悪く夕飯も唐揚げだった。2食連続の鶏肉を食べ終え、シンクに運んでいると、母が席を立とうとする。


「お茶淹れようか?」

「ううん、今日はいいかな」

 俯きながら階段を上がり、自分の部屋へ。


「ふう」

 倒れ込むようにベッドに突っ伏す。

 脳内を巡るのは、帰り道からずっと考えていた、あの子のこと。




 いつから好きでいたんだろう。もともと後輩として可愛がっていたのが、いつの間にかそこに別な想いがないまぜになって、気が付けば日々のチャットトークすら愛おしくなる日々。


 中学のときから「男子しかありえない」というタイプではなかったから、自分自身に驚くことはなかった。襲ってくるのは、中学から変わらない、恐怖。バカにされたらどうしよう、そして、拒絶されたらどうしよう。



『女子 同性 好き』


 スマホを叩き、何十回と見た検索結果からサイトを覗く。『変なことではありません』『まずはそんな自分を受け入れること』という通り一遍の解説と、質問箱への励ましの回答。言うべきか黙っていた方がいいのか、毎日毎日悩んで、辛くて、心が沈んでいる学生への処方箋なんて一つも載ってない、表層の馴れ合い。


 もう大学生になろうという18歳だし、授業でLGBTのことだって習った。それでも、何かの弾みで秘密が漏れたら、私を抜いた友達同士がグループトークで下卑たネタにするのは想像に難くない。好奇心のアンプで、噂話という名のスピーカーは誰彼構わずあることないこと吐き出すだろう。


 それくらいなら耐えられる。あと5ヶ月で卒業だ。

 怖いのは、和桜。



 彼女に困った顔をされたら。対応を面倒がられたら。距離を置かれたら。自分が一歩進んで相手が四歩下がるくらいなら、今の関係でいいじゃないか。今だって楽しいんだし、特別なことを求めなくたっていいじゃないか。そんなこと、奥底じゃ思ってないくせに。



「…………ふっ…………うう…………」


 毛布を顔に当て、声が漏れないようにし、必死に涙を吸わせる。誰よりも近づきたいのに、受け入れてもらえる確証もないままに飛び込むことが出来ない。日和見と打算を知ってしまった自分が、まっすぐにぶつかれない自分が、やけに卑しく思えて、嫌になってくる。


「映画、この時間でいいかな? あ、でも、もし友達からも誘われてたりしたら、そっちで行っていいんだからねー!」


 優しい先輩の仮面を被って画面ショットを送る。気遣いに見せかけた、確認。自分を選んでくれるといいなと願いを込めた、勝率の高そうな賭け。


「……やだな」


 こんなときでも彼女からの幸せな返事を期待する自分が、繋がりたいと思っている自分が、やけに幼く思えて、心底嫌いになっていく。




「ちょっと文葉、どこ行くの、こんな時間に」

「散歩と買い物」


 短針がゆっくり下山を始めたころ、あてもなく外に出た。家にいたら、あのままモヤモヤを涙に変え続けて、やがて干乾びてしまう。


「さ、む、い、ね」


 寂寥感を紛らわせるように呟いた後、イヤホンをから流れる大好きな曲を口ずさむ。夜ふらっと歩けるのは、街灯と警察の巡回の多い田舎町の特権かもしれない。


 駅の反対側に行かなければ飲み屋もない住宅街で、白線がぼんやりと照らされている。時折自転車とすれ違うけど、小声でなら歌える。半径3メートルは私だけの世界だった。


 ふと見上げたマンションの上層階、ポツンと明かりがついている。恋人同士で楽しく語らっているのだろうか。勝手に妄想して、勝手に嫉妬する。




 男が嫌いなわけじゃない。そっちを選んだ方が、順当な恋愛っぽくなって、世間の目も気にせず付き合えるだろう。


 でも私はそうなれなかった。悪くないな、なんて思う男子もいたけど、和桜と会った日から全部吹っ飛んだ。顔も髪も声も手も指先も話し方も雰囲気も笑顔も、心の底から愛しく思えて、今はそのことにこんなに苦しめられている。


 卒業する前に告白した方が良いだろうか。そうそう、どうせダメでも大学に行ったら会えなくなるんだ。うまくいけば万々歳、ダメでも逃げればいい、逃げてキャンパスでまたステキな人を見つければいい。こんな良い方法ないじゃないか。


 でもそれは和桜に対して失礼じゃないのか。自分が一番傷付かない方法だけを考えるなんて、それは本当に彼女を好きだと言えるのか。


 いいんだよ、恋愛は元来、利己的なものなんだから。誰だってイヤなことに正面から向き合いたくないんだ。



「あーもうっ! どうしようかな!」


 わざと明るく叫んでみた。夕飯で出たポテトサラダみたいなグチャグチャの心に、がなり声は良く似合う。何を買うわけでもなく、重い足取りで帰路について、現実から這い出るように眠りについた。



 ***



「今日急に小テストがあって! ふーさん、櫻井先生って抜き打ち好き過ぎません?」

「ああ、櫻井先生は去年もそうだったなあ」


 懐かしい授業を思い出して首を振った。今日は塾がないので、放課後近くのカフェでマキアートの糖分補給。


「あと、あの先生、ちょいちょいイントネーションおかしよね」

「分かります! 『赤ちゃん』のこと『牛丼』と同じイントネーションで言うんですよ!」

「なんで牛丼なのよ」


 単語のチョイスがおかしくてクックッと笑う。「はえ? 変ですか?」と首を傾げる彼女の仕草が、私の視線をどこへも行かせない。


「そうだ、和桜。映画、この席でいい?」

「ん、どれですか?」


 顔を寄せる白帆。ライチのような華やかな香りが、鼻に遊びに来る。顔が近づくだけで、幸福感にむせ返りそうだった。


「わっ、良い席ですね!」

「じゃあ、チケット買っておくわね」

「やったあ!」

 彼女が、パアッと幸福を散らすように笑った。


「ふーさん、いつもありがとうございます!」


 ほら。その顔が、その笑顔が、いつも私を縛り付ける。


 当たって砕けろで想いを伝えようとするたびに、諦めて別の人を好きになろうとするたびに、光を纏う素敵な表情を見せて、離れることを許してくれない。麻薬のように彼女の虜で、だからこそ一緒にいるのが苦しい。


 彼女は私を頼れるお姉さんとして見てくれているかもしれないのに、私はてんで違っていて、色恋の感情を抜いて彼女に接することができない。そのボタンの掛け違いに、心に波を立てる隙間風が吹き込む。



「えへへ、楽しみにしてますね! 楽しみ楽しみ!」

 堪らなく嬉しそうに、いつもの鼻歌を奏でる。もう何度も何度も聞いて、一緒にハモれるくらい。


「うん、私も」


 精一杯の笑顔を作って、カップを一口啜る。蛇腹に折れて水に濡れたストローの袋は、なんだか自分によく似ているような気がした。






 2


「うー、体固まった! 寝よう!」


 数学に没頭して、気付いたら22時半。時間内に解き終われるか今から既に不安だけど、和桜のことでアレコレ考えるのを回避するには、数字と記号だけの世界でシャーペンを走らせるのがちょうど良い手慰みだったりする。

 とはいえ反動で脳が疲れてしまって、いつもより大分早いけど床につくことに。


「布団最高!」


 ベッドに飛び込み、イヤホンをつけながら毛布に包まる。

 思い悩む前に寝られるだろうか。タイマーで再生停止するよう設定し、不安な気持ちを音楽で消し去った。


「ふう……」


 曖昧に揺れる現実の中で、浮かんだのは彼女の顔。こんなところにまで出てきて、私を惑わせる。


 苦しくて、愛おしくて、辛くて。こんなにナーバスな夜は、いっそ頭を取り替えたいとさえ思う。彼女を知らなかったあの頃に戻りたいとさえ。忘れたいとさえ。


 やがて。



「……え? …………え? 何、ここ……」


 気が付くと、灰色の空の下で立ち尽くしていた。服装はなぜか、昼間に着ていた白のボタンシャツとネイビーのスカートに戻っている。


 見たことのない景色。人も、車も、鳥も、花もない、風すら吹いていない。見えるのは、少し遠くに広がる灰色の海と、その手前、目の前に建っている、くすんだ青の三角屋根の建物。


「夢、かな……?」


 近づいてみると、その建物はとても不思議で不自然だった。コンクリートで出来ているようには見えないけど、木材でもない。煤けたように汚れているのに、削れたりひび割れたりしているところはない。絶対に劣化しない建物が時間だけ延々と経ているような、言うなればそんな光景。


 中にも誰もいない。普通ならスタッフがいるはずの簡単な窓口の他は、切符の販売機が1台あるだけで、受取口から屋根の色と同じ濁った青い何かを吐き出していた。


「……切符」


 思わず呟く。それは、日付も金額も書かれてない、「幻夢」とだけ書かれた青い紙切れ。地名だろうか、持ってないと海には出られないのだろうか。幾つもの疑問が頭に侵入しては「夢だから」の都合の良い言い訳で全てを押し出す。


 建物を抜けて、船の方に向かってみる。誰かが見ていてもいいように、切符を顔の位置に掲げながら。


 潮の匂いのない、茫洋たる海が見えた。その手前までは土のように密度のあるコンクリートのように堅い地面が広がり、砂浜もない。


 こういう光景は見たことがある。船乗り場だ。なるほど、それならこの切符も合点がいく。



「夢だよね。うん、そうだ、夢だ」


 自分自身に言い聞かせるように、深く頷く。今から船が来て、当てのない、果てのない旅に出ようとしてるんだ。きっと現実に苦しんでいる私に、神様がくれたプレゼント。忘れられないなら、せめて夢の中だけでも何も考えない時間を取るといい。そんな風に配慮してくれたに違いない。



 その時、ボーッと汽笛が聞こえた。どこか遠くから、確かに聞こえてくる。


「入港、ってことかな」


 予見に応じるように、向こうからゆっくりと、一艘の船が向かってくる。10人乗りくらいの小さい真っ白な船。操縦席のようなものはなく、少し大きめのボートの後ろにエンジンらしきものがついている。


「汽笛、ついてないじゃない」


 不可思議な点を口にする。灰色の水平線を見渡しても、他に船はない。どこから鳴ったのだろうか。今のこの世界なら、何が起きてもおかしくない。


 船は私の目の前まで来て、ピタリと停まった。誰も乗っていない。やっぱり、これから私の一人旅が始まるんだな。



 その時。


「待たせたな」


 子供向けホラー映画で聞くような、低くくぐもった声。音の方向に振り向くと、そこには二足歩行の狼がいた。



「…………え?」


 建物や切符と同じ色の一枚布で作られた服を着ているその様は、姿が人間ならRPGに出てくる旅人のような格好。ほぼ胴だけを隠していて、けむくじゃらの四肢と鋭い爪は剥き出しになっている。噛まれる想像だけで身震いしてしまう尖った牙は、これまでテレビや動画サイトで見たことのある狼そのもの。


 しかしその顔には、私がこれまでなんとなく抱いていた「賢さ」の印象はなかった。


「あ……あ…………」

「そんなに驚くな。すぐに見慣れる」


 代わりに感じたのは、言いようのない「恐怖」。抉られたような傷痕もなく、さながら、始めから目という感覚器が存在しなかったかのような。あまりにも不思議で不気味なその容貌に、ぞくりと鳥肌が立った。


「アナタ、は…………その…………な、に…………?」

「この港の番人だ。『幻夢げんむ』の名を持つ港のな」


 途切れ途切れの問いかけに、胸が共振で震えるような低音で返す。この空間全体がファンタジーに塗りたくられて、日本語が通じることなど欠片も気にならない。


「幻夢……ここから船に乗るのよね? どこに向かうの?」

 そう聞くとその狼は、眼球のない窪みでこちらを見た。


「船は来るが、お前は乗れない。そもそも、人間は乗ることができない」


 そして、ぐいっと顔を近付け、煙でも撒き散らすかのような勢いでフシュルル……と息を吐いた。


「乗せるのはお前の感情や記憶だ。お前が消したい、無くしたいと思うものだ」






  3


 強めの風が吹き、私の黒髪をバタバタと靡かせる。海面も波立ち、乗員のいない船が寂しげに揺れた。


「無くしたい……?」

「そうだ。誰かに対する感情や誰かとの記憶のうち、お前の消したいものをこの船に乗せて運ぶ。この港を出れば、折り返すことはない。もう戻って来ない」

「感情や記憶って。そんなもの、どうやって――」

「出来ない、とでも思うか? この世界で?」


 世迷言を言うな、とでも言いたげに、奥まで裂けた口をぐにゃりと歪めて笑う。


 ああ、そうだ。こんな非現実で塗りたくった世界なら、可能かもしれない。不可視のものを具現化して、船に乗せることが。船が遠ざかることで、それを自分の中から抹消してしまうことが。


 でも、でも。


「ねえ。ここって、その、空想の世界ファンタジーなの?」


 普段住んでいる現実と一緒だとは思ってないけど、あまりにも「空想離れ」している。


「ああ、これはあくまで、俺達にとっての現実だ」


 彼は天を仰ぎ、表情を見せずに答えた。土のようなアスファルトのような地面をトントンと足で打ち、「ここは」と続ける。


「お前達の世界では『夢』と呼んだりする類のものだ。もっとも、現実の1つには変わりないから、ここで起こったことはお前が起きた後の世界にも反映される」

「……なるほどね」


 寝床に入った後に、この港にやってきたはず。やっぱり夢は夢で間違いなかった。誰もいない空間も、着替えている自分も、それなら合点がいく。


「なんでこんなことしてるの? わざわざ私達をこっちに呼び出してまで」

「さあな、よく分からない。お前達だって、生きてる意味を聞かれて答えに窮することはあるだろう?」


 黙って小さく頷く。確かに、こんな世界で意味なんか聞いても仕方ないかもしれない。


「もう1つ聞いていい?」

「なんだ?」

「なんで私の夢に来たの? 偶然?」

「……分かっているだろう?」


 再び、彼は笑った。目の無い目で、歯を剥き出しにして、嘲るかのように。


 そして、それを見ている私もまた、少しだけ似た表情を作っている。自分の弱みにつけこまれてこんなことになったんだ、という自省が、苦笑いを纏わせた。


「今日、『感情や記憶を消したい』と少しでも願った人間の中から、ランダムで決まるんだ。お前は何万人の中から選ばれたんだぞ。喜べ」

「そう、ありがと」


 おざなりのお礼をして、ふうっと強めに息を吐く。地べたに座っても良かったけど、長時間座ったらお尻が痛くなりそうで、そのまま立ってることにした。



「乗船、断ってもいいの?」

「質問は1つじゃなかったのか」

「いいから」

「断っても構わない。それならそれで、別の人間のところに行くだけだ」


 目のない狼と顔を合わせる。確かに彼の言う通り、恐怖しか覚えなかった不気味な顔も内臓に響くような低い声も、割と慣れてきた。


「そう……少し、考えさせて」

「ああ」


 これまで彼が出会ってきた人々も皆同じようなことを言ったのか、狼は時間をやるとばかりにどこかへと歩いて行った。




 考えさせて、と言ったけど、実際はそんなに悩んでいなかった。


 毎日泣くほど苦しんでいたことから解放される。私は大学での恋愛を夢見る受験生になり、和桜とはただの「部活仲間」になるだろう。女子を好きになるのはこれからも変わらないかもしれないけど、まずは今の苦しみから逃れないと完全な袋小路。


 何より、夢でこんなことになるほど追い詰められていた、という事実が、私の決断を後押ししていた。



 それほど、今は辛い。


 距離を詰めようにも、嫌悪が怖くて、拒絶が恐ろしくて、この先へは行けそうにない。いっそあの子に彼氏でも出来たらいいのに。そうしたら諦めもつくだろうか。この出口のない暗澹たる闇を抜け出せるだろうか。


 よし、忘れよう。こんな機会、願って来るものじゃない。もらった幸運を大切にしなきゃ。


 明日から和桜とは、知り合い。そこから、友達にでもなれたらいいな。




「決まったか」

 見計らったように、気配なく狼がやってきた。


「……やるわ」

「分かった。では、準備を始めよう」


 そう言って彼はバンッと両手を合わせる。そしてゆっくり開くと、そこには私が片手で持てるくらいの、小さくて真っ白い人型の人形があった。


「これをおでこに当てて、無くしたいものの願いを込めろ。なるべく他の雑念は消せよ」

「単純な仕組みなのね」


 いいからやれ、という狼の催促を受け、人形をもらっておでこにつける。油性マジックが使えそうなツルツルした生地の人形は随分冷たくて、頭がひんやりと気持ち良い。




 あの子への想いを、消してください。

 もう毎日毎日、精一杯頑張ったから。

 そろそろ、楽にしてください。

 2人とも幸せでいられるように、消してください。




「出来たわよ」

「ああ」


 人形を手渡すと、狼は表情を変えず、ふしゅるる……と息を吐いた。灰色の海を前で、彼の息が白く空を舞う。


「楽しい? 毎日、ここに来るんでしょう? こんな寂しいところへ」


 思わず訊いたその質問に、彼は顔をこちらに向けた。眼球のない、暗い暗い窪みが、私を捉える。


「面白いヤツだなお前は。俺に興味を持つなんて」


 洞窟で聞いたら大分響きそうな低音で、その声は少し笑っているようにも感じられた。


「どうだかな。仕事だから毎日やっているだけだ。それでも、出港のときにはひと段落した気にはなる」

「そうなんだ」


 大して意味のない雑談。少しだけ人形と、そこに込めた感情と別れを惜しむ時間。


「じゃあ、行くぞ」


 狼が天を仰いだあと、その真っ白い人形を船に乗せる。乗員はこれだけ。狼本人も乗らず、私の隣に戻った。



「出港、だな」


 ボーッと、再び汽笛が鳴る。この船じゃないどこからか、幼いころビール瓶に口を当てがって息を吹きかけたような、懐かしくもある音が響く。



「この船が行ったらお別れだ」


 一仕事を終えた充足感からか、狼は鼻歌を鳴らした。



 聞き覚えのあるメロディー。あの子がよく奏でていた、あのメロディー。



 偶然か故意かわからないあの曲が耳に吸い込まれ、代わりに目から涙が溢れた。




 和桜。




「待って……待って!」


 今にも動き出しそうだったボートに飛び乗り、置かれた真っ白な人形をひったくるように取って抱き寄せる。



「持っていかないで! 私のものだから!」



 和桜。

 貴女が好きで。どうしたって貴女が好きで。



「私の、ものだから」


 その人形を頬に寄せ、濡れ跡を作った。




 幻夢は、即ち「現無」。今を、無かったことにする。

 私が和桜を好きだということも、無かったことになるだろう。


 それはそれで幸せなことかもしれない。私は余計なことに苦しまずに済む。

 私は。



 私?

 和桜を好きじゃない私?

 それは、私?



 多分違う。きっと違う。



「和桜……和桜……!」



 私はいつも頭が足りなくて。公式を覚えたって、赤本を捲ったって、肝心なことはこんな状況にならないと気付けなくて。



「消さないでいいのか」

「いい。気にしないで。急にやめてごめんなさい。もうどっか行って」



 これも、私の証だから。

 和桜を好きなところを含めて、きっと自分だから。



「分かった」


 面倒なヤツに当たっちまったと言わんばかりに、彼はフシュルルルル……と天に向かって息を吐いた。白い煙がもうもうと天に昇る。


「また大変なときにはお前の夢に現れるぞ」

「多分、もうお世話にはならないと思うけどね」



 自信があった。もう迷わない。一度捨てようとした自分だからこそ、もうこの想いを手放すことはない。そんな確信から力強く放った言葉に、狼は相変わらず目のない窪みでこちらを見ながら、苦笑するように口をひん曲げ、向こうへ歩いて行った。


「間違ってるかもしれないけど、その、ありがとう」


 感謝の言葉を背中に受け、何もリアクションしないまま、彼は消えていく。



 やがて姿が完全に見えなくなったとき、いつの間にか船も見えなくなり、私が見ていた灰色の海も、くすんだ青の建物も、視界の中で不安定に揺れ始めた。



「帰らなきゃ……帰ろう……」

 意識が、遠のいていく。



 ***



「行ってきまーす」

「行ってらっしゃい。塾終わる時間に連絡ちょうだいね」

 はーいと返事をして、玄関を開ける。



 起きたら寝汗でびっしょりだったけど、体にも和桜への想いにも特に変化はなかった。


 あれはただの夢だったのか。それとも。

 どっちかは分からないけど、結局何もなかったんだから、良しとしよう。



 校門の手前で、想い人の後ろ姿を見かけた。見るだけで幸せになれる、茶色のショート。


「和桜、おはよ」

 振り向いた彼女が、珍しくペコッと一礼する。



「ああ、、おはようございます」


 声色が違う。表情も、言葉遣いも、何もかもが違う。


 まるで、ただの部活の先輩と後輩のような距離感。



「さ、寒くなってきたわね」

「ホントですね、外でマラソン大会の練習とか辛いです。あれ、今日体育あったかな?」


 スマホを出そうとした彼女が、ポケットから何かを落とす。

 見覚えのある、くすんだ色の、青い切符。



「……ねえ、落としたわよ」

「あ、ありがとうございます」

 友好の色のない彼女の目を覗きながら、私は全てを理解した。





 ああ。そうか。

 あの狼が言ってたな。


 「断っても構わない。それならそれで、別の人間のところに行くだけだ」


 行ったんだ。この子のもとへ。

 そして彼女は消したんだ。私への想いを。




 私はいつも頭が足りなくて。公式を覚えたって、赤本を捲ったって、肝心なことはこんな状況にならないと気付けなくて。


 彼女はきっと、私を想ってくれてたのに、私は脅えてばかりで、踏み出すことすらできなくて。彼女も私のように苦しんで苦しんで、そして港で流したんだ。


 勇気を出せば良かった。私からアプローチすれば良かった。好きって、言ってあげれば良かった。


 巡るのは、後悔。そして、謝罪。悩ませて、悲しませて、忘れるなんて辛い決断をさせて、ごめんね。和桜、ごめんね。ごめんね。




「……えっ、どうしたんですか、文葉さん」

 涙を零す私の顔を覗き込んだ彼女は、どうしようかと狼狽する。


「ごめんね、大丈夫!」

 両手でパンッと頬を叩く。




 大丈夫よ、和桜。今度は私が頑張る番。

 卒業まで日はないけど、全力で貴女を振り向かせてみせる。

 それが想いを流さなかった私にできる、一番の罪滅ぼし。





「ねえ、和桜! 今度の休み、一緒に出掛けない? チケット余っててさ!」


 私はとびっきりの笑顔で、彼女が観たがっていた映画のサイトを見せた。

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