俺と美月の宇宙日記(ダイアリィ)3

風見鶏

序文

長年、人類はその存在の意義に思いを巡らせてきた。偶然にしては、あまりにできすぎた存在。人類だけではない。古代より地球に存在し、今に至っては宇宙にその生存の場を広げつつある生命すべてがそうだ。生命の創成は、古代においては超自然、つまり「神」の仕業とされ、やがて科学の発展とともに、偶然や確率論にその答えが求められる。しかし、極めて緻密な遺伝子によって、その存在を維持していることが「科学」によって解明されて以来、「神」の存在は常に科学者の心を脅かしている。宗教が言う「神」とは違っても、我々がまだ知らない「科学」を使いこなす「創造主」の存在を予感させるに十分な証拠を我々はつかみつつあるからだ。


20世紀の科学者にして作家でもあったアーサー・C・クラークが、自ら唱えた三法則の中で述べているとおり、充分に発達した科学は魔術と見分けがつかない。ここで言う「充分に発達した」とは、現在の科学では論理的に説明することすら無意味に思えるほど高度な、という意味になるだろう。これは彼なりに皮肉を込めた言い回しだと私は考える。科学と宗教や魔術との違いは、事実や観測から立証された原則をもとに、物事を論理的に説明することが求められるか否かにある。ならば、クラークが言うところの充分に発達した科学は、まさに科学者にとっては魔術そのものであり、最も立ち入りたくない領域なのである。


クラークから数百年を経た現在の我々にとっても、この問題はまだ解決されていない。遺伝子工学は格段に進歩したが、それはまだクラークの時代の想像の域を出ていない。当時に比べれば遙かに多くの知識や高い技術を獲得してはいるが、いまだに魔術と呼ばれるほどのブレークスルーは達成できていないのである。一方、生命の本質は、遺伝子の構造がほぼ完全に解明された現在でも謎のままだ。生命をその実体と精神もしくは自我の複合体であるとするなら、我々は前者をほぼ解明している。生命の姿は、今では自由にデザインが可能だし、様々なインターフェイスコンポーネントによって電子的な情報を使った感覚や能力の拡張も可能になった。しかし、自我がどのように形成されるのかについては、まだ謎ばかりなのだ。そこに踏み込もうとすれば、我々は魔術や宗教との間の一線を踏み越えなくてはならなくなる。一歩間違えば、科学は中世の錬金術に逆戻りしてしまうかもしれない。そんな危惧が長年、科学者を躊躇させてきたのである。


一方で、電子工学はこの問題に対して別のアプローチを重ねてきた。いわゆる「人工知能」の開発である。コンピュータは20世紀に産み出されてから、短期間で著しい発展を遂げた。いわゆる「ノイマン型」コンピュータは半導体技術の発展に伴って高速化、大容量化し、計算手順すなわちプログラムさえ与えれば、膨大な計算を瞬時にこなしてくれる。しかし、それを知能とは呼べない。そこで、電子工学者は二つの方向からアプローチを試みた。ひとつは、経験則を積み重ねてそこから何かを見つけ出すようなコンピュータプロクラムを作る、いわゆるヒューリスティックアプローチ。もうひとつは脳神経の回路そのものを電子回路で実現する、いわゆるニューラルネットワークアプローチである。いずれのアプローチも24世紀頃までに、多くの成功をおさめた。今ではこの両方を組み合わせたハイブリッド人工知能が主流だが、その能力は人間を遙かに凌駕している。たとえば、会話すれば誰も相手が人間かコンピュータかを見分けることができない。ある意味で、彼らはすでに人造人間なのである。だが、根本的な問いは残る。20世紀、コンピュータ科学の基礎理論を作ったアラン・チューリングは、人と見分けがつかない回答をするコンピュータは知能があると推定できるとした。「チューリングテスト」と呼ばれるこの考え方は多くの議論を呼んだ。「中国語の部屋」と呼ばれる反論では、マニュアルさえあれば、中国語がわからない英国人でも、中国語の質問に対して的確な答えを返すことができるから、答えだけを見てコンピュータが中国語を理解していると考えることはできないとする。実際、この問題はかなり本質的だ。人間同士でも、他人が自分と同じような自我を持っているかどうかは推測するしかない。現代ではもはや相手が最新技術でつくられたアンドロイドなのか、人間なのかを見分けることは困難である。だからと言ってアンドロイドが知能を、さらには人と同じ意味で自我を持っていると考えられるだろうか。今のところ電子工学者もこの問題には答えを出せていない。


こうした問題の先には、我々自身、さらには生命の存在意義といった極めて哲学的な問題が横たわっている。それが科学者にとって大きな壁となっていることは否めない。この壁の先には何があるのか。もしかしたら、それを考えることは科学としての一線を越えてしまうのではないか。我々は常にこうした葛藤を続けているのである。



(アンリ・ガブリエル著 「第二創世記の始まり」より)

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