落ち込んでいる暇さえない
翌朝早く、僕が教会に顔を出すと、雑巾を手にして辺りを懸命に掃除しているミレイユの姿があった。
村人からの寄付で、礼拝堂に並べられている椅子の数は日に日に増えてきている。村の大工が壁と天井を修理してくれたおかげで、教会は建物としての体をなし始めている。
ミレイユは力をこめて、不揃いな椅子を磨きたてているところだったが、僕の姿を認めると顔を上げ、「昨日はありがとうございました」と笑った。目の下に隈のできているその笑顔は、痛々しかった。
ひと通り掃除を終えると、ミレイユは僕に歩み寄ってきた。
「お祈りのしかたを教えていただけませんか、使徒様。わたしはこれまで神の御教えを耳にする機会がなかったものですから、お祈りを知らないのです」
まっすぐに僕を見上げて、憂いに満ちた笑みを浮かべた。
「お笑いになってくださって結構です。何も知らない、何もできない愚かな女ですわ。ただ日々の生活のことだけで頭がいっぱいの。そんな女ですけど、夫が助かるように……夫が神様を受け入れる気持ちになれるように、毎日ここで祈りたいと思います」
僕は彼女に真言聖句集を手渡し、これを暗唱できるまで何度も朗読するようにと勧めた。神の使徒たる者は常に冷静でいなくてはならないとわかってはいるけれど、涙が出そうなほど激しい感情を、内心でもてあましていた。一刻も早く、苦しんでいる彼女と夫に助かってもらいたい、という感情だ。
ミレイユが教会で祈っている間、僕は彼女の家へ赴いた。
玄関先で僕を出迎えたタクマインは渋い顔をしていた。僕を家の中へ招き入れようともしない。
「ミレイユが話していた坊さんってのは、あんたのことか。ずいぶん余計なことをしてくれたな」
昨夜は苦痛で人相が変わってしまっていたのでわからなかったが、平時のタクマインは、世慣れた雰囲気を持つ男だった。こちらをまっすぐ見据える目には知性と強い意志の光が宿っている。現実とうまく折り合いをつけている人間。言い換えると、信仰とは最も縁遠い人種、といったところだ。その僕の印象はたちまち裏づけられた。
「どうして勝手に医者なんぞ呼んだんだ。ゼフォン博士は金がかかるので有名なんだぞ。昨日だって、目の玉が飛び出るほどの治療費をふんだくられた。まったくいい迷惑だ。あんたにその分の金、請求したいぐらいだよ」
いきなり、この上なく現実的なせりふが飛んできた。
「出すぎた真似をしてしまったことについては、謝ります。でも……奥さんはずいぶん心配して、悩んでおられました。何も知らされないというのも辛いものですよ。真実を知ることによって、乗り越えるための力も生まれてくると思いますが……」
僕はなんとか話の糸口をつかもうとした。けれどもタクマインはにべもなかった。
「これは俺の問題だ。俺さえ我慢していればカタがつく。我慢なら金をかけずにできるからな。ミレイユが心配してると言うが、誰も心配してくれとは頼んでない。心配してもらったからといって俺が治るわけじゃない。まったくの無駄じゃないか。そうだろう?」
僕は絶句してしまった。
この人は――ミレイユの背中のひどい傷跡を見たことがないんだろうか。どういう思いで彼女が毎晩痛みに耐えているか、知らないんだろうか。「無駄」などという言葉がどうして出てくるのだろう。
「夫婦がお互いを思い合う気持ちは、無駄なんかじゃありませんよ。愛は何よりも崇高な感情です。奥さんは、たとえ自分の体が傷ついても、あなたの苦しみを和らげたいと懸命に努力してきたんです。その気持ちを汲み取ってあげてください」
「それが、大きなお世話だというんだ。あんたもミレイユもだ。心配の押しつけはやめろ。愛情の強制もまっぴらだ。俺がいつ、そんなものを欲しいと頼んだ? 俺は独立独歩の人間で、誰の世話にならなくても生きていける。ミレイユも、無駄な事に気をもんでいる暇があったら、料理や掃除に時間をかければいい。その方がよっぽど役に立つってもんだ」
「タクマインさん。世の中には『独立独歩の人間』なんて一人も存在しないんですよ。自分だけの力で生きていける人間なんていない。誰もがお互いに、誰かの世話になりながら生きてるんですから」
僕の言葉はタクマインの心に少しも届いていないようだった。彼は、世間に恥じる事なくまっとうに生きている人間の堂々たる自信をもって、腰に両手を当て、胸を張った。
「違うな、お坊さん。自慢じゃないが俺は生まれてこのかた、他人様の世話になったことなんぞない。他人の支えを必要とするのは愚か者や弱い人間だけだ。そう、ミレイユみたいに」
僕は思いつく限りの言葉を尽くして、タクマインの関心を信仰の話題に向けようと努力した。しかし、彼の頭の中には「神」に近いものはまったく存在していないようだった。この人は妻に感謝することさえ知らないのだ。「より偉大な存在」によって生かされていることの有難さを理解してもらうなど不可能に近い。
〈生命の欠片〉の入手先を訊き出そうとしたが、僕との会話を早く打ち切りたくてうずうずしている相手からは、明確な答えは返ってこなかった。
「言っとくが、いくら訪ねてこられても、教会に対する寄付金とかそういうものは出さないぞ。うちには無駄遣いできるような金はないんだ」
そう言い残して、タクマインは僕の鼻先で扉を閉じてしまった。
-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-
タクマインと別れてから、どこをどう歩いたのか覚えていない。僕は打ちのめされていた。
タクマインに信仰の話を説けなかったことが悔しいわけじゃない。使徒として布教の旅をしていれば、冷たい応対など日常茶飯事だ。話をちゃんと聞いてもらえることの方が珍しいぐらいだから。
僕が衝撃を受けたのは、ミレイユと夫との間に、僕が想像していたような麗しい夫婦愛が存在していなかったことだ。
タクマインが〈生命の欠片〉を絶とうと決めたのは、妻のためではなかった。
「金がかかって仕方ないからだよ。法外に高いんだ、あの薬は」
と彼は言い放ったのだ。
そして彼が医者にかからず、独力で苦痛を乗り越えようとしたのは、ミレイユを心配させたくなかったからではなく、単に医者にかかる金が惜しいからだった。
ミレイユが気の毒だった。あんなに傷だらけになりながら夫に尽くしているのに、夫はそれを「心配の押しつけ」としか見ていないなんて。
教会に戻って彼女の顔を見るのはつらかった。けれども逃げるわけにはいかない。
僕が村の中心にある教会の建物に近づくと、朽ち果てた扉の向こうから、
「われ祈る。わが内に常に存在する母なる神に。万物の内に存在する造物主たる神に。
わが神は世を救うために到来された不偏の光なり。
わが神は万物に祝福と栄光とをもたらす根源なり。
わが神は混沌を支配する秩序にして、たん……たん……たんすを破壊する永遠の変調なり。
われ唱えん……」
と真言聖句の冒頭部分を唱えているミレイユの澄んだ声と、
「たんすじゃねぇ! 『単調を打破する永遠の変調』だ。何べん同じところで間違うんだよ、おまえは。字もまともに読めねーのか? 神がたんすを破壊するわけあるか、アホ!」
という、思いっきり聞き覚えのある罵声が響いてきた。
「ロラン! そんな言い方しなくたって……!」
あわてて僕が礼拝堂内に駆け込むと、説教台の上に投げやりな姿勢で腰を下ろしたロランと、行儀よく椅子に収まっているミレイユとが、揃ってこちらを振り向いた。
驚いたことにミレイユの顔には晴れ晴れした表情が浮かんでいる。
「お帰りなさい。……どうでしたか、夫の様子は?」
明るい声で尋ねられて、僕はとっさに言葉を返せなかった。
「えーっと……あの……それはですね……」
ミレイユはそれ以上深く追及しようとはしなかった。曇りのない笑顔を浮かべて、真言聖句集の本を胸に抱きしめ、
「わたし、使徒様のおっしゃった通り、お祈りの練習をしていました。難しいんですね、お祈りって。でも楽しい」
「ええっ! 楽しいんですか、今ので……?」
僕は耳を疑った。ミレイユは笑顔のままうなずき、そろそろ帰らなくては、と立ち上がった。
「ありがとうございました、使徒様。また明日参ります」
会釈して、弾んだ足取りで礼拝堂を出て行く。僕はあっけにとられてその背中を見送った。彼女のあんな明るい様子は初めてだ。出会った日以来、悩みに打ちひしがれた彼女しか見たことがなかったから――。
「僕のいない所であの人に何をしたんだ? 『楽しいって言わなきゃぶっ殺す』と脅したのか? そうとしか考えられない……!」
僕が詰め寄ると、ロランは芝居がかったため息をつき、あきれたような声を出した。
「おまえ……前々からアホだとは思ってたが、どうやら想像以上の、神が作り給うた奇跡の大バカ野郎らしいな。
教団本部がテメエを俺と組ませた理由がだんだんわかってきたぜ。つまり、俺みたいな天才は、おまえみたいなトロい間抜けに足を引っ張られるぐらいでちょうどいいってことだ。他の使徒たちと差がつき過ぎちゃまずいからな」
「よく言うよ! 君が問題ばかり起こすせいで、君と組みたがる人が誰もいないから、本部が僕に頼んできたんだろう? 僕は使命感で君と同行してるんだ」
「――真言聖句は神に呼びかけ、神と語らうための言葉だ。たとえ間違いだらけでも、神の言葉を唱えていれば、心が澄んで明るくなってくるのは当然だ。信仰のない人間も『楽しい』と感じるだろう。
おまえ使徒やってて、そんな事もわかんねぇのか。素人かよ」
使徒にあるまじき愚劣な言い争いから、ロランがいきなりまともな話題に戻ったので、僕はとっさに返すことができず黙り込んだ。
この男はやる事なす事すべてメチャクチャだが、突然、不意打ちのように、まじめな教義をぶち込んでくるから油断がならない。
そりゃあそうだ。神の言葉を唱えただけ、ミレイユは神に近づいた。心が晴れるのも当然だ。
それをよりにもよってロランに指摘されたのがちょっと悔しい。
僕が言葉を失っているうちに、ロランは説教台から飛び降り、大股でこちらへ歩み寄ってきた。
「タクマインの元雇い主に会いに行く。おまえも来るか」
「え? 雇い主に? どうしてだ?」
僕は思わず声を張り上げる。ロランはさっさと僕の横を通り抜けて、すでに礼拝堂の外へ出ようとしていた。外では日がさらに高く昇っていた。早朝と呼べる時刻は過ぎ、村人たちが日々の活動を始めていた。
「始祖ドヴァラスは『万物は流れている』とおっしゃった。流れを読め……澱みを感じ取れ。流れがせき止められて澱む所には必ず濁りが生じる。例えば、富の不自然な蓄積のある場所、とかな」
「富の不自然な蓄積? 何のことだ?」
早足で歩いていくロランに追いつこうとして、僕は小走りになる。ロランが急に足を止めたのでぶつかりそうになった。不穏な目つきで睨まれた。
「おまえ、あいかわらず、本部支給の資料をぜんっぜん読んでねぇみたいだな。ちったぁ勉強しやがれ、バカ野郎!」
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