第36話

「姫蝶殿……」

正直、九郎はどうしてよいか分からなくなった。

 彼等、御魂のことはまだよくは理解していない。それだけでも分からない事だらけだ。その中でも姫蝶の話を聞く限りでは御魂にも男女の仲のようなことがあるようだ。

 しかし、自分は人間のそれすらまだよく知らない。その状況で、姫蝶のために果たして何ができるのか、皆目見当もつかなかった。

「姫蝶殿。正直に申し上げれば、私には、まだその、男女の色恋というものはよく分かりませぬ」

九郎は少し言い辛そうに顔を赤くしてそう言った。そして、一呼吸おいて、どうにか呼吸を整え、姫蝶の目を見て続けた。

「まして、夫婦のこととなれば、見当もつきませぬ。しかし、会いたい相手に会えないのは辛い。それは分かります」

九郎は、鞍馬のお山に在った時のことを思い出していた。

 血を分けた兄弟、そして何より、母を恋しいと思った。そして、顔も知らぬ父。父は、九郎が生まれた年に亡くなったと聞く。九郎が知る実の父のことはそれしかない。そういう事情であるが故に、特に父に対してどうということはないのだが、会ってみたかったという思いはある。何一つ思い出の無いことへの悔しさは。

 そして、今尚、やはり、生きている肉親、母や、兄弟に会いたいと、心のどこかで思っている。自分が今、恵まれた環境にあるのは分かっている。その想いが叶わずとも、十分すぎる待遇だ。それが分かっていても、心のどこかには、やはりそれはある。九郎のそれは、肉親の情と言う物だろうと、九郎は思った。姫蝶のそれとは、想いの強さや質に、違いがあるだろう。まして、人と御魂の事情は違ってくるのかもしれないとも思う。しかし、その想いの根底にあるものはきっと大きくは違わない。

 ただ、会いたいと願う、相手を乞うる気持ちだ。

 九郎は黙って姫蝶の反応を見ていた。姫蝶は怒るかも知れない。あなたに分かるはずがないと言われてしまえばそれまでだ。分からないことを、分かると言ってしまえば、それは相手の信頼を損なう。下手をすれば、姫蝶は自分に幻滅し、生きることに絶望してしまうかもしれない。きっと、姫蝶は何かしら、この件の解決に繋がることを九郎に頼みたかったはずだから。

 九郎はそれを思うだけで心が痛んだ。そうして、もう一度自分の心に問うた。

 自分に驕りは無かったか。

 白乙を救うことが出来たと、自分を過大評価していたのではないだろうか。

 本当に、姫蝶のことを想って、行動しようとしているのか。

 その覚悟があるのか。

 九郎は姫蝶に気付かれないように、小さくため息を吐いた。自分に対して、自分が落胆してしまった。

 自分にはもう、できることは無いのかもしれない。

 最初から、聖なる存在である御魂に、自分が関与すること自体、恐れ多かったのだ。

 長い沈黙の間、九郎は自分を顧み、そして、気持ちを整えた。

「姫蝶殿、私は」

九郎は先に謝ろうと口を開いた。

 しかし、姫蝶は

「九郎殿は、分からないながらも懸命に私の心を知ろうとしておられる」

と、九郎の言葉を遮って言った。九郎は思いがけない言葉に慌てて首を横に振った。

「いえ、そんな」

「思い出してくれたのであろ?鞍馬のお山に居た頃のことを。その時、九郎殿が何を想い、誰に焦がれていたのか。それは、逆に私には分からぬ思い。血縁の情は、血縁を持たない御魂には理解できぬこと。それは、お互いに。それでも、理解しようとすることはできまする。」

「……姫蝶どのは、私の昔をご存じで?」

九郎は少し驚いた。自分は話してはいない。どこからそのことを聞いたのか。大天狗にも特にこれと言って話したことは無い。ただ、鞍馬の天狗から事情を聴いているかもしれないという程度だ。そこから伝わったとしても、大したことは伝わらないと思えた。

「深くは知らぬよ。しかし、天狗様から大体の話は聞き申した」

九郎はやはり、と思った。

 姫蝶は遠くを見るような目になって、続けた。

「私も、その話を聞いたからこそ、九郎殿に話を聞いてもらいたく思ったのです。愛しい肉親から離されて、知らぬ場所で孤独を感じておられた方なら、きっとわかって下さる。否、分ろうとしてくださる、と」

姫蝶は小さく、ふふ、と、笑った。

「本来、魂は千差万別。同じ魂などありはしない。そこにある心の波は、決して同じ形を持たぬもの。理解し合えるなど、幻想に過ぎませぬ」

姫蝶は急にはきはきとものを言い始めた。ややもすれば、冷たく突き放していると感じそうな言葉を、躊躇も無く放った。だが、それが却って心地よい。それが、本来の御魂の姿なのかもしれない。

 転じて、姫蝶はふっと優しい眼差しを九郎に向けた。

「だが、理解しようと思うことこそが美しいのだと思いまする。完全には添えない。完全には、分かり合えない。しかし、添おうと思うことこそに価値があるのです。相手の気持ちに寄り添い、慮り、労わる。それができることに意味があるのです。九郎殿」

九郎ははっとなった。

 姫蝶の後ろに奥の大天狗の姿を見たように思った。果たして、御魂という者は、同じような思考を持っているのだろうか。

 それとも、

「九郎殿」

一呼吸おいて、九郎にかけられた声は、柔らかく、そしてどこか不安定な、先ほどまでの姫蝶に戻っていた。

「どうか、焔岩に私の気持ちを届けて頂きたい。そして、焔岩の真意を聞いてきてほしいのです」

「しかし、私がうまくあなたの気持ちを伝えられるかどうかは……」

「あなたが思った通りのことを伝えてくれれば、それで」

「しかし、」

「どうか」

九郎には自信が無かった。白乙の時は本当に運が良かったのだと痛感していた。今度は上手くいくかどうかわからない。もし、うまくいかなかったら、本当に姫蝶は焼け死んでしまうのではと思うと怖かった。

 しかし、姫蝶は引かなかった。九郎の目を深くまで覗き込み、そして、

「どうか、九郎殿」

絞り出すような声を出して、深く深く頭を下げた。

「わ、分かりました。ですからどうか、頭を上げてください」

九郎は慌てて言った。

 断ることなど出来そうにないと思った。それなら全力を尽くすまで。最善の結果を出すために。

「姫蝶様、どうかひとつだけ約束してください。私は最善を尽くします。姫蝶様のお心を焔岩様に伝え、一度なりとも姫蝶様に会って頂けるよう説得します。しかし、私は見ての通りのただの人間の若輩者。焔岩様が私をどのように思われるかも分かりませぬ。万一、思うように結果が出なかったとしても、決して焼け死のうとはしないでください」

「それは約束しましょう。そなたが私の心に添おうとしてくれた。それだけで、私の孤独はだいぶ癒されています。だからこそ、あなたの頼みたいのです。あなたが成してくれた事の結果であれば、どのような結果になろうとも受け止めましょう」

姫蝶の瞳は濡れながらも穏やかに輝いていた。

 それは、一つの希望が見えて来たからかもしれない。それならば、何とかその光を消さずに、良い結果を届けねばと、九郎は思った。

「承知、しました。どうか、早まらずに。それだけは」

「はい、私も。」

そう言って、二人は静かに微笑みあった。

 きっとその先に、希望があると信じて。

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