第33話

 そして、巡って来た何度目かの秋。

 その日、九郎は秀衡と野駆けに出ていた。秋晴れの、さわやかな風の吹く日であった。弁慶は馬には乗れぬため、留守居をしていた。今頃は薪でも割っているだろうと、九郎は思った。実際、大きな形で弁慶は働き者であった。それも周りが彼を認める一つの要因であるかも知れない。実際、彼の怪力は何処へ行っても重宝された。

 二人は秀衡を前にして駆けていた。その後ろから供の者達が付いてくる 

 奥州は良質の馬が多く産出され、秀衡もまた良い馬を多く持ち、馬術に長けていた。九郎はそれを秀衡や、他の者達から習い、どんどん吸収していた。

「大分、うまく乗りこなせるようになりましたな。九郎殿」

速度を落とし、常足で進みながら秀衡が九郎に話しかけた。

 九郎は首を横に振った。

「そのような。まだまだにござりまする」

そう言いながらも、九郎は嬉しそうに顔を綻ばせていた。単純に褒められることは嬉しい。しかし、それに甘んじること無く、上達せねばとも思っていた。弁慶が来てから、九郎は武術や勉学に一層身が入るようになった。単純に薪割や掃除などで役に立っている弁慶に比べ、自分はまだ非力で何ら役には立たない。それに対する負い目はあった。そもそも弁慶が主である九郎にそんなことをさせるはずもない。それならば、せめて弁慶の主として少しでも立派でありたいと思うのだ。

 その九郎の変化を、秀衡は頼もしく見守っていた。

 二人は山の中の川岸に出た。それに続いて供のものも河原へ降りて来る。一行は馬を休ませ、自分達も水を飲んだ。

 周りに見えるのは何とものどかな風景だった。

 風は木々を通して秋の香りを運び、日差しも柔らかく降りている。流れる水の音は、心の中まで潤して行くようだった。遠くに見える山の木々は早くも赤や黄色に色を変えていて、今の季節が葉の色づく、実りの季節であることを教えてくれていた。気づけば、近くの木の葉も、僅かではあるが色づき始めている。

「この、豊かな自然が名馬を生むのですね」

九郎の言葉に秀衡は満足げに頷いた。

「良き馬を生むには血統も大事だが、その魂を育む環境も関わろう」

「魂、ですか。肉体に宿るものですね。死して後、冥府に降りるという。馬にもありましょうや」

「異なことを。この世に在りしすべてのものに魂はあろう。九郎殿のそれはお寺で培った知識ですな。確かに仏の教えでは死後裁きがあり、魂はその罪を雪いで新しく生まれ変わる、とか」

「は、そのように教わりました」

「されど、それが全てでもないのやもしれぬ。この世の理はもっと深く、人の知識の及ばぬ先にあるのやもしれぬな。儂は馬のみならず、全てに魂は在ると思うておる」

そう、こともなげに言う、秀衡の言葉が、何よりもその地の清々しい御魂を表しているようだった。

 しかし、九郎もそう思い始めていた。

 お寺で学んだ、書物の中の事。経典の中のこと。そのことが全て間違いだとは思わないが、もしかしたら、他にも様々な真実があるのかもしれない。

 ここ数年、九郎が触れて来た、奥州の自然はそう思わせるに十分だった。自然のみならず、そこに住む人々もまた、そこにある全ての御魂と共に暮らすかのように見えた。雨を願って空を見上げ、空にまします神に祈る。作物の出来を大地の神に問い、その豊作を感謝する。日照りに泣き、寒さに怯え、それでも日々を楽しみ、何か見えぬものを尊重して祈り、生きる。そんな人々が好きだった。

「良い風ですね」

「うむ」

強くも無く、弱くも無い。ちょうど心地いい風が吹いている。まるで風に意志があって、九郎達を労おうとしているようだった。

 暫しその風に身を委ねた。そこにいる誰しもが同じ思いであったと見え、誰も言葉を発しなかった。風の音が、子守歌のように心地よかった。そのまましばらく聞いていたら、全員が草に寝転がって眠ってしまったかもしれない。

 しかし、その安らぎは突然破られた。

「……?」

九郎の耳に、女の泣き声のようなものが聞こえた。か細く、消え入りそうではあるのだが、確かに聞こえる。

 九郎は辺りを見回した。しかし、他の人影どころか、変わった所も見られない。先ほどまで見ていた風景と、同じものがあるだけだ。

「九郎殿?」

秀衡が訝しんで声をかけた。九郎ははっとして秀衡を見た。

「秀衡様、女子の泣き声が致しませぬか?」

九郎の言葉に秀衡は首を傾げたが、試しに暫し目を閉じて耳を澄ませてみた。

 が、

「いや、風の音しか聞こえぬが」

秀衡は首を横に振った。

「……空耳だったのでしょうか」

九郎もそう思った。もう一度耳を澄ませてみても、先ほどの声は聞こえなかった。

 しかし、

(空耳ではありませぬ)

九郎の考えをはっきりと否定する声が聞こえた。それは頭の中に直接響いた、声ならざる声だった。しかし、聞き覚えのある声だった。

 九郎がその名を呼ぼうとした時、

「ゆきのか殿か。其方が泣き声とやらの主か?」

先に声に応えたのは秀衡だった。供の者は気づいていない様子である。どうやらゆきのかの声は秀衡と九郎にだけ聞こえているようだ。

(違いまする。泣いておられるのは姫蝶様にございます)

「姫蝶、様?」

九郎が問う。聞かない名前だ。

「はい。九郎殿には面識はござりませぬ。此度が初の御目文字となりましょう。今、近くにおられまする)

ゆきのかにそう言われて九郎は再び辺りを見回した。しかし、やはり誰の姿も無いように見える。

(上にございます)

まるで九郎のその様子を見ているかのようにゆきのかの声がした。その声に導かれて上を見ると、白銀に煌めく雉が一羽、そこにあった。

(姫蝶にござりまする。九郎殿になにとぞ、お聞き届け願いたい議がござりますれば、是非)

姫蝶はそういうと九郎の目の前に降り立った。そして、その姿は一人の女性に変わった。今の女性が着るような着物よりもずっと形が古いように見えた。それは、絵物語に見られるような昔の出で立ちであった。

「九郎殿のお噂は大天狗様、並びに白乙殿よりお聞きしておりまする」

姫蝶の赤い、紅を差したような唇が、可憐な声を紡ぎ出した。

(ああ、確かにこの声だ)

現実に響く声音が、先ほどの泣き声を思い出させた。

「どうぞ我が願いをお聞き届けくださりませ」

漸く事態を飲み込みかけた九郎の目の前で、姫蝶ははらはらと泣いた。

「姫蝶様。そうお泣きになっては話も聞けませぬ。どうぞお心を鎮められよ。九郎殿に何か、お勤めをと言うことですかな?」

秀衡が穏やかに言うと、姫蝶はか細い声で、はい、と、言い、涙を拭った。

「それは、奥の大天狗様もご存じで?」

九郎が訊いた。

(はい。そもそも、この件に関しましては奥の大天狗様にお話をさせて頂いておりました。その上で、大天狗様が九郎様にと申された次第)

九郎はやはり、と思った。

 白乙の時もそうであった。恐らくは今度のことも何か意味があるのだろう。

「承りましょう」

九郎は即決した。秀衡に目を向けると、黙って頷いた。九郎もそれに無言で応え、姫蝶に向き直った。

「それで、私は何を成せばよろしいでしょう」

(九郎殿は、空を駆けたことはおありですか?)

その言葉の意味を九郎は理解しかねた。飛ぶということだろうか。しかし、そのようなこと、そもそも出来ようはずもない。

「空を自在に飛ぶ、と言うことにござりましょうか。生憎ですが人の身にござりますれば、今まで空を飛んだことはござりませぬ」

(されば、此度、初めて空を駆けて頂きましょう。仔細は空の上にてお話いたしまする。私を信じてくださりますか)

九郎は頷いた。

 もはやそれを疑う気持ちなどない。彼等、御魂と呼ばれる者のことは白乙の件である程度の免疫は付いた。

(それでは、どうぞよろしゅう。秀衡様、ゆきのか様、九郎殿をお借り致しまする)

そう言うと、姫蝶はまた雉の姿に戻った。

 そして、彼女が九郎の頭上でひとつ羽ばたくと大きな風が起きた。

 九郎は思わず目を閉じた。すると、その風は九郎を包み込み、その体を高く、高く飛翔させた。

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