第21話

「夜?」

九郎は身を包む暗闇に反射的にその言葉を口にした。しかし、それほど時が経っていただろうか。水の中にあったのは、それほど長い時間では無いように思えたのに。

「いいえ、九郎殿。よぉ、ご覧くださりませ」

白乙の声に振り向くと、彼女はまだ水面の上に立っていた。暗闇ではあるが、彼女の真白の姿の所為か、闇の中で彼女の姿は明るく浮き上がり、発光しているようにすら見えた。

 彼女は、ふ、と笑みを浮かべると、頭上を指さし、指先でくるりと大きく円を描いた。九郎はその動きにつられるように周りに目を走らせた。

 暗闇に目が慣れると、あちこちにごつごつした岩のようなものが見える。それは、上にも、自分の足元にもあった。よくは見えないが、星と思しきものの仄明かりも手伝って、僅かに岩陰も認識できる。

 そして、今ひとつ気づいたことがある。短いながら白乙と会話した時の声が、不自然に反響していたのだ。昼なお暗い場所。声の反響。そのようなことが起きる状況で思い当たるものが一つある。

「ここは……洞穴?」

「御明察」

そう言って白乙は頷いた。

「光っているのは苔や石、そして、闇に光る性質を持つ生き物達です」

白乙がその白い手の平で大きく頭上を仰ぐと、それに呼応するように光が次々に瞬いた。それはまるで音楽を奏でているようにも見える。一つ一つに音があったのなら、白乙の手に呼応してその音を立てたなら、どれだけ美しい音色を奏でたことだろう。そしてその光景はただただ美しかった。

 九郎はその光の煌めきに暫し心を奪われた。一見して、それは星空にしか見えない。そこに限りがあることなど感じさせない、、無限の奥行き、広がりすら感じられる。まるで、ここが洞穴の中だということの方が嘘のように思えるようだった。

 光は様々に瞬き、色も各々違って見える。キラキラと誘うように輝いている。まさに、手の届かぬ星だ。それが、夜空の星でなく、石や生き物の光だとは。

(どのような仕組みになっておるのだろう)

そうは思っても、その謎は解けそうになかった。ただ、その光に何とも言えない命の、大地の神秘性を感じた。

「……世の中には、まだまだ私の知らぬことが溢れておりますな」

九郎はため息交じりに言った。その様子を白乙は微笑んで見ていた。だが、その笑顔をすぐに寂しさを写し始めた。

「九郎殿は、私よりは存じておりましょう」

「何を仰られますか。大天狗様のご縁とあれば、さぞかし深い洞察をお持ちでしょう。私など、つい先頃までは寺におりました。その中のことしか知らぬ、小物でありました。奥州に住まわせて頂くようになり、少しは見分が広まりましたが、まだまだ」

九郎が首を横に振りながらそういうと、白乙は哀し気に目を伏せた。そして身を翻すと、くるりと九郎に背中を向けた。

「私はこの洞窟から出たことはございませぬ」

「何と」

九郎は驚いた。とてもそのようには見えなかったからだ。それに、このようにか弱い女がこのような洞穴で一人生きて行けようか。

「この世に意識を覚えし時より、ずっとここに居りました」

その言葉を聞いて、九郎は白乙が人ではないことを思い出した。ややもすれば忘れてしまう。それほど、白乙は人と同じように思えたのだ。姿かたちのみならず、言葉、心、それらも人と何ら変わらない。

「しかし、先ほどは秀衡殿のお庭の池に……」

九郎の言葉に白乙は首を横に振った。

「あれは写身でございます。ゆきのか殿の存在そのものを足掛かりにさせて頂きました」

そう説明されても九郎にはその仕組みは分からない。怪訝な顔をしている九郎に白乙は少し考えた後、口を開いた。

「ゆきのか様を目印にして鏑矢を射たようなものです。矢の形は見えずとも、射手の姿は見えずとも、音は遠くまで届きましょう。その音で、矢の在処を慮り、射手の所在を知る。その音があの時九郎殿達が見ていた私の写身」

「つまり、体そのものは移動せず、白乙殿の姿の幻影を飛ばした、ということになりましょうか」

「その通り」

白乙は手を叩いた。

「仕組みをお分かりになられないことを案じておられるようですが、お気になさらず。それは大した問題ではありませぬ故」

「成程。結果だけ分かればよいということですね」

「いかにも」

「では、今私が目にしておりますのは、白乙殿の本体でありましょうや」

九郎は問うた。

 いつ入れ替わったのかは分からない。九郎にしてみればずっと白乙本体を相手にしているつもりだった。確かに、人の世の理に当てはまらない物を知ろうとしても、理解できない部分はどうしてもあるだろう。だが、できる限り知りたかった。そして、白乙が今尚幻影を見せる必要は無いように思えた。恐らくは、今は本体で接しているのだろうと思った。

 しかし、白乙は少し困った顔をした。

「そう、で、あるとも言え、また、そう、でなし、とも言えましょう」

「とは?」

九郎の追及に白乙は小さく息を吐いた。

「九郎殿の目には、私は外での姿と同じ、女子の姿で移っておりましょう」

「まさしく、」

九郎は頷いた。

 白乙は大きく一つ息をして、目を閉じた。その後で心を決めたように目を開き、

「どうぞ、お逃げになりませぬよう」

と、言った。

 意味が分からずにいる九郎の前で、彼女の白い身体がすうっと上へ飛んだ。否、飛んだのではない、彼女の胴が伸びた、と、言った方が正しい。

 白乙の白い着物の裾から見えるのは足では無かった。白く長い、胴体のような物が伸びていた。

「何と……」

それはするすると伸びて、白乙の顔を追う九郎の目線はどうしても上に言った。見上げる先のその姿を見ていると、身体が不自然に曲がり、やがて瞳が赤く輝いた。そうして、その輝きだけを残して人の姿が失せた。


そこにあったのは、白い大蛇の姿だった。

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