第20話

ごぼり、と、水の感覚が体を包む。

 十二単よりは軽装の狩衣ではあるが、衣を着たままでは泳げない。息もできない。

 と、

(九郎殿、息をなされよ)

頭の中に白乙の声が響く。

 止めよと言われずとも、誰でも自然に息を止めるだろう状況に於いて、その感覚のままで息をせよという。それは無理な話だ。九郎の身体はは水の感触を全身で受けている。地上に生きるものの性が、息をしようとしたところで無理な話であると訴えていた。

 しかし、所詮そう長くは止めて居られない。九郎は苦しくなって口を開けた。ごぼ、と、口から溜めていた息が出ていく。それも自分が水の中に在ることを再認識させる。

 しかし、吐いた息の代わりに口から入って来たのは新鮮な空気そのものだった。九郎は驚いて目を開けた。

 目の前には白乙の姿がある。微笑んでいる。それでいいのだと、頷いた。

 どういう仕組みかは分からないが、水の感触の中で、確かに息は出来ているようだった。それはとても奇妙な感触であった。

 さやさやと体を掠めていく水には、重たさが無い。衣服を着ているにも関わらず、水は衣に妨げられることなく、難なく傍を流れゆく。その中にいくつかの光があった。光の珠がいくつも水の流れに添って九郎の横を過ぎていく。時に遠くを、そして、すぐ傍を。近くを通り過ぎた光の中に何やら動くものが見えた。九郎が目を凝らすと、そこに人影が見えたように思えた。

(何だ?人が?)

(あれは時の残像にございます)

九郎の声なき呟きを白乙が拾った。息は出来ても、さすがに口での会話は出来無いようだ。頭の中に反響するような声で、白乙は言葉を送ってくる。彼女の口元は動いていない。

(水の流れは時の流れに似ておりまする。時にその流れの中の残像を水は写し取ります。あれは既にこの世には無い者の影)

そう、白乙の声が響くと、水の流れが速くなった。光の珠はいくつもいくつも高速で過行く。まるで、見られまいとするように。その中に、ふと、幼い頃の自分の姿があったように思えた。しかし、確かめる暇も無く、

(九郎殿、上がりまする)

白乙の言葉と共に、九郎は水の流れから浮き上がり、水の外へ出た。一度ふわりと宙に浮いて、静かに土の上に降りた。

 少しの間、離れていた土の感触がやたらに懐かしく、しかし、身体の重みにふらついて膝をついてしまった。

「まるで、陸に上がった魚の気分です」

九郎は少しばかり息をあげながら言った。おかしなもので、元の呼吸の仕方に戻っただけにも関わらず、一度水生の呼吸になれた体には地上の空気に違和感を感じた。

(息が、し辛い)

水生の息を地上の息に戻すために、九郎は数度大きく息をした。胸が空気を取り込むことを認めると、やっと呼吸が落ち着いた。

 その様子を白乙は小さく笑いながら見ていた。

 その笑いに照れたような笑いで返す。その後で、九郎はやっと周りを見渡す余裕を持った。

 そして、思わずため息を吐いた。

 

そこは、満天の星空の下だったのだ。

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