第15話

 大天狗との邂逅の後、数日は静かな時が流れていた。秀衡も政務に当たり、ゆきのかは何をしているやら姿を見せなかった。

 九郎は秀衡が貸し与えた書物を読んだり、時に武官の者に稽古をつけてもらったりと、気ままで穏やかな時を過ごしていた。

 やがて、秀衡より声がかかり、二人はまた、庭で会うことになった。

「一人にしてすまなかった。少々政務が立て込んでおってな」

そう言って秀衡は微笑を浮かべた。

「そのような、お忙しい時に気にかけて頂いて、」

申し訳なく思う。だが、今、政務に疲れているであろう秀衡に、その言葉よりも、言わねばならない言葉があると思った。九郎は、密かに喉の奥で咳をすると、

「ありがとうございます」

と、微笑んだ。それに秀衡もほっと息を吐いた。

「それで、如何であったかな。奥の大天狗様は」

庭に設えた池の畔で足を止め、秀衡は九郎に問いかけた。九郎は、は、と、小さく返事をして考えた。何と言えば良いのか、正直九郎にも分からない。たくさんのことを、感じ、考えた。それが在り過ぎて、全てを語るには言葉が足りない。

 ただ、何を感じたかと言えば、それほど難しくは無い気がした。優しさ、温もり、そして、得も言われぬ懐かしさ。

「鞍馬のお山を思い出しました。何とも言えず、懐かしく、嬉しい気持ちになりました」

「さもありなん」

ふっと秀衡は笑った。

「九郎殿は、お山が恋しいか」

「何と、」

「今からでも鞍馬に戻り、お山に在る方が九郎殿は平和に生きられるやもしれぬ」

秀衡はそう言って少し悲しそうな目をした。まるで、自分が無理に九郎を寺から出してしまったとでも、言わんばかりだった。

「何を仰います。寺を出たのは私の意志にございますれば、今更どうして戻れましょう。そのようなこと、考えたこともござりませぬ。後悔はありませぬ」

「喩え、この先外に在れば、己の身を戦火に投じることになるとしても、かな」

秀衡は、大天狗の言葉を意識している。それを思えば、九郎にもあまり大きなことは言えなかった。未だ自分の心すら、分からぬ以上。秀衡は九郎が思い悩んでいることを察し、静かに空を仰いで落ち着くのを待っていた。そして、静かに口を開いた。

「九郎殿は、何故にここに来られた。外に出られれば良いのであれば、どこでもよかろう」

「ご縁がございました」

「吉次か」

「は、」

「ここを、どう思う、というのは愚問であったか。先日大天狗様の元での言葉を聞くと、随分良く思ってくれているようだが」

「過言はございませぬ。思うた通りを申しました。秀衡様、ゆきのか様。御家来衆の皆様、こちらで出会った全ての人に縁を感じておりまする」

九郎はそこまで言って、少し言葉を止めた。一度、考えを巡らせ、もう一度口を開く。

「……先日、初めて殿様にお会いした時は、正直、何も分かりませんでした」

「ほぅ」

「私が寺で感じたのは、寺が自分の棲み処でなく、坊主が自分の在りようではないという漠とした想いにございます」

「ふむ」

「とはいえ、先日も申しました通り、己のすべきこと、成し遂げたいことが何であるかは分かりかねました。それは、今とて同じにございます」

九郎の言葉に、今度は秀衡が無言で返した。九郎は静かに続けた。

「ですが、今はそれを探し、知りたいという気持ちがございます。それは、ここで、秀衡様はじめとする皆様とお会いし、様々なことを学んでいく中で見つかると思いまする。自分がここへ、お山を出て、未知の場所へ足を踏み入れたのは、そういう意味があるのだと思いまする。それは、先日の大天狗様様とお会いしたことでより強く、感じるようになりました」

「……他のどこでも無く、ここ、奥州にて、か」

「は。ここでなくばならぬ何かがあるのだと。であればこそ、この地に導かれたのであると。それを探したく思いまする」

「ここではならぬ、何か」

秀衡は遠くの空、山を仰いだ。

美しい空だ。

美しい山だ。

美しい大地だ。

秀衡はこの土地を愛していた。

自然を愛し、そこに住まう人々を愛していた。

 ここに、人々が心から望む、楽土を夢見ている。その夢を、あるいは担う一端になるかもしれない者が、遠く鞍馬よりやってきた。

 初めは、逆にその夢を壊すものになる可能性を見ていた。それは今でも拭われたわけではないだろう。だが、九郎の役割は、もっと違う領域にもあるような気がしていた。

 そこに住まう者だけの考えは、どうしても狭くなる。一つの場所、一人の人間、限られた領域では見えなくなる物がたくさんある。

 九郎は確かにこの地では異質なものになるだろう。だが、その異質なものが入ることで、今までに気づかなかったことに気付くことができるようになる。それも確かだった。

 外から来た者が、何を見、何を感じるのか。

 この地で。果たして、何を。

 そして、何を得るのか。それは、お互いに、である。外の者が受け取る何か。そして、内側に在るものが何に気付くのか。

 静まり返る水面に投げられた一投の石。それが起こす波紋が、何を描くのか。

 そのことが興味深かった。そして、それは自分にも気付くべき何かがあるのだということだと、秀衡は感じていた。

「九郎殿」

「は、」

秀衡は穏やかに笑って九郎の手を取った。

「改めて、其方を歓迎しよう。よう来て下さった。この秀衡、九郎殿の後ろ盾となりて、全力を以ってお迎え致そう」

「そのような」

九郎は驚いて首を振った。

「否。言わねばなるまい。大天狗様は既に其方に伝えたが、儂からはまだ言うてなかった。恐らくは、九郎殿が歩む道に、儂の知るべきこともあると思うのだ」

「しかし、秀衡殿には既に大切な志がありましょう。今更何の道を求められると仰るのです」

「儂もまだまだ修行が足りぬ。儂の志のためにも、九郎殿の感じられることが必要と感ずるのだ。よしなに」

秀衡の温かさ、懐の深さに九郎の胸は痛み、また、温まった。大天狗も、秀衡も、大事な要となる者が挙って自分を認め、助けてくれるという。そのことが、深い安堵をもたらした。

(居場所が、ある)

それは、九郎が寺を出てからずっと付きまとっていた不安が、はらはらと身から剥がれ落ちるような感覚だった。

 未知の世界に恐ればかりを抱き、息苦しい中で生きるよりも、飛び出してみればこうして、居場所を見つけられる。力を貸してくれる誰かと出会える。そのことこそが、自分が正しい道にあるのだという証になるように思えた。

「勿体ない。私の方こそ、お世話になりまする。若輩の我儘、どうぞお許しくださりませ」

「何の、若輩のうちこそ、我儘に生きるものぞ。人のためなどと、まだ思わぬが良い。いずれ、今、付けた力で、否が応にも人のために働くようになる」

「私でも、そう成れましょうや?」

「其方が望めば、成れぬものなどあるまい」

「そのお言葉、大天狗様のようでござります」

九郎は微笑んで言った。それほどにその言葉は力強く、真実を示しているように思えた。

「ほぅ?あるいは私の口を借りて、大天狗が其方に伝えたのやもしれぬな。何せ目もお貸しした仲である故」

秀衡はそういうと、自分の目を指さし、笑った。九郎も声を上げて笑った。

 二人の笑い声が池に響いた。

 初めて、二人は心を通わせたような気がした。

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