第23話 三区への道筋

 秒単位の狂いもなくカプセルが開き、俺は悲鳴を上げそうになった。きれいな人が目の前で船を漕いでいる。

「落ちるなよ」

「寝ては……いない」

 嘘だ。おもいっきり首がかくかくしていた。急いで立ち上がり椅子から転げ落ちそうな彼を支えるが、心配無用だったようだ。アルネスは俺にバスタオルをかけ、さっさと部屋を出ていってしまう。用意されていたバスローブはなくなり、代わりに普段の衣服。それに着替え、俺はリビングに戻った。

「よっ」

「来てたのか。ご飯は?」

「食う」

「アルネス、代わるよ」

 焦げる前に火を弱め、フライパンを受け取った。三つの肉は、兎の肉だ。色や弾力も鶏肉に近く、生産性のあることから、最近は兎肉を食する機会が増えた。

 椅子に座るアルネスは眠いのかと作り終えるまでソファーをすすめようと思ったが、眠いんじゃない。俺の前ではあまり見せない顔で、近寄りがたい雰囲気。あれは、怒っている。普段ならカプセルから出た後、変わりないか、痛みはないか、など、親であっても親かとつっこみたくなるほど心配してくるのだが、今は感情の波が穏やかになるまであえて何もしていないように見える。

「サラダにオレンジ混ぜんなよ! 食いもんにフルーツを混ぜるの俺は嫌いなんだ」

「なんでだよ、ビタミンも摂れて美味いぞー。それにフルーツだって食べ物だ。今日は兎肉とオレンジサラダにジャムパン……そういやジャムだってフルーツだぞ? なんでジャムパンは許されるんだ?」

「それはな、美味いからだ」

「タイラー、黙って食え」

 タイラーが来ると静かな食事とは言い難いが、今日のタイラーも、少し遠慮のある話し方だった。アルネスを気にしてか、淡々と肉を口に運ぶ。

「タイラーは何しに来たんだ?」

 緊張感に耐えきれなくて、俺はついに口を開いた。おとなしいタイラーは見ていられない。

「お前、ドラッグの症状出たんだって?」

「うん……別に使ったりしてないんだけどなあ」

「湖に行ったときにやられたのかもな。あの辺は政府の奴らもうろうろしていた場所だ」

 おおよその話はアルネスから伝わっているのだろう。アルネスを見ても、ジャムパンから視線が離れず、黙って口に入れていた。美味しいようで何よりだ。

「タイラーが来たのは、今回の件と関係があるってこと?」

「ああ。俺の大工仲間も、軽いが幻覚症状が出て一日床に伏した。お前と同じく湖に行っていた。どうやら三区のアンドロイドが関わっているらしい」

 アルネスは食べ終わり、テーブルに視線を張り巡らせた。俺は目の前にあったシュガービーツの薄切りを彼の近くに置いた。

「お前は三区に行ったこと……ないよな?」

「ない。一区も三区もないよ。基本的に外を出歩くときはアルネスと一緒だし、そんな遠くへは行かない」

「俺たちは三区に出入りは全くしないわけじゃねえが、ほとんどしない。治安も良くねえ」

「なんか、回りくどくないか? 結局何が言いたいんだよ」

 言いたいことの先が読めない。ピンと張った緊張の糸は、緊張しすぎてプルプル震えている。アルネスの目は言いたいことがあるならさっさと言え、だ。けれど何か知っている。フォークの持ち方がおかしくなっているのはタイラーだけだ。

「三区に行ってきてほしい」

「………………俺が?」

「はい」

 タイラーが「はい」。おかしすぎて空気清浄機が壊れないか心配だ。

「待て、わけを話す。湖で三区の奴らがおかしな動きをしていたのは見たが、実際に薬の受け渡しがあったかどうかは誰もはっきりとは見てねえんだ。きっと今は場所を変えてるはず」

「それを俺が行って、調べてこいってことか」

「察しがいい」

 一瞬、タイラーの目はアルネスを映した。

「ほら、お前が三区もうろうろできれば、活動の幅が広がるだろうし」

「後付けの理由にしか思えない……。顔の割れていない俺の方が都合が良いってことじゃないのか」

「…………察しがいい」

 二度目の察しがいい、には、面目ないという思いが読み取れた。

「二区と三区の分かれ目のところにバーがあって、そこで酒を一杯飲んできてほしいんだ」

 アンドロイドが密集し、薬の取引ならば圧倒的に怪しい場所だろう。

「バーなんて初めてだよ」

「酒は飲めるか?」

「飲んだことない。料理に使うお酒なら舐めた程度だけど」

 以前にハクに飲ませるためにエッグノッグを作ったことがあった。あのときにアルネスに酒を買ってきてもらったが、エッグノッグの一部になっただけだ。

 アルネスは好物を摘まんでいるというのに、つまらなそうな顔のまま遠くを見つめている。

「あー、そういうことか」

 見慣れない瓶がテーブルに鎮座し、二人が何も言わないために俺も特に疑問を口にしなかった。透明な茶色の瓶にラベルが貼られ、中には液体。大人のたしなみ。

「試しに飲んでみ」

「アルコールはどのくらい強いんだ?」

「……大したことない」

「今の間が気になるけど」

 空っぽのグラスに流れる液体は無色透で、鼻にツンとする香りが広がる。もう一度、アルネスを見た。眉間の皺が無理をするなと訴えかけている。気持ちは伝わった。

 グラスを傾け、とりあえず一口だけ口に含んだ。まろやかな液体からアルコールの尖った匂いが広がり、喉に流し込む。焼けるような熱さが徐々に下に向かっていき、胃も驚いている。

「飲めなくは……ない」

 ぎりぎりの答えだった。美味しいや不味いは置いておいて、飲めなくはない。

「種類はいろいろある。これやるから身体慣らしとけ」

 必要最低限の言葉を並べ、タイラーは逃げるように出ていってしまった。残ったのは俺とアルネス、そして持ち主となった俺にあまり好かれていない寂しそうなアルコール。度数はどのくらいなんだろうか。

「ノンアルコールの飲み物は出されない。千年以上前から存在するカクテルもある」

 タイラーが持ってきたアルコールは主体となるもので、これだけで飲む場合もあるが、ほとんどは何かとミックスしたものが出されるらしい。

 飲んだ記憶もないし、カクテルにも詳しくない。けれど、カクテルなんてどこか懐かしい響きだった。常に側にあったような、発音のしやすい言葉で、響きがかっこいい。

「どうせなら甘めのカクテルがいいな」

「お前の好きなミルクを混ぜたものもある。が、絶対に注文するな」

「なんで?」

「バーテンダーは客の顔を覚えている。甘めのものは、アルコールを感じにくい。わざと強い酒を混ぜて鈍らせた後、金銭を根こそぎ奪う。治安の悪い場所だということを忘れるな」

「分かったよ。何なら注文していいんだ?」

「ビール」

「ビールあるのか……っていうか、度数は弱いんだっけ? カクテルでもなんでもないじゃんか」

「弱くはない。だが、味にごまかしがきかない。タイラーの持ってきたものはビールよりも度数が上だ」

「それで飲み慣れろってことか」

 無色透明は柔らかな印象を与えるのに、なぜこうも正常な判断を奪い、眠気を無理やり押しつけてくるのか。

「ビールでも変なものを入れられてたらアウトだよなあ。無味無臭のドラッグとか」

「……解毒剤は用意する」

 独特の間を保つのはいつもだが、今日はいつも以上に言葉が重い。重みがある。泥や瓦礫のある道ではなく、一つ一つの正しい選択肢を導いている。

 アルネスなりに言いたいことはあるんだと思う。けれどそれを押し留めるまでにタイラーたちと諸々な事柄があったはずだ。俺が初めて苦い酒を飲んだときのような顔をしている。分かりやすいけれど、ここは知らないふりをするべきだ。心配性の彼に、心配をさせないためにも。

「…………私は、」

「おう」

「お前が、一番、大切だ」

「伝わってるよ」

「お前が望むのなら……三区の奴らを……しても構わない」

「お、おう……」

「それほど、大切だ」

「痛いほど突き刺さったよ。アルコール以上にぐっときた」

 落ち着け、落ち着けと、アルネスの肩を叩いた。恐ろしい言葉は聞かなかったことにするのが一番良い。

 その後は三区を歩くための注意事項を永遠と聞かされた。奥底に眠り続けていた記憶が少し蘇った。学校のような場所で口を開く大人は、あまりに話が長すぎて、何を言いたいのか理解不能だった。今なら分かる。愛情が加わるだけで、こうも心地良いと感じるものなのだ。

「俺はアルネスの作る薬も信じてるし、これから念入りに行う段取りもしっかり決めていきたい。だから、アルネスも俺を信じてほしい」

「…………できる限り、善処しよう」

 一瞬、目が明後日の方向を向いたが、彼も分かってくれたと信じたい。

 そんなやりとりがあって数日だ。シルヴィエ特製のフードつきマントをもらい、頭から被ると衣服もすっぽり隠れる仕様だ。アルネスの「拳銃以外の武器も隠せるな」には愛想良く振りまいて丁重にお断りし、いよいよ外に出る。

 正真正銘、ひとりなのだ。アルネスもタイラーもいない。ちょっと危険な初めてのおつかいだ。地図は頭に叩き込んだが、看板と道筋に沿っていけばまず迷わないだろう。

 治安の悪さに関しては聞いていた通りなのでさほど驚きはない。物乞いや四方八方からの射抜く視線は肌に突き刺さるほど痛い。

「おや、ごめんなさいねえ」

 ローブを頭から被った老婆が、すれ違いざまに俺の方へ倒れてきた。助けたいところだが、心を鬼にして避けた。地を擦ると砂埃が舞う。

──近づく子供や老人は物取りだ。絶対に触れるな。

 有り難いお言葉が木霊している間、老婆は盛大な舌打ちをし、すたすた真逆の方角を歩いていく。

──情けをかけるな。

 了解です、父上。そう言った途端にアルネスは何とも言えない張りつめた顔をして、ソファーに足をぶつけていた。

 すれ違うアンドロイドたちは俺を気にする者、まったく気にせず通り過ぎる者、様々だ。グロテスクな花を売る少女は俺の方へと近寄るが、目も合わせずさっさと横を通り過ぎた。心が痛い。ばれていないと思いたい。

「ここか……」

 外壁はしっかりとした作りで、煉瓦とトタンを融合させた、三区には珍しい建物だった。

 心臓の激しい音は、空気に入り混じる毒素のせいではなく、緊張からくるものだ。そう思い込み、俺はバーのドアを開けた。

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