量子的な七瀬薫の認知に於ける浮動的重複に関する逆説
ペトラ・パニエット
終章:間(i==i)。
「量子的には、あらゆるものは波動であり、観測するまではあらゆる可能性が存在するのよ」
というのが、
その言葉の次に「だから、今こうしてただいまをいった相手がぶすっとした同居人じゃなくて、素敵な伴侶になっていることもありうるのよ」と続くものだから、私はそれをていのいい妄想の言い訳なのだとずっと思っていた。
――だから、彼女が突然跡形もなく『消えて』からだ。
私が量子について考えるようになったのは。
世界における事象は、観測されたならば、事実である。
であるからして、個人が跡形もなく消滅するという現象は、事実として存在する。
そして、観測されていないならば、常に存在しない可能性と今だ観測されていないだけで存在する可能性が重なりあっている。
猫の例え話はそのナンセンスさを説いたものだが、それでも量子において考えるならば「無視できる程度に起こり得ない」だけであり、存在する可能性はそこにある。
パラレルワールドは仮説、別世界の相互共鳴は空想、都合のいい話は妄想――証明の悪魔はすべてを肯定する。
そもそも、端から言うなら量子こそ不明であり、七瀬薫の語る量子論の量子論的正しさは量子的に不確実であるが、七瀬薫の量子論が正しいという説を認知によって肯定する。
認知は一人だ。
我々は常に一人であり、認知とは一つの
エゴ以外は常に存在しない量子的可能性がある。
いや、エゴさえ錯覚やもしれぬ。
しかしながらエゴこそが基点であるからして、自己選択的な可能性の選別を行わなければならない――認知は現実の上のレイヤーにある。
可能性を考慮する。
七瀬薫という可能性はあらゆる解釈を持つ。
彼女の願望通り、超次元的な空隙に落ちるなどして量子的可能性に跳躍した可能性がある。
あるいは、超次元的空隙には落ちたものの、願望とは異なる可能性に跳躍した。
なんらかの不明な力が観測不可能な領域に七瀬薫を持ち去った。
七瀬薫はいなかった。
七瀬薫の不在という可能性に私が落下した。
恐るべき奇病により原子の段階まで拡散した。
これは夢の中である。
偶然、見つからない状態が続いている。たとえばスマホは電池切れであり、どこかをさ迷っているが便りがないだけ。
死んでいるが、それを受け入れられない。
私こそが七瀬薫であり、なんらかの原因で同居人の意識になっている。本来の同居人は消滅。
他者との記憶の完全なスワップ。
キャトルミューティレーション。
透明化。
認知的死角。
私たちは互いであり、そのために――
同じものを見れば、七瀬薫と私の距離は近づく。
同じであるということは、一般に、違うということより近いはずだ。
いつもの位置で、いつもの言葉を繰り返す。
取りうる全ての時間の七瀬薫を感じ、認知上、接近する。
ギャップ、間のものが少ないほど合致するはずだ。
時間的な空間的な存在的な物性的な精神的な霊的な七瀬薫との軸を一つ近づける。それを何度でも繰り返す。
条件が同等なら、同じ可能性に到達する。
時の致命的なずれを合わせて、ようやく同じ可能性にたどり着いて。
そして全てを知り、七瀬薫を理解する。
人は、一人だ。
他者が存在せず妄想である可能性は、常に量子的に存在する。
私と七瀬薫は共に暮らした。
覚えている。
認識するまで、パラドクスには存在しない可能性が付きまとう。
量子的な七瀬薫の認知に於ける浮動的重複に関する逆説 ペトラ・パニエット @astrumiris
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