六章 不可視の殺人

六章 不可視の殺人 1—1

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 香名が帰ったあと。


「猛がこれ、蘭さんに渡してくれって」


 声がしたので、水魚はふりかえった。

 薫が立っていた。

 どうやら柱のかげから、香名との密会を見ていたらしい。

 いじけたような顔をして、水魚に封筒をわたしてきた。


「じゃ、僕はこれで」


 まあ、彼に見られたからと言って、問題はあるまい。

 あの弟くんは、どうも兄ほど出来がよろしくない。

 カワイイし、なにかと反応が楽しいのだが、兄のように油断のならない鋭さはない。

 兄のほうはほんとにあの人の再来かと思うほど、よく似ているのに。


(あのころの威さんが、そのままの姿で帰ってきたみたいだ。ほんの数年、離れていただけのよう。威さんは先年、亡くなったらしいが)


 水魚が兄弟の祖父、東堂威とうどうたけると出会ったのは、今から八十年も前だ。


 威は当時、自分の家にかかる呪いをとく方法をさがして、日本全国を旅していた。

 さんざん、あちこちを歩きまわり、先祖の住んでいた土地の歴史や伝承なども調べ、それでも呪いをとくすべは見つからず、失望してこの村に立ちよった。長寿の村があると、ウワサに聞いたからだ。

 だが、それは旅に疲れた心と体を休息させるのが目的で、ウワサのほうは、はなから期待していなかったようだ。


 あのころ、まだ水魚は巫子ではなかった。

 村のふつうの青年で、ほとんど年の変わらない威が、自分の知らない、よその土地を、ひじょうに詳しく知っていることに感心した。

 子どもみたいにねだっては、さまざまな話をしてもらった。

 威は話し上手だったし、それに、なぜか気があった。


 いつも、三人で遊んだものだ。

 威、水魚、そして、雪絵。


(あのころは楽しかった……)


 数年は、あっというまにすぎた。

 いつのまにか威は、わが家に居候し、農作業を手伝いながら、藤村の伝承をしらべるようになっていた。

 よそ者をきらう村人から話をきくのは大変だったはずだが、威が雪絵と愛しあっていることは、誰の目にも明らかだった。村人のかたい口も、じょじょにひらいていった。誰もが、このまま威は雪絵と結婚し、村の人間になるものだとばかり思っていた。


 威の家系の暗い重荷は水魚たちも知っていたけれど、それは、おたがいさまだ。

 こっちにだって、人に言えない秘密は山ほどある。


 威はそれを知ってなお、雪絵を愛することを臆さなかった。

 二人は結婚を約束した。

 水魚もおおいに喜んだ。

 うまくいくはずだった。

 あるいは雪絵なら、威の家系の呪いをやぶる突破口になるかもしれなかったし。


 しかし、そのやさき、新たな巫子をえらぶ大祭が……。


 あのとき、雪絵をつれて逃げだすように言ったのは水魚だ。

 威も雪絵も、そんなことはできないと反論したが、水魚の決心はかたかった。巫子の暮らしがどんなにつらいものか、茜から聞いて知っていたからだ。


 威にだけ、その事実を明かした。

 そのうえで雪絵をつれて逃げてくださいと懇願こんがんすると、威は承知してくれた。


「おまえも来いよ。いっしょに行こう。いつも話して聞かせた、よその土地へ、今度はおまえ自身が行って、その目でたしかめるんだ」

「それは、できない」

「どうして?」


 ほんとは何もかも捨てて、威についていく道も惹かれた。

 心の底ではあこがれた。

 でも、それは許されないことだ。

 雪絵がいなくなり、そのうえ水魚まで逃げだせば、このさき村はどうなるのか。誰も守る者がいなくなってしまう。


「わたしはこの村に生まれた、この村の人間だから。ここでしか暮らせない」


 ガラスの鉢のなかから、広い小川をながめる金魚の気持ち。

 あきらめに似た幸福感。


 あのとき、水魚は悟ったのだと思う。

 自分は古い因習にしばられたこの村を、ときには、うとましく思い、憎み、嫌いながらも、でも、それ以上に深く愛しているのだと。

 威の自由な生きかたにあこがれながら、その生きかたを自分もしてみたいとは、決して思っていないのだと。


「さよなら。威さん。雪絵と幸せに」


 威は説得をあきらめたのか、たまに見せるあの不思議な技を、最後にもう一度、始めた。

 そこに彼は何を見たのだろうか。

 かすかに笑った。


「わかった。元気でな。次に会うときまで」


 次に会うとき?

 威はいつか、ふたたび、この村へ来るつもりだったのだろうか。

 それとも……。


 威と同じ名前の孫が村に来たとき、とても不思議な気分だった。

 ああ、やっと帰ってきてくれたのか。彼は約束どおり戻ってきた。


 そんな気がした。


(あるいは彼が見たのは、このことだったのか? 自分のかわりに、自分の孫が私に会うことを知ったのだろうか)


 だから笑ったのか? あのとき。


 しかし、今さら運命は変えられない。

 水魚は巫子になる道をえらび、巫子として生きてきた。


 巫子になるということは、鬼神になることだ。

 あるいは、いけにえ?

 そのどちらでもある存在。

 人の心のままでいられるはずがない。


 私は鬼だ。大蛇だ。

 たとえ世界が滅びてもいい。

 世界中の人間を犠牲にしてでも、この村を守る。

 いや、もっと究極に言えば、自分の愛する者だけ守られれば、それでいい。


(研究所さえ来なければ……)

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