六章 不可視の殺人
六章 不可視の殺人 1—1
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香名が帰ったあと。
「猛がこれ、蘭さんに渡してくれって」
声がしたので、水魚はふりかえった。
薫が立っていた。
どうやら柱のかげから、香名との密会を見ていたらしい。
いじけたような顔をして、水魚に封筒をわたしてきた。
「じゃ、僕はこれで」
まあ、彼に見られたからと言って、問題はあるまい。
あの弟くんは、どうも兄ほど出来がよろしくない。
カワイイし、なにかと反応が楽しいのだが、兄のように油断のならない鋭さはない。
兄のほうはほんとにあの人の再来かと思うほど、よく似ているのに。
(あのころの威さんが、そのままの姿で帰ってきたみたいだ。ほんの数年、離れていただけのよう。威さんは先年、亡くなったらしいが)
水魚が兄弟の祖父、
威は当時、自分の家にかかる呪いをとく方法をさがして、日本全国を旅していた。
さんざん、あちこちを歩きまわり、先祖の住んでいた土地の歴史や伝承なども調べ、それでも呪いをとくすべは見つからず、失望してこの村に立ちよった。長寿の村があると、ウワサに聞いたからだ。
だが、それは旅に疲れた心と体を休息させるのが目的で、ウワサのほうは、はなから期待していなかったようだ。
あのころ、まだ水魚は巫子ではなかった。
村のふつうの青年で、ほとんど年の変わらない威が、自分の知らない、よその土地を、ひじょうに詳しく知っていることに感心した。
子どもみたいにねだっては、さまざまな話をしてもらった。
威は話し上手だったし、それに、なぜか気があった。
いつも、三人で遊んだものだ。
威、水魚、そして、雪絵。
(あのころは楽しかった……)
数年は、あっというまにすぎた。
いつのまにか威は、わが家に居候し、農作業を手伝いながら、藤村の伝承をしらべるようになっていた。
よそ者をきらう村人から話をきくのは大変だったはずだが、威が雪絵と愛しあっていることは、誰の目にも明らかだった。村人のかたい口も、じょじょにひらいていった。誰もが、このまま威は雪絵と結婚し、村の人間になるものだとばかり思っていた。
威の家系の暗い重荷は水魚たちも知っていたけれど、それは、おたがいさまだ。
こっちにだって、人に言えない秘密は山ほどある。
威はそれを知ってなお、雪絵を愛することを臆さなかった。
二人は結婚を約束した。
水魚もおおいに喜んだ。
うまくいくはずだった。
あるいは雪絵なら、威の家系の呪いをやぶる突破口になるかもしれなかったし。
しかし、そのやさき、新たな巫子をえらぶ大祭が……。
あのとき、雪絵をつれて逃げだすように言ったのは水魚だ。
威も雪絵も、そんなことはできないと反論したが、水魚の決心はかたかった。巫子の暮らしがどんなにつらいものか、茜から聞いて知っていたからだ。
威にだけ、その事実を明かした。
そのうえで雪絵をつれて逃げてくださいと
「おまえも来いよ。いっしょに行こう。いつも話して聞かせた、よその土地へ、今度はおまえ自身が行って、その目でたしかめるんだ」
「それは、できない」
「どうして?」
ほんとは何もかも捨てて、威についていく道も惹かれた。
心の底ではあこがれた。
でも、それは許されないことだ。
雪絵がいなくなり、そのうえ水魚まで逃げだせば、このさき村はどうなるのか。誰も守る者がいなくなってしまう。
「わたしはこの村に生まれた、この村の人間だから。ここでしか暮らせない」
ガラスの鉢のなかから、広い小川をながめる金魚の気持ち。
あきらめに似た幸福感。
あのとき、水魚は悟ったのだと思う。
自分は古い因習にしばられたこの村を、ときには、うとましく思い、憎み、嫌いながらも、でも、それ以上に深く愛しているのだと。
威の自由な生きかたにあこがれながら、その生きかたを自分もしてみたいとは、決して思っていないのだと。
「さよなら。威さん。雪絵と幸せに」
威は説得をあきらめたのか、たまに見せるあの不思議な技を、最後にもう一度、始めた。
そこに彼は何を見たのだろうか。
かすかに笑った。
「わかった。元気でな。次に会うときまで」
次に会うとき?
威はいつか、ふたたび、この村へ来るつもりだったのだろうか。
それとも……。
威と同じ名前の孫が村に来たとき、とても不思議な気分だった。
ああ、やっと帰ってきてくれたのか。彼は約束どおり戻ってきた。
そんな気がした。
(あるいは彼が見たのは、このことだったのか? 自分のかわりに、自分の孫が私に会うことを知ったのだろうか)
だから笑ったのか? あのとき。
しかし、今さら運命は変えられない。
水魚は巫子になる道をえらび、巫子として生きてきた。
巫子になるということは、鬼神になることだ。
あるいは、いけにえ?
そのどちらでもある存在。
人の心のままでいられるはずがない。
私は鬼だ。大蛇だ。
たとえ世界が滅びてもいい。
世界中の人間を犠牲にしてでも、この村を守る。
いや、もっと究極に言えば、自分の愛する者だけ守られれば、それでいい。
(研究所さえ来なければ……)
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