三章 不協和音の連鎖 1—4
*
明かりの消えた暗い八畳間で、しばらく蘭は身動きできなかった。見てはいけないものを見てしまった。
この一年間、自分は三人での共同生活は、すこぶる、うまくいっているものと思っていた。
蘭は楽しかったし、蘭が思うように、猛も薫も楽しいと感じているのだと。
でも、それは自分の勘違いだったのかもしれない。
猛が蘭のことを、あんなふうに思っているなんて知らなかった。
水魚のことを相談したくて、猛のあとを追った。
……いや、違う。それは口実だ。
本当は、百合花のことを話す猛は、いつもの泰然とかまえた彼の
今、猛の手をはなせば、一直線に好きな女のもとへ走っていく。
薫のことも、蘭のことも放りだして。
そう思えた。
だから、追っていって、そこで聞いたのだ。猛と香名の会話を。
「ありがとうございます。このへんはプロパンガスだから、お風呂にまでガスを使うと、すぐ切れちゃうんです。男の人がいてくださると、ほんとに心強いですね」
なんでか猛が薪を割っている。
「こんなこと、いつまで続けるんですか?」と、猛。
「こんなこと?」
「女の人が一人で暮らすには、不便すぎるじゃないですか。外に出たいと思ったことはないんですか?」
香名は風呂がまに、猛の割った薪をなげ入れながら沈黙した。
それを見ながら、猛。
「あなたの言葉、ちっとも訛りがない。いったんは外へ出たんじゃないですか?」
「言葉は鷹斗さんが都会の人だから、いっしょうけんめい直したんです。笑われたくなくて」
「そう? おれにはムリしてるみたいに見えるけど」
「……どういう意味ですか?」
そのあと二人は無言のまま、それぞれの作業を続けた。
薪の、はぜる音。
手オノを使う猛の薪を割る音だけが続く。
「薪、このくらいでいいですか?」と、言ったあと、猛はポケットから何かを出して、香名にさしだした。
写真のように見えた。
もしかしたら、猛の撮った念写だろうか。
「これも、燃やしてください」
それを見た香名は、一瞬、こわばった。そして何も言わず、その写真をカマドにくべた。
「もう帰るんですか?」
「いや。まだ、いますよ」
「ずっと、いてくれたらいいのに。あなたや薫さん、蘭さん。三人とも、ほんとに仲がよくて、うらやましい。家族がいるって、いいですね」
すると、猛は笑った。
「家族? 蘭は違うよ。家族なんかじゃない」
気がつくと、蘭はその場を逃げだしていた。
家族じゃない。
そんなことはわかっていた。
蘭と東堂兄弟とは、なんの血のつながりもない。
ただの友だちだ。
でも、いっしょに暮らしていて、楽しかった。
恋にしばられない気安い関係で、家族のように錯覚していたのは、蘭だけだったのか。
蘭は動揺していた。
東堂兄弟は蘭の魔法がきかない
永遠にストーカーになる心配はない。
でも、それは裏返せば、蘭のことを決して特別には思ってくれない、という意味でもある。
運命の恋人に見せた、猛の必死な顔。蘭のためには、あんなふうに猛がけんめいになることはない。
(でも、かーくんが……かーくんなら……)
長いこと庭に立ちつくしていた蘭は、われにかえって家屋のなかに入った。
そこで香名と笑いあう薫を見た。薫が香名に惹かれていることには気づいていた。
そう。けっこう薫は惚れっぽい。たぶん、命のカウントが他人より急ピッチだから、それに負けないよう生き急いでいるのだ。
(そうだ。僕は勘違いしてた。今の生活は永劫じゃない。あと数年……長くとも十年くらいのうちには、猛か薫、どちらか一方は死んでしまう。もし、そうなれば、どうなる?)
生き残ったのが猛なら、薫という、この世で唯一、彼を安全圏につなぎとめていたストッパーがなくなり、百合花さがしに没頭するだろう。
そして、捜しあてれば、二人の世界へ行ってしまう。
残るのが薫でも大差はない。
兄を失った薫は深く悲しんで、今以上に愛を求めるだろう。
やっぱり、蘭は置いてきぼり。
(ああ、そうなんだ。最後に一人になるのは、おれなんだ)
おれだけ、一人。
おれはもう、誰かに恋することはできない。誰も信用できない。
“人間”が信用できないのに、どうすれば、その人間を愛せる?
だとしたら、一人にならないためには、どうしたらいいだろう。
たとえば、赤城さんを誘惑する。
猛たちと出会ったときの事件の生存者で、今でも交流がある。
赤城のほうは、同性の蘭を愛しているという。
蘭にはその趣味はないから、友達のままでいましょうと答えたが、赤城なら、きっと、蘭が望めば、いつまでも同居してくれる。
しかし、それには猛や薫のときとは違う犠牲が必要だ。いっしょに暮らせば、どうしても、相手をガマンさせておくだけではすまなくなる。赤城の心が離れないよう、肉体的な関係をむすばざるをえなくなる日が来る。ただ孤独をぬぐうためだけに払う犠牲だ。
でも、そうまでして赤城をつなぎとめても、そんな関係がいつまで続くだろう。
十年? 二十年?
こまったことに赤城は審美眼が人並み外れて厳しい。美に対して敏感なのだ。だからこそ、蘭の容姿にのぼせあがってるわけだ。
もし、蘭が年をとって、容姿がおとろえたら?
太ったり、髪がうすくなったり、しわやシミができたら、赤城はなんと思うだろう?
そのときになって彼が去っていったら、なんのための犠牲だったというのか。
蘭にとっては苦痛でしかない享楽に身をささげても、けっきょく、残るのは虚しさだけ……。
じゃあ、どうしたらいいのだろう?
ほかの人間が相手でも、結果は同じだ。
蘭のことを、好きになる人は、蘭の顔しか見ていない。
蘭が醜くなれば、こんな蘭は見ていられないと、泣きながら去っていくだろう。
(どうすればいいんだろう)
蘭は途方にくれた。
自分の力でどうにもできない壁にぶつかったのは、生まれて初めてだ。
(ひろみ……)
ひさしぶりに大海のことを思いだした。
あの事件で死んでしまった大海。
これから親友になって、いっしょに暮らそうと話していたやさきだった。
(やっぱり、君じゃないといけなかったんだ。君が僕の特別な人だった……)
今さら言っても、しかたないのだが。
大海はもう、この世のどこにも存在しない。
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