第66話 久々に笑った

 3月中旬、

 九門は、熊田さんのいう「お魚の美味しい店」の個室にいた。


 2か月ほど前に声をかけられてから、結局実現していなかった夕食が、結果的にこの日に回ってきたようなカタチだ。やはり誘ったのは熊田さんだったが、どうやら今回は随分と雰囲気が違う。


 なにしろ「助けてください」なのだから。


 ガラガラガラ……。


 個室の引き戸が開かれる。すこし息を切らした様子の熊田さんが入ってきた。


「あ、熊田さん、お疲れ様です」

「スミマセン、遅くなっちゃって」


 遅くなったといっても、たった10分ほどのこと。最近「どーでもいい」「まあいいや」あたりが口癖になりつつある九門は、何も気にしない。むしろ、どうやら急いで来てくれたらしい熊田さんに申し訳ないくらい。


 上着を脱ぎ、熊田さんはニコリと笑った。

「お腹空きましたね、お魚、いっぱい食べましょうね」

「うん」


 ふたりはビールで乾杯し、適当に自慢の魚メニューを頼む。刺身や煮物が次々に運ばれてくる。熊田さんは少々の世間話のあと、九門に切り出した。

「あの……、ずっと前に誘った時と、理由が変わっちゃいました」


「ん?」


 熊田さんは、箸を置いた。

「私あのとき、九門さんが何だか疲れているように見えて、ちょっとでも励ませたらって思って、お誘いしたんです。九門さんのこと助けたくて……」


 九門はグビッとビールを呑んだ。

「そっか」


「でも、いまは全然違う。助けてほしいのは私たちで……」

「……。」


 熊田さんの声が震えだした。

「九門さんがいなくなってから、もうウチの部署全然ダメで……。数字はずっと落ちてるし、雰囲気も良くないし、あんなにみんなイキイキと仕事してたのに…」


「……。」


 熊田さんが顔を上げた。目は真っ赤だった。

「九門さん、戻ってきてください。助けてください。あの部署を救えるの九門さんしかいません……」


「……。」

「……。」


「あのさ……」

「はい……」

「みんな、俺のことが邪魔だったんじゃないの?」

「え……??」


 九門、再びグビッとビールを呑み、ジョッキを置く。

「いつからか、なんか距離ができたっていうか……、誰も話しかけてこなくなったしさ、シマイにゃ異動だしさ」


「あの……」

「ん?」


 熊田さんもグビッとビールを呑み、ジョッキを置く。そして、何やら決心したような顔で、九門に告げた。

「九門さん、怖くなったっていうか、なんだか自分たちとは違う、凄く遠くて強い存在みたいになってて、声をかけづらい感じになってました。多分みんな……」


「……。」

「でも……」


「……?」


 熊田さんは鼻をすすり、話を続けた。

「ホントはみんな九門さんと一緒に仕事したいんです、あの頃みたいに。九門さんのオーラに負けてちゃいけないんです。もう逃げないし、頑張るから……、だから……」


 また声が震えだした。

「もう一度、私たちと……」


「……。」

「私、九門さんが……」

「分かったよ」


「……!?」


 九門、ニコリ。

「俺のほうこそ悪かったんだ。ヘンな空気出して、みんなを遠ざけちゃって。今度、課長と合田さんと話してみるよ」


 しかし「あ……」と付け加える。

「でも、部長がなんて言うか」


 熊田さんが遮る。

「それは……、大丈夫だと思います。部長は3月いっぱいで異動するそうです。4月からは課長が昇格して部長になるって聞いてます。で、合田さんが課長になるって」


「そうなんだ……。うん、分かったよ」

「また一緒に仕事できますか?」

「うん、話してみなきゃ分からないけど」

「九門さん、ごめんなさい。いつも私たち助けてもらってばかりで……」


「いいよ、謝らなくて。とにかく話してみるから」


「はい、ありがとうございます」

 熊田さんは涙を拭いた。


 ここでサッとハンカチでも出せればカッコいいのだろうが、九門はそんなものは持っていない。いつもトイレで手を洗った後、ジーンズの尻の部分でゴシゴシと手を拭いていることを思い出し、少し笑った。


 翌日、

 九門は、課長と合田さんに時間をもらい、緊急ミーティングを実施。聞けば人事委員会は明後日だという。まさに滑り込みのタイミングだった。


 ついこの間異動したばかりの九門を呼び戻すのは容易ではないが、絶対に成立させると課長は言った。次期部長として、これが最初の大仕事だと。


「はぁぁ~~~」

 2週間後に部長となるらしい課長は、大きく息を吐き、背もたれを後ろに倒した。


「?」


 課長、天井を見ながら、つぶやく。

「全部やり直しだよ。さっきのさっきまで、事業縮小と人員削減の『生き残りシナリオ』の資料を作ってたんだ。それが、この話のせいで全部やり直しだ」


 合田さんが笑う。

「そうですね、全面的に」


「ああ、資料は『再成長シナリオ』にチェンジだ」


 九門、ニコリ。

「それは大変ですね。頑張ってください」


「おいおい、他人事みたいに」

「もう~、頼むよ、九門さん」


「はい。あ……、それやめましょう」

「……?」


「僕のことは、『九門』でいいです。『さん』も『くん』もいらない」


「そうか、分かった」


 課長は告げた。

「4月から頼むぞ、九門」


 九門は頷いた。

「はい」


 なんだか、久々に会社の人とちゃんと話した気がする。

 久々に笑った気がする。

 自分を必要とする人がいた。

 みんなが敵なわけじゃなかった。

 大金を得たせいで考え方が狂い始めたのは夏ごろだったか。

 約半年もの間、自分は仕事に全力を尽くしていなかった。

 態度もメチャクチャだった。


 でも、そんな自分をこうやって迎えようとしている人がいる。

 頼られたことが嬉しかった。

 だから昨日の夜、熊田さんにすぐに返事が出来た。


 その後、九門は熊田さんにメールを送った。

「ありがとうございます」と。


 人に礼を言うのも、随分久々な気がした。

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