ひと匙の奇妙

Peridot

ロジャー・Dは誰もが知っている

 酒場「赤兎亭」の飲んべえたちは、ジンで濁った目をそちらへ向けた。店の戸をくぐって入ってきた、ひょろ長い体躯。のっそりと熊のような緩慢な動作。無精髭に覆われた顔は、青年とも壮年ともつかなかった。それでも泥酔した自分たちとはどこかが違う−アルコールの回りきった頭にさえ、それが見て取れた。酔いどれの波を掻き分けかき分け、男はカウンターにどっかりと腰を下ろした。

「ジンをください。」

妙に高く、はっきりとした声音で男は注文した。それが酒をちっとも浴びていない証拠だった。


―胡散くせえ奴だ。

赤くなった鼻を利かせるように、二度三度動かしながらマシューは独り言ちた。―ここは安酒場とはいえど、俺ら酔っ払いにとっちゃ大事な領分なんだ。

 いわばここがテリトリーであり、闖入者は排除すべきであると、樽のように膨らんだ腹のなかで思ったわけである。親分らしく見せようと居ずまいを正してから、マシューはおもむろにこう尋ねた。

「若えの、なんて名だ。」

すると男はくるりと振り向いてこう言った。

「マシューの親父さん。久方ぶりだなあ。」

 う、と虚を突かれてマシューはうめき声を漏らした。―こいつ、俺のことを知っているのか?俺の昔のダチか?ごま塩頭の曇った思考を一生懸命はっきりさせようと、マシューは首を振った。曖昧な記憶の霧は依然として濃く、深かった。

「私のことを覚えていてくれたんですか?」

柔和な口調で相手はなおも尋ねる。酒場などには似つかわしくない、品の良さが口元から溢れた。

「おう。お前とは確か、ああ…。」

「いやあ、随分ご無沙汰してしまって。」

「そうのようだな。」

「ご商売はいかがですか。」

「ご商売?」

「靴の修繕は。」

そのひとことで、マシュー親父は相手を信用するに至った。彼が日々グリースや靴墨に塗れていることは、紛れもない事実だったからである。

―するってえと、こいつはどうも俺の勘違いらしいぜ。

「見知らぬ男」という雲は段々と引っ込み、「つい忘れていた昔ながらの知り合い」という考えが代わりに頭をもたげた。

「そうだ、おめえの名は確か…。」

「ロジャーですよ。ロジャー・D。」

その名前はもう、看板のように男の風貌にくっついて離れがたいものとなった。


―やれやれ、親父も耄碌したね。

古靴屋のマシュー親父が陥落したのを見て取ったダニーは、水っぽくなったグラスを傾けながらこう思った。マシューとの付き合いは古いものだが、「ロジャー」などという名前は一度も聞いたことがなかった。そもそも、自分の知る限りロジャー・Dと名乗る男が、この街にやってきたことさえない。

―まあ、俺の知ったことじゃない。親父がよそ者(もん)に丸め込まれようが、大したことじゃないさ。

高みの見物を決め込んだダニーが自分の耳を疑うはめになったのは、間も無くのことだった。

「そういえば、洗濯屋さんは?ダニーさんはどうです。」

「あいつか。どっかその辺にいるはずだぜ。」

マシューのずんぐりした人差し指が、店内の暗がりを突き刺した。ロジャーと名乗った男の両目は、ひたとダニーの姿を捉えた。

「やあ、いましたね。ダニーさん、こっちへ来て飲みましょうよ。」

名指しされて、ダニーの千鳥足がカウンターにたどり着くまでに、時間はかからなかった。新しい席に着いたダニーの前に、新しいジンが注がれた。


―ほう。こりゃあ、なんとか上手くすればタダ酒にありつけそうだぜ。

ウィルは、自分の体という酒蔵にはまだ余裕があるのを確かめた。酒蔵が満杯になるまでしこたま酒を「仕込む」のが常であった。

―あの妙ちきりんな野郎のお仲間になりさえすりゃあ、あとはこっちのもんさ。飲むだけ飲んで、あいつにツケてやりゃあいい。

 そこでウィルは、自ら勇んでカウンター席なる高みを目指したわけだった。

「よう親友。まさか、俺の面あ忘れたわけじゃあるめえ。」

「ウィル!君に会えるとはね。さあ、こっちに座りなさいよ。」

さしものウィルも、名を言い当てられて一瞬たじろいだ。とはいえ、新しいジンやラムのグラスの燦然たる輝きには勝てなかった。ロジャーはウィルの好みのものを注文し、支払いは自分にと言付けた。それで十分だった。


 注文されたグラスを手渡しながら、赤兎亭のおかみ、デリラは訝しんだ。自分も客の付き合いでいくらか「聞こし召した」とはいえ、デリラの頭はまだはっきりしている方だった。船乗りが船酔いに慣れるように、長年酒場のカウンターに立っていれば、むしろアルコールが入っている方が調子がいい、というものだ。   

 客が何人も一緒くたになって飲むことは日常茶飯事だし、このロジャーとかいう男はどうやら金払いもいい。店にとっては上客だが、それでも「妙な客が入り込んだものだ」と思わずにいられなかった。

 そこで、知られぬようにほんの少しずつ酒代を水増しして様子を見ていた。この男の懐が寒くなるようなら、いずれは店から退散するだろうと考えて。

 ところが、何度酒を振舞っても、男の財布が軽くなる様子はなかった。

 デリラの水増しが止まったのは、良心のおかげではなかった。それは、ロジャーにこう言われたからだった。

「デリラのおかみさん、またあのポルカ踊りやってみせてくださいよ。」

 それは、デリラの若い頃に覚え、酒場の常連に披露してきた十八番だった。ロジャーはじめ男たちからやんやの喝采を受けたとあっては、伝票を書き換える手も止まろうというものだ。


 十数人の客がこの「赤兎亭」にひしめいていたのだが、酔いどれの酒の香りを嗅ぎつける鼻は誰もが持っていた。ウィルが第一陣を切ったのを皮切りに、我も我もと店の客がロジャーに寄っていった。ロジャーはその誰の名前も知っており、暮らしぶりを知っていた。記憶の中に置き去りにされた古い友人が、突然過去を破って現れ出たかのように、誰もがロジャーのことを思い出した。この町でロジャー・Dのことを知らない者はなかった。ロジャーを中心に、皆肩を組み、グラスを明け、調子っぱずれの歌を歌った。

 どんちゃん騒ぎは明け方まで続いた。

 騒ぎ疲れた連中が、一人残らず眠りに落ちた後、「赤兎亭」の戸口から出たひょろ長い影はまだ薄暗い朝靄の中へと消えていった。


一夜明けたとき、誰もがこう思った。


―ロジャー・Dとは一体誰だったのだ?

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