第91話 夢の旅路

 禄郎が眠りにつくのと入れ替わりに権田は目を覚まし、マスターに軽い飲み物を所望した。紋代もまだソファに横たわって眠っていた。マスターが拭き終わったグラスを並べながら様子を伺うと、権田は紋代の寝顔を眺めていた。紋代は例によってぼんやり薄くなって半透明になったり、しっかりと輪郭を取り戻したりを繰り返していた。


「モンダイさんに何か?」

「え?……いや」

「お飲物は何にされます? 今度はノンアルコールですね?」

「水を。例のおいしい水を」

「かしこまりました」

「あんた」

「はい?」

「夢の中に出てきた」


 そう。この店では人々は夢を見る。特別なカクテルを飲むことで。特別なカクテルは何種類もあって、それぞれがバラエティに富んだ夢を見せてくれる。客は自分で選んだカクテルを飲んで眠りに付き、そのカクテルが引き出す様々な夢を楽しむのだ。夢はその人の個人的な部分に触れるものが多く、一人ひとり違ったものとなる。自分だけの心の旅を楽しみに、数少なくはあるが固定客が訪れていた。


「夢の中にわたしが? それはそれは。どんな役でしょう?」

「おれの研究所で所長をしていた」

「権田さんの研究所なのにわたしが所長を? はい、おいしい水」

「ありがとう。おれは……オーナーなんだ」

「ははあ。研究所のオーナー。すごい金持ちなんですね」

「そうらしい」

「何を研究しているんです?」

「……ここに来る方法だ」

「またまた」


 紋代がうなり、みじろぎした。権田は水を飲むのをやめ、かん!と音を立ててグラスを置いた。どんな形であれ権田が感情をコントロールせずに表に出すのは極めて珍しいことだった。グラスの置き方には権田の動揺がにじみ出ていた。けれどマスターは何も言わなかった。やがて紋代がうっすらを目を開き、しばらく仰向けに横たわったまま天井に映し出される景色を眺めていた。マスターが紋代に声をかけた。


「おめざめですか?」

 いつもは礼儀正しくにこやかな紋代が珍しく返事もせず、黙りこくったまま目だけを動かしていた。半透明の紋代が黙って目玉をぎろぎろ動かしていると、いつになくそれは不気味な見世物に思えた。権田は少し明る過ぎるくらいの声で呼びかけた。

「どうした紋代、悪い夢でもみたか?」

 その瞬間、驚くほどの早さで紋代は権田に視線を飛ばし、それを見た権田は明らかに言葉に詰まったようだった。


「わたしは」紋代はようやくを口を開いた。「病院にいた」

「どうした。影が薄いのを治してもらいに行ったか」

 権田の軽口に取り合わず紋代は言葉を続けた。

「わたしは死ぬところだった。何もかも思い出して」

「何もかも思い出して?」

「そうだ。いまここでこうしていることも思い出していた」

「なんだって?」

「マスター」紋代はマスターに向き直ると言った。「さっきのカクテルの名は?」

「『入院』です」マスターは紋代の前に落ち着いて水を差し出しながら言った。「あまりいい夢じゃなかったみたいですね」

「わたしは死んだんだ」

「死んだ? 夢の中で死んだのか」


 再び権田の言葉を受け流し紋代はマスターに言った。

「あなたもいた。あなたはかつてわたしの研究所にいた」

「研究所?」

 マスターと権田が同時に言った。さっきの話を聞いていたのだろうか、それとも偶然同じ設定の夢を見ていたのだろうか。

 紋代は2人に向けて言った。

「わたしたちが見ているのは夢ではない」

 その時、眠りについたばかりのはずの禄郎が目を開き、誰にともなくつぶやいた。

「そうだ。これは、夢ではない」


(「入院」ordered by tom-leo-zero-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

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