第30話 不死身の魔獣

 同時刻――九番書庫にて。


 ジズベルトは光人たちがいなくなったことで自身の業務を再開していた。とうにレベッカの上司への連絡は済ませ、ソファに仰向けに寝そべって古ぼけた、いくつかページの抜け落ちた本を広げる。古い紙の臭いが広がるのもジズベルトにとっては最早日常の象徴であった。単調な恋愛の物語だ――類似するものを彼はすでにいくつも読み、記憶してきた。最初は好みの問題で読むのが苦痛だったそれも、いまや作業と化してしまったためにこれといった感情は浮かばない。

 時折ドアの向こうから人の声が聞こえるものの、それ以外はいたって静かな空間。しかしその静寂も、そう長くは続かないのが常である。


「しょっこちょーう。」


 ノックもなく開いたドア。間の抜けた呼び方で自分を呼ぶ声。嫌と言うほどに耳になじんだその声の持ち主――自身の部下である飯嶋コナツを、ジズベルトは仰向けに寝そべったまま、反り返るようにして見た。上下が反転したコナツが自分を呼んだにも関わらずきょろきょろと部屋を見回している。


「その辺の本崩すなよ。」

「既に崩れた形跡がありますよ?」

「さっき篠宮がやりやがった。直しとけ。……いや、やっぱりやめろ。お前にやらせると余計に酷くなる。」

「そうですか?まぁいいや。それより、その光人君たちはどこ行っちゃったんです?」

「奥の部屋から修行の旅に出た。」

「なんですかそれー!いいなー!かっこいい!私も行きたい!」

「お前は仕事をしろ。」


 用は済んだだろうとジズベルトは視線を外すが、そんな彼にコナツはそういえば、となおも話しかける。


「さっきレベッカちゃんが持ってきた本、見ました?」

「あぁ、読んだ。ちょうど良さそうだったんでそのまま修行用に今使ってる。」

「えっ!ヤバくないですか、それ。」

「あ?別に……レベッカの上司には俺から報告したし、篠宮も迅雷に許可取ったらしい。火燕焔神カエンホタルは知らんが。」

「そうじゃなくて、物語の方ですよぉ。」

「まぁ、世界中に巣を作っちまう気持ち悪い魔獣ってのはめんどくせぇな。だが、それを退治していって、親玉を潰す話だろ?わり似たようなのを見かけるし、そうやばいもんでもねぇだろ。一匹潰す程度ならストーリーを壊すことにもならねぇ。」

「いや、だからその魔獣。主人公の勇者様が持ってる聖剣以外だと、どう攻撃しても親玉潰さない限り永遠に再生し続けるらしいじゃないですか。基本不死身ですよ不死身。」

「なに……?」


 ジズベルトは目を見張る。単調な話だと思って読み流したせいで、その情報を見逃したらしい。背中を冷たい汗が伝うのを感じた。 慌てて上体を起こし、目つきを更に鋭くしたジズベルトに、コナツは詰め寄る。


「……まさか書庫長、そこ見逃したんですか!?」

「そうだよ!クソ……呪いのせいかこれも……!」

「言ってる場合じゃないですよ!早く光人君たちに知らせないと!」

「……いや、待て。」


 そのまま部屋の奥の扉へと走って行こうとするコナツを、ジズベルトは引き留めた。珍しく焦った表情のコナツがジズベルトの静止を聞いたのは奇跡に近いかもしれない。一応、真剣さは感じ取っているらしい。


「……あっちには火燕焔神カエンホタルがいる。アイツも一応司書長だ。おかしいと思えば退却くらいするだろう。」

ホタルちゃんがそんな甘っちょろいことします?死んだらそこまで、みたいな感じじゃないですか?」

「いるのは火燕焔神だけじゃない。レベッカ・シトロンもいる。あいつは確か火力馬鹿とは違って慎重派……退くべき時は退くだろう。通信機もあるし、何かあれば連絡くらい入れるはずだ。」

「えぇー……めちゃくちゃ心配。」

「そして、お前が行くと二次災害になりかねん。」

「えぇー!?」


 そんなことはないとばかりに不服そうにするコナツ。ジズベルトは本を置いた。そして深くため息。もう、ため息を吐き出すことも癖になってしまったようだ。


「一時間だ。一時間経って連絡もなく帰還もしないようなら俺が責任持って迎えに行く。」

「すぱーん!って三人があっさり負けちゃってたらどうするんですか。」

「……さっきも言ったとおり、あっちには火燕焔神がいる。あいつがいてそれはまずありえん。」

「確かにホタルちゃんは強いですけど……。時間の流れだってこっちと同じとは限らないし……。」

「いざとなったら修行そっちのけで、アイツは寿命が縮もうがなんだろうがエフェクト全開でなんとしても叩っ切るだろうよ。」

「……なんかそんな気がしてきました。」


 ひとまず頷いて納得したらしいコナツを仕事に戻るように促し、ジズベルトはそっと奥の扉を開ける。ひっそりとした書見台の上には開かれた本。そして淡く輝く三枚の栞。


「生き延びろよ、篠宮光人……。」




 ●●●




「……っ!」


 ガンッ!と音を立ててトカゲ頭の片方が光人のいるすぐ横の地面に突き刺さる。すんでのところで回避に成功した光人は転がるようにして魔獣から逃げる。先ほどからこの繰り返しであった。


 ――死ぬ。これは間違い無く死ぬ!食われる!


 長生きも、早死にもどちらもしたい理由は無く、アサヒが助けられるなら死んでもいいと思った。その気持ちに偽りはなく、今この状況でも問われればそう答えられるだろう。口がきけるタイミングさえあればの話だが。しかし光人は今逃げ惑っている。命惜しさに息を切らしている。――恐怖。純然たる恐怖が光人を満たしていた。


「おい光人!お前逃げてるだけじゃ修行になんねぇぞ!」

「そう言われても……!うわぁ!」


 火燕焔神の声が聞こえる。しかし不思議と魔獣の意識はそちらへと向かず、執拗に光人に狙いを済まして首を突っ込ませてくる。時折聞こえるレベッカの悲鳴にも反応する様子は無い。それが分かろうとも、どう活かせというのか。


「どうしろって言うんだよ……っ。」


 辛うじて刀は握っているものの、鞘はとうに落として既にどこにあるかも分からなくなっていた。抜き身の刀は回避の際に何度か光人自身を傷つけている。むしろ刺さらずに握っていられることの方が奇跡に感じていた。それほどに使い慣れないソレが、酷く頼りない。この状況がゲームでも、漫画でもない現実として目の前にあるのだと教えてくれるだけだった。

 光人には、今ここでこの化け物を斬り倒す力が自分にあるとは到底思えない。ひたすらに逃げ回るだけだ。それすらも、既に危うい。回避を持続できるだけの体力も精神力も無い。


 ――いきなり超能力に目覚めてすぐに戦える人って、どんな人なんだろう。


 大好きな漫画の、かっこよくて勇敢な主人公はこんな風に逃げ惑ったりしなかった。


 ――ああいう人たちも、最初は怖かったのかな。


 あくまでもフィクションである。恐怖は無かったのかもしれないし、恐怖よりも使命感が勝ったのかもしれない。あの勇敢さを手に入れるまでの経緯を、まだ知らないだけで。ただただ、自身に覚悟が足りなかったことを光人は思い知らされていた。覚悟だけではない、何もかもが――


「――光人!」


 レベッカの悲鳴が聞こえる。同時に一層鋭く突っ込んできたトカゲ頭。避けきれず、肩に砕かれたような痛みが走る。


「っ――あぁ――!」


 噛み千切られることはなかったものの、あまりの痛みに片膝をつく。すかさずレベッカが回復術を掛けたおかげで暖かい風が光人を包み込んで痛みを和らげるが、既に体力よりも――精神が限界であった。


 ――痛い。

 ――怖い。

 ――アサヒを、助けられない。


 魔獣の足音が近づいてくる。光人の眼前でそれは止まった。動きを止めた光人の様子をうかがっているらしい。


「N溘aaaQQQaaaaEaa――――――!!」


 まだ生きていると確信したのだろう。しかし同時に、獲物は虫の息であるとも分かったのか、魔獣が咆吼をあげている。その咆吼は怒りか、それとも勝利の歓喜か。光人には到底判断しかねる。その声を同時に聞いていたレベッカにも、火燕焔神にも、その判別はつかない。魔獣が動かない光人に狙いを定める。音が消えたような感覚。ゆっくりとした視界。脳裏に蘇るシーン。



 ――『ねぇ、その本好きなの?』

 ――『邪魔してごめん。でも、僕も好きだからつい。それの話しができる友達がずっと欲しかったんだ。』



 走馬燈だ、と漠然と感じた。教室。幼いアサヒ。暖かい日差し。揺れる桜の枝。甘い花の香り。――差し伸べられた、手。差し伸べられたアサヒの手を握り返したあの日。握手という行為を初めてしたあの日。ヒーローに、出会った日。




 ――怖い。

 ――アサヒが死ぬのが一番、怖い。




 光人はまた、転がるように魔獣の攻撃を避ける。しかし今度は――『前』に。魔獣の長く伸びた二股の首が背後で地面に突き刺さる音がする。それと同時に光人は刀を振るっていた。使い慣れていないせいか上手いこと切れ味を発揮せず、斬ると言うよりはひっかくようにして猪のような胴体にわずかばかりの傷を作った。魔獣がやはり叫ぶ。迷わず光人は刀をそのまま上へと振り上げる。魔獣の首にその切っ先が刺さる。刀を引き抜くのと同時に血が光人へと降りかかり、魔獣は激しく暴れる。死角に入ったおかげで魔獣は光人の姿を見失ったらしいが、暴力的な四肢が襲いかかる。


「まだ死ねない……!死にたくない!」


 光人も魔獣の首に向かって刀を振り回す。何度も、何度も、振り回す。そうしている内に――魔獣の足が光人の腹を蹴り抜いた。


「ぐっ……!」


 幸い鳩尾には当たらなかったが、胃液の逆流を感じた。よろめく光人に、魔獣は猛攻をやめない。今度は足が刀に当たり、刀身を砕く。その勢いに流されるまま、半分程度のところで折られた刀と共に光人は魔獣の懐から放り出される。砂利だらけの地面に体がぶつかり、そのまま痛みを伴って転がり、岩に背をぶつけることで止まった。

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