第24話 “自分の男”なんてものは持たねえ
白石は山中から切符を受け取って改札を抜けた。そしてしばらく考える。
「太ったホテルマンね……いないわけじゃないが、最初は太っていても、だんだん痩せるな」
「どうしてだ」
聞かれた白石は笑いだした。
「激務なんだよ。昼も夜もない仕事で、まとまった休日もろくにとれない。気がついたら昼も夜も、めし休憩ぬきで働きっぱなしっていうのもめずらしくない。ゲストの要求が最優先される仕事だからな」
「ははあ、井上を見ているとそれほど大変だとも思わねえがなあ」
「あいつは生粋のホテルマンだ。あのコルヌイエっていう巨大なホテルの鼓動と、何の違和感もなく同調して生きている。それを、不思議と思わずにできる奴なんだ」
「そんなやつはいない?」
「いない。井上みたいなのは、何万人に一人ってやつだな」
「ふうん。仕事が出来てきれいなツラをしていて、色気がある。怖いもんなしだな」
どうかな、と次第に人が降りて空きはじめた電車の中で白石が言った。
「あいつはあいつで苦労しているよ。なにしろ、あの親父さんだからなあ。ただ今はもう、本当に怖いものがないのかもしれない」
白石は右手で吊革につかまり、つぶやいた。
「今は、あいつの後ろに岡本さんがいる。このあいだも言っていたよ、“彼女さえいればこの世のどんなものとも戦える”って」
「純愛だな」
白石と並んで立ち、吊革を持っていた山中はのんきな様子でつぶやいた。
「いまどき、珍しいような純愛じゃねえか」
「まあこれまでは、井上もずいぶん遊んでいたけどな」
「浮気もしねえ男は男じゃねえよ」
そううそぶく巨体の男を白石は見上げた。
「あんた、それが自分の男でも同じことを言えるのか」
「言えるよ。そもそも俺は“自分の男”なんてものは持たねえことにしている」
「理屈ぬきで、シャツを脱ぐからか」
「セックスは前立腺の問題だって、割り切っているからだ」
「それ、さびしくないか?」
白石は尋ねた。
身長が190センチを超える巨体の男は、それなりに整った顔だちを電車のわずかな振動に揺らせて、だまって夜景が流れる窓の外を見ていた。
そして電車が駅に止まる直前に、ぼそりとつぶやいた。
「惚れた相手とのセックスなんて、夢のまた夢だよ」
★★★
その日から、白石の生活パターンは判で押したようになった。
早朝もしくは午前の早い時間にコルヌイエホテルに出勤し、夜勤明けの井上清春から引き継ぎを受けて、そのまま夜まで働く。
仕事上がりに山中の部屋に立ち寄ってめしを食い、風呂を借りて帰った。
山中の部屋は、いつ行ってもすさまじいほど散らかっていた。
ベッドスペースにしてある一部分だけはきれいに整っていたが、あとはもう足の踏み場もない。
40畳近くはあろうかというだだっ広いスタジオタイプのワンルームには壁に沿ってぎっしりとCDが積み上がり、小さなキッチンにたどりつくのが大変なほどだ。
部屋のすみにはコンパクトなオーディオセットがあり、天井の4か所から大きなスピーカーがぶら下がっている。
白石が行くと、いつもスタンダードのジャズがかかっていた。山中はどうもジャズが好きらしい。
大量のCDと頭上から流れるジャズに囲まれて、白石はめしを食う。
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