「しくしく恋ひわたり⑮幕間」『清く正しい愛なんていらない』
水ぎわ
「清く正しい愛なんていらない」
1「欲情を、煽るがごとく」
第1話 ”コルヌイエ育ち”
「あれっ、井上さんがロビーから出ていく。あのひと、今夜はもう上がりですか」
都内の老舗ホテル・コルヌイエのレセプションカウンターにいたアシスタントマネージャーの
目線の先には、2歳年下の後輩・井上の美麗な姿があった。
白石は腕の時計に目をやる。
夜の20時。
たしかにまだ早い時間だが、この巨大ホテルの宿泊部で白石とともアシスタントマネージャーをつとめる井上は、今日の仕事をすでに終えている。帰ってもいいはずだ。
白石はレセプションカウンターの中で軽く笑って、言った。
「いいよ。あいつのシフトは2時間前に終わっている」
そうですけどね、と峰は手早くカウンターのパソコンをたたきながら言った。
「井上さん、シフトオーバーが普通じゃないですか。こんなに早く帰られると、こっちの調子が狂うんですよ」
「勝手な言い分だなあ」
白石は温和な表情で笑った。
白石はコルヌイエホテルに入職してから11年のキャリアのある中堅ホテルマンだ。大学を卒業してすぐにコルヌイエに入り、そのまま勤めている。転職の多いホテルマンには珍しい
今年で33歳になる白石はふんわりと柔らかい雰囲気があって、周囲からの受けもいい。
レセプションカウンターの中で白石とともに立つ峰は、不思議そうに言った。
「おかしいよなあ……いつもなら井上さん、まだまだレセプションに残って俺たちの仕事をチェックしている時間でしょう」
白石はふわっと微笑み、
「あいつだって今はもう早く帰りたいだろう。あの美人のカノジョが家で待っているんだ。
お前たちが井上に仕事を押し付けているから、あいつがいつもシフトオーバーしなきゃならないんだぞ、気を付けてやれ」
ああ、と峰はにやりとした。
「俺だって、あんな美人がうちにいりゃ残業なんかしないでとっとと帰りますよ」
といい、それからしみじみと言った。
「よく考えたら、これまでがおかしかったんですよね。井上さんは、いつだってレセプションカウンターにいた。あのひと、休みの日だって出勤していましたからね。
ひょっとしたら、48時間以上コルヌイエを離れていたことなんてなかったんじゃないんですか」
「そうかもしれないな。井上は今でも働きすぎだよ」
白石がそう言うと、峰は笑った。
「そうでもないでしょう。この春から、井上さんはコロッと変わりましたよ。あの美人のカノジョさんと付き合い始めて以来、サクサク帰るようになったでしょう。
とくにこの2カ月ほどは、ちゃんと休みも取っているんじゃないですか?」
ああ、と白石はパソコンのデータを確認しながら笑った。
「二人で、休みを合わせているらしいな。彼女もシフト勤務だから」
「カノジョさんは、デパートで働いている人でしたっけね? いつ見てもきれいな人ですよねえ」
「なあ、おまえたちも井上にあんまり面倒をかけるんじゃないぞ。あいつにとっては、今が大事な時だから」
大事なとき?と峰はきょとんとした顔で聞き返した。白石は苦笑して若い後輩の頭をこづいた。
「これまでの井上は、3カ月ごとに女をとっかえひっかえしてきた。しかしあの女性とはもう半年も付き合っている。井上にとっては、初めてのちゃんとしたカノジョだ。
あいつのことだから、先のことももうきっちりとプランニングしてあるんだろう。察してやれよ」
「プランニング……えっ、結婚ってことですか?」
峰は驚いたように目を丸くした。
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