お試し

小雨路 あんづ

異世界魔王の就職先は出張心霊研究室(お試し)

 13段階段。

 その都市伝説をご存じだろうか。別名処刑や死刑を意味する物騒な名前を最初につけたのは、かの悪と名高いマリアベル王国の初代国王だったらしい。そこに支配者を表す「帝」をつけて呼ぶことを厭うものはいなかったということから、彼らの悪行の数々が見えてくる。

 噂によると、一段ごとに位が上がっていき13段目が一番の悪行を連ねてきたという。


 数々の都市伝説が生まれては消えていく町、埼玉県深谷市上柴町。

 かつて平凡に満ち溢れていたこの町は現代に生ける魔女・小宮の魔術によって異世界と接触し世界を守る結界にほころびが生じそこからたくさんの異世界、その住人たちがやってきた。しかしそこは魔女。一応深谷市に結界を張っていたらしく、異世界の住人であろうとも外に出ることはかなわないらしい。しかも魔女・小宮はこのことを大変申し訳なく思っていたらしく、結界の上に慈愛の膜と呼ばれる魔法をかけた。

 それはどんな暴力も暴行も殺傷も凶暴な思考すら芽生えなくなるというある種洗脳に近い考え方を、膜の中……つまり深谷市にいる異世界の住人、元々の住人に植え付けるものだった。植え付けるといっても別になにかされるわけじゃない。ただ普通に思い浮かびもしないだけだ。

 だからか、魔女・小宮がこの町に慈愛の膜をかけてから犯罪率はいつも0%だった、と今日家を出る時に観ていたテレビの中でコメンテーターらしき男が喋っていた。しかし、魔女・小宮の死後から10年。年々慈愛の膜は結界とともに薄れてきているらしいとも。


 なんとはなしに9時から開いている食料品売り場をうろうろしつつ、専門店が開くのを待つ。他にもまばらに客はいたが、なぜかみんな若い女の子たちでうるうの側を通り過ぎる時にぎょっと目を剥いていた。なぜだかわからなくて、潤は首を傾げた。

 一応トイレに入って服装がおかしいのかとチェックしたが特にそんなことはなく。背伸びをしてなんとか腰まで映らせた鏡にはストロベリーブロンドのに左はオレンジ、右は濁った赤の目。人間味のある白い肌に少女と見まごうばかりの可愛らしい顔立ち。多少ぶかぶかなのは大目に見てほしい拘束服と黒い半ズボンに長めの茶色いブーツ。ついでに言えば両手を拘束している留め具と首につけられた青い首輪の金具が電気にきらりと光る。

「必ず普段着で来てください」と言っていた電話越しの就職案内係に言われたとおりに面接を受けるためわざわざ新調してきた首輪なのだ。お祈りメールをもらうこと19回。今度こそ受かってみせるぞとご機嫌で面接を受けに、専門店街のまだ開いてないショッピングモールに来たのだが。


 ぱあんっ!!


 風船が割れるのに近い音がして、トイレから出てきた潤の顔に。潤に向かって走ってきた男がスプレーからなにかを吹きかけたことで、意識は闇の中に沈んでいったのだった。



「ねえ、大丈夫?」

「ん……ん?」

「あ、目が覚めたんだね」


 よかったと青年は白い眼帯をつけていない方の黒目を和ませて笑った。黒髪黒目、細身で口元も見えない白いマフラーと眼帯をつけてる以外は普通の青年だ。ただ、口元は見えないが笑うと目じりが下がってすごく人がよさそうに見えるななんて考えながら潤は首を傾げた。

はて、自分はいつ眠ったのだろうかと? とそこで思い出す。たしか誰とも知らない男になにかスプレーのようなものを吹きかけられて、その後の記憶がない。ということは、それで眠ってしまったのだろう。催眠スプレーの類だったのかもしれないと思い当たって納得する。

 とりあえずは。


「ありがと、大丈夫だよ」

「そっか、よかったよ。にしても君もClamity……あーさいなん? だね。強盗に巻き込まれるなんてさ」

「強盗?」

「おいそこ、べらべら喋ってんじゃねえよ。次は殺すぞ」


 妙に声を潜めて話す青年にあわせて潜ませながら会話をしていれば、途中から野太い男の大声が割り込んできた。

 なんとはなしにそちらを見れば、狐面をかぶった警備員の服を着た大柄な男ががちゃりと拳銃を向けていた。こわいと思う前に、ずいぶん遠くから気づくものだと感心してしまった。そもそもな問題、そんな距離から当てる自信があるのかと潤は問いたかったがとりあえず大人しくしといて悪いことはないだろうとそうすることにした。それは隣に手足を縛られた青年も同じようで、黙り込む。顎を引いてうつむいた青年をちらりと見てから、潤はとりあえず小さくため息をついて現状把握することにした。

 怯えた様子で十数人が大きな時計塔兼エレベーターのある大広間に集められ、大広間のど真ん中に手足を縛られている。丸を描くように座らされていた。それは潤も隣に座る青年もで。そんな人々を囲むように数人……見える範囲だと5人の狐面をかぶった男たちがいた。服装はてんでばらばらで、警備員の服を着た犯人もいたかと思えばどこかの専門店の制服を着ているものも、私服のものもいる。


(強盗って言ってたし、まず間違いなくショッピングモールに強盗がはいったんだろうなあ。手足もしばられてるし、1カ所に集められてることもそうだけどぼくたちが人質なんだろうね。……ぼくの手はしばられてないけど)


 この拘束服のせいで、自由に身動き取れないだろうからいいだろうと考えられたのだろうか。でも実はこれ簡単に留め具が外れるやつなんだけどとつらつら考えながら、潤は正面玄関の方を見る。潤が入ってきたそこはシャッターで固く閉ざされている。こういった制御を行うコントロールルームをすでに制圧しているということだろう。しかも警備員の服を着た犯人が本物の警備員なら、仲間に睡眠薬でも盛るなりして簡単に事が行えただろうと推測できる。

 大きくため息をつきたい気持ちをかみ殺していると、ふいに人質にわざと聞こえるようにしゃべっているのだろう。下賤な笑い声が耳に入ってきた。


「なあ、女って味見していいんだよな? やっぱ看護大が近くにあると女の子多くなるのな!」

「元、看護大な。俺はガキがいいなあ。ほら、あそこで首輪してるガキ」

「えー、お前ペドかよ。まああれくらい可愛ければありか」

「ってか首輪に拘束服ってSMだろ。もうどっかの金持ちのおっさんに飼われてんじゃねーの」

「おい、サツから電話あったぞ!」


 SMじゃねーよ。潤は人質の中でも怯える女の子たちが多い中、こっちに歩いてきようとした先ほどの警備員の服を着た男を射殺さんばかりに睨む。幸いなのか男は気付かなかったが、隣に縛られた青年が身をびくりと震わせる程度には迫力があったらしい。潤と彼女の大事な絆を、自らへの戒めをSM扱いするんじゃないという意図を込めての睨みだったが、思わぬところでとばっちりを起こしてしまったらしい。

 それはともかく、警察から電話があったとの一言で人質の周りをうろうろしていた男たちが集まるあたり、こちらがなにもできないと高をくくっているようだ。まあ、警備員の服を着た男だけはそちらにいかずに潤たちの側を厭らしい笑みをこぼしながら歩いているのだが。

 面倒くさいことになったらさっさと「フュイ=二-レン」でもして逃げるかなあと潤は考えていた。「フュイ=二-レン」とはものでも人でも空間から瞬間転移させる魔法のことだ。もはや見捨てる気満々の潤だったが、どこか遠くをぼんやり見つめながら青年が呟いた一言に心を止める。


「今日はホワイトのお見舞いに行こうかと思ってたんだけどな……」

「ホワイト?」

「あー……僕の双子の妹」


 身体が弱くて、深谷青十字病院に入院してるんだ。なんとはなしに囁かれた言葉に反応すれば青年が顔を上げて苦笑いしながら教えてくれる。双子の妹、身体が弱い。そんなことはどこにでも転がっている言葉だっただろう。でも、潤は。うつむいた。

 見捨てていこうと思っていた。青年の言葉を聞くまでは。だって青年は他人だし、恩もない。双子の妹だなんてワードはどこにでもあるだろうから。


「ぼく、も……」

「ん?」

「ぼくも、双子の妹。いたんだ……名前も、わからないけど」


 最後の言葉は声にならずに空中に溶けていく。

 潤はさらに顔をうつむかせてから、ばっと勢いよく顔を上げて心配そうに見遣ってくる青年ににっこりと笑った。


「お見舞い、何時からなの?」

「あー……10時30分から、かな。あはは、もう過ぎて」

「うるせえっつてんだ、次喋ってたら殺すつったろ」

「ぐっ!!」


 近くをうろうろしていた警備服の男が、後ろ手に縛られた青年の腹を振り上げた足で蹴る。がっと重い音がして、青年がうめく。そのままうつむいて背中を丸めた青年にひゅっと潤は息を呑んだ。満足したように男は離れていく。


「ちょ……だいじょう」

「……くはっ」

「え?」

「くはははははははははははは!!」


 いきなり狂ったように大声で笑いだした青年に、人質、強盗たちの視線が集まる。訝し気に伺う視線の中、先ほど青年の腹を蹴った男が近づいてきて、また足を振り上げたのと同時に。

 さんさんと嫌味なほどに天井から明かりを差し込んでいた天窓が赤く光ったかと思うと急に割れ、破片がなぜか犯人たちのみに降り注がれた。間近にいる青年や潤には一切合切当たらずに。


 ぎゃあああああああ!!


 汚い悲鳴を上げながら上から防ぎようもなく降ってきたガラスに、全身血まみれになった犯人たちに。青年は、自身の腕を縛る縄を消滅させて、自由になった手。その右手でずるりと眼帯を下からすくうように滑り取りながらそのまま前髪をかきあげる。

中途半端に撫でつけられた前髪を気にすることもなく。そのまま立って口笛を吹きながら眼帯を黒いパーカーのポケットにつっこみ数歩進むと振り返り、犯人たちや人質が見える時計台兼エレベーターの周りの階段に座って。


「痛ぇなあ、おかげで気絶しちまったじゃねえかよ。まぁ? おかげで俺様が出てこれたんだけどなぁ」

「て、てめえ、なにしやがっ……ひっ!」


 その片瞳が赤かったから躊躇したのではない。むしろ潤も同じ片目とはいえ赤い瞳を持っているから、いまさらビビるようなことではないだろう。犯人たちは、自分たちを傷つけたところどころ血で汚れたガラスの破片が赤い光に包まれてひとりでに宙に浮きあがってきたのを見て引きつった声を出したのだ。

 こんな能力を持っている存在なんて、たった1つしかない。


「て、てめえ、異世界人か!?」

「それ、聞いて何になるんだ?」

「こ、こいつらがどうなってもいいのか!?」


 拳銃をベルトから引き抜いた5人の犯人たちはそれぞれ近くに居た少女や潤に向かって向ける。

 息を呑むように引きつった悲鳴をこぼした少女らの声に、犯人たちの行動に。にたりと嘲笑うようにいやらしく目尻を下げた。白いマフラーで見えない口元は、確かに嗤っているのだと思わされる。楽しそうに、愉快そうに長い足を組んでゆっくりと両手で拍手をした。


「いいねぇ。人間のそういった絶望はいい。ある種の美だ、非常に美しい。是非とも派手にやってくれ」


 まったく止める気がないどころか、小さい子どものように手を叩きながらむしろ推奨すると言わんばかりの青年の態度に。観劇でもするようにご機嫌な様相に。犯人たちが戸惑った瞬間。一瞬のできた隙に。


「《魔王の威圧イベリカ・アームスロッド》」


 ぽそりと潤が呟いたそれは妙に静まり返った広間に響いた。なぜそんなことを呟いたか。簡単だ。単純に、明瞭に、それがトリガーであるからだ。

 それが意味を持って解き放たれた瞬間。

 重力が意志をもったかのように、その場にいた者たちを押さえつけ始める。それには当然のように青年も含まれていて、ぐっあと苦痛の声を漏らして組んでいた足にぴったりと胸が当たるくらいにかがみ込む。

 そう、潤は。魔王だ。潤こそが異世界人であり、異世界統一を成し遂げた少年王だったのだ。そんな彼がどうして世界を渡ってまで就職活動をしているかというのはおいといて。


「ぼくに平伏せ」


 圧倒的なまでに、絶望的なまでに絶対的な命令は。

 水は上から下へ流れていくように、物が転がり落ちていくように。誰一人として例外を許さないそれは。

 青年の背筋をぞくりと震わせた。


 こんな、こんな存在は知らない。王の威圧などクズに等しいのになぜ自分は従っている? なぜ。わからないわからないわからない。欲しい、知りたい、これが欲しい! 


 狂乱的なまでの欲望に赤い目をぎらつかせながら青年は立とうとして……できなかった。その遵守されてしかるべきと言わんばかりの命令があるから。それでも降ってくる重力に組んでいた足をほどいて生まれたての小鹿のように足を震わせて立とうとする青年に、潤はきょとんとしてから自らの命に従わない異分子に目を細めて《魔王の威圧イベリカ・アームスロッド》を強めた。

 強盗たちは耐えきれず、あるものは失禁、あるものは泡を吹いていつの間にか広間に集められた人々は強盗人質関係なく気絶していた。どさりと音をたてて崩れ落ちた男たちにそのことに気付いて、潤はふっと《魔王の威圧イベリカ・アームスロッド》を解いた。そもそも、別に青年を威圧したかったわけではない。ただ銃を向けられたのがむかついただけで。

 人が殺されるのが嫌だったからだなんてきれいごとを言うつもりは全くない。だって潤はこの世界よりももっと命の価値が軽い世界から来たのだから。数えるのもやめるほど、自身も多くのものを手にかけてきたのだから。

魔王の威圧イベリカ・アームスロッド》を解いた途端、背中を丸めうつむいたまま青年は肩を震わせた。


「くっは、くはははははは」

「あ……ごめんね、やりすぎちゃったかな? その」

「お前、いいなぁ」

「……は?」


 ゆっくりと顔をあげると、どこか恍惚とした笑みを浮かべながら。再びガラス片を赤い能力色で包み浮かばせた青年に首を傾げる潤。人差し指でガラス片を自身の前へと手繰り寄せた後、右手を可動域ぎりぎりまで左に寄せるとまるで演説でもするかのような大げさな仕草で。青年は。大きく薙いだと同時に能力色に包まれたガラス片は矛先を潤へと定めて傾くと、鋭い切っ先を向けて噴射される。

 怪我なんて絶対しないだろうと、わかっていたから。

 でも。


 どすどすどすどすどすどす!!


 潤へと向けられたすべてのガラス片が閏の服を裂き、皮膚を破り、肉へと突き刺さる。避けることもせずにできずに。攻撃を受け、血まみれになりながら軽い音をたてて倒れた潤に先ほどまでの高揚感が水に溶けるようにゆっくり消えていくのを感じた青年は眉をひそめる。

 残されたのは血まみれで重症な倒れた潤と無傷な青年、気絶した人々。

 だけのはずだった。


「これで満足かな?」

「!!」


 はずだと思っていた。少年の甘い声が、耳元で言葉を紡ぐまでは。

 勢いよく振り向けばそこには傷1つない潤が、青年が腰かけた階段の2段上から見下ろしていて。赤と黒の目を大きく見開いて傷だらけで倒れている潤と無傷の潤を交互に見比べる。その勢いは首がちぎれそうなほどだった。その様子に、潤がブーツの踵をかあんっと鳴らせば、それだけで傷つき倒れた潤はとぷんと床に吸い込まれるように黒い影となり主人を求めるがごとく潤の足元へとつく。

 ふうっと右頬に右手を当てながらため息をついた潤のどこか悩ましげなそれがやけに響いて。

 青年はぞわりとまた背筋を粟立たせたのだった。


「お前……なにもんだ?」

「それを聞いたところでなにになるのかな?」

「……ははっ、いいねぇ、最高だ。お前、本当にいいなぁ」

「なに言ってるか意味わかんないんだけど」


 要領を得ない会話に困って右手をおろしつつ首を傾げた潤。青年は立ち上がり、見下ろしていたはずの潤が見下ろされる形となる。青年はその手を閏の首へと伸ばす。潤は、別にどうすることもなく伸びてきた手をそのまま受け入れた。

 それが、間違いだったのかもしれない。

 白い拘束服のをつかんで持ち上げられたかと思うと、無理矢理噛みつくようなキスをされた。潤の口内に我が物顔で入ってきた舌が不愉快で、舌で押し返せばあっさり引かれ、拍子抜けした途端。


 がりっ。


 思いっきり舌をかまれた。口の中があっという間に鉄臭くなり、口を開けて舌を出せばぽたぽたと床に血が落ちて舌先が出血しているのがわかる。それに眉をひそめてから、相手の胸を手で突き飛ばす。口元に手をやりながら睨む潤に、青年はにたりと笑った。


「いーなぁ。美味いなぁ。欲しいなー。なーお前、俺様のものにならねえ?」

「……やだよ。大っ嫌い」

「大っ嫌いとはひでえな」

「当然でしょ」

「あ、自己紹介がまだだったからか? 可愛いなぁ。改めて、俺様は13段階段が1人、13段目。死に最も近いもの絶望帝のビターファーテストだ。よろしくな」


 可愛いなぁとにまにま顔を歪めながら、青年が差し出してくる手を。潤はぴしゃりとはねのけた。差し出してくる手と言っても、黒いパーカーの袖が長すぎて。いわゆる萌え袖どころか指一本だしていなかったが。


「……いや、初対面でキスされて。舌かまれて、仲良くしましょうって無理だから」

「ま、いーや。そろそろ起きるから寝るわ」

「いやだからなに言って」

「またな、俺様の美味マイ・ベスト


 そのまま青年はパーカーのポケットから引っ張り出した眼帯を身に着けると。潤の方に向かってぶっ倒れたのだった。




「ごめん、ごめんね。本当にごめん」

「いや、別にいいよ。気にしてないし」


 銃を所持していたものの、血塗れの強盗たちが全員気絶しているという状況でやっとこさ警察が突入してきて。

 真っ先にこの惨状を作った犯人にあげられたのは無傷で縄でも縛られていない青年だった。潤は見た目が6歳くらいの幼い見た目のためありえないと思われたらしい。

 とりあえず、銃を強盗たち全員が手にもっていたことや、他の人質たちの証言で血まみれの倒れていた男たちが強盗だとわかり、長い事情聴取を終えた青年と潤はちょうど同じタイミングで解放されて。せっかくだからと誘われて近くのマクドナルドへと入った。

 夜の9時。さすがに人も少なくなってきたマクドナルドで端の席をとり、ひたすら頭を下げ続ける青年に潤は首をゆっくりと横に振った。

 さすがに頭を下げ続けられて辟易していた閏は、自身で頼んだアップルパイといちごシェイクをかじりつつ。ポテトにハンバーガー、コーラを頼んだ青年にも冷める前に食べることを勧めた。この会計時にも潤を押しのけてまで青年が金を出そうとするのを抑えるのが大変だった。なんでも絶望帝の時の記憶は全部あるらしい。キスしたことも当然覚えているらしく、顔を赤らめてもじもじする様子に、乙女か! っとつっこみたくなった潤だった。

 ある程度食べ進めたところで、潤は口を開く。


「で? きみはぼくになんの用なの?」

「あ……う、うん。その……アルバイトとか興味ない?」

「ないね。こっちは就活でいそがしいの。バイトなんてやってる暇ないよ」

「シュ、シューカツ?」

「就職活動」


 ずずーと音をたてて、紙の容器に入ったいちごシェイクをすする潤に、青年の丸い目が輝きだした。今日の強盗でおじゃんになってしまった面接の機会はもう二度とないだろうし。

 両手でシェイクを持っていた潤の手の上から温かい手がそっと重なる。なんだ、と潤が顔を上げれば、ぎりぎりまで近づいてきた青年の顔は喜び満載と言わんばかりの形相だった。


「じゃあ、僕の事務所に就職してくれない⁉」

「そのはなし、くわしく」


 ちゅっとストローから口を離し真顔になってしまったのは、この幼い外見のせいで19回面接を落とされているからかもしれない。

 就職という言葉には弱い、異世界出身の魔王だった。




 就職にかかわる大事なことだからと詳しいことは教えてくれなかった青年。本人曰く「あー……ブラックって呼んで」らしい。明日にでもぜひ来てくれとブラックが示したのはドリオ深谷店1階、第一立体駐車場から入ってすぐの整骨院の隣にあるという事務所だった。

 強盗にあった日もお見舞いに行く前に事務所に寄ろうとしたところを例のようになったのだと苦笑いしていた。

 その日はマクドナルドで別れて潤は自身が住んでいるアパートに帰ってきた。玄関口で鍵を閉めながら、首を傾げる。


「あそこ、なんのお店もはいらないから呪われてるって言われてなかったっけ?」


まあ事務所って言ってたし大丈夫なのかなと1人心の中で呟いて。シャワーを浴びてから必要最低限のものしか揃っていない六畳間の部屋の中で。唯一特色を表す、あきらかに部屋に合っていない天蓋付の黒いベッドに身体を滑り込ませると、潤は早々に目を閉じたのだった。

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