光と闇のアンソロジー
Nico
ラーメンだけならいいと思うなよ
僕にとっての「青春」を一言で言いかえるなら、「オアシス」と同義だ。国語辞書に載せてもいい。
【青春】
夢や希望に満ち活力のみなぎる若い時代を、人生の春にたとえたもの。オアシス。
オアシスと言っても、砂漠のど真ん中に突如現れるアレではない。もちろん、「都会のオアシス」というような比喩でもない。ギャラガー兄弟率いる――解散してしまったから、正確には「率いた」だが、僕はまだ解散を認めていない――イギリスの伝説のロックバンドだ。もし、万が一、知らない人がいたらググってみてほしい。いい歳をした男がタンバリンを握りしめて、マイクにかぶりつくように歌う写真が出てきたら、当たりだ。
2018年6月――。
高校三年になった僕は、やはりオアシスを聴いていた。オアシスが解散したのは――しつこいようだが、僕はまだ認めていないのだが――2009年だから、もう十年近くが経っているわけで、当然のごとく同級生でオアシスを聴いている人間などいなかった。
だから、僕は人知れずこっそりとオアシスのファンでい続けたのだ。
その日までは――。
その日の放課後、僕は初めて学校の屋上に行った。高校生活三年目にして初めて屋上に行ったことに、深い理由があったわけではない。天気が良かったのだ。てっきり、その空間を独り占めできるものと思っていたが、そこには思わぬ先客がいた。彼女の名前は、神紗理奈。名字が
それは、一度聞いたら忘れない珍しい名字で、芸能事務所にスカウトされたと噂の美貌の持ち主で、この高校に首席で合格したという才女で、それなのに入学式の三日後から二年半もの間不登校という、彼女を特徴づけるいくつかの複合的要素のためだった。月並みな言い方をすれば、ミステリアスだったのだ。高校生くらいの年頃というのは、そういうものに漠然と憧れるものだ。僕は、別だったけど。
とにかく、神紗理奈は梅雨の合間のよく晴れた放課後の屋上にいた。
僕が耳にイヤホンを突っ込んだまま近くに行くと、彼女はちらりとこちらを見た。でもそれだけだった。僕と彼女は特に言葉を交わすこともなく、柵に寄り掛かって、目の前に広がる海のような街並みを見ていた。
しばらくすると、彼女が何か言った。
「何だって?」
僕は左耳のイヤホンだけ外して聞き返した。
「『Slowly walking down the hall. Faster than a cannon ball』」
僕は驚いた。ちょうどその曲を聴いていたからだ。
「『弾丸よりも速く、ゆっくり廊下を歩いていく』」と僕は訳してみた。
「どういう意味だ?」
「さぁ、君にわからないなら僕にもわからないよ。でもさ、この曲の歌詞に意味がわかるところなんてある?」
「ないな。タイトルの意味すらわからない」
「だろ? でも、世界中でみんなが口ずさんでる。そこに意味があるんじゃないか?」
僕がそう言うと、彼女は「かもな」と呟いた。
「って、作った本人が言ってたよ」
その日をきっかけに、僕らは会えば会話を交わすようになった。と言っても、さっき言ったように彼女は基本的には不登校だったので、会うこと自体がめったになかった。だから、交わした言葉の数は、寄せ集めれば500mlのペットボトルに収まるくらい少なかった。
2019年2月――。
卒業を間近に控え、その年初めての雪が舞った放課後。僕はやっぱり屋上にいた。コートの前を合わせ、震える手で鞄を持っていると、彼女がやってきた。彼女の顔を見た瞬間、「あ、ここで彼女に会うのは今日が最後になるんだ」って僕は直感した。たぶん、彼女も一緒だったと思う。
「寒いな」
彼女はぶるぶる震えながら手に息を吐きかけ、彼女にしては至極まともなことを言った。もともと口数の多いほうじゃなかったけど、その日の彼女はいつもよりも喋らなかった。
「あの曲の意味がわかった気がするんだ」
今日はもう喋らないのかなと思ったころに、彼女が言った。
「あの曲?」
「弾丸よりも速く、ゆっくり廊下を歩いていく」
「あぁ、その曲。どういう意味なんだ?」
その言葉に彼女は僕を睨みつけた。
「私がやっとわかったことを、そうやって容易く知れると思うな」
「……じゃあ、なんで言ったんだよ」
「ただの報告だよ。風呂にお湯が溜まったことを伝えただけ。お湯を止めるとは言ってない」
「止めろよ。溢れるだろ?」
相変わらず、意味のない会話だった。でも、彼女と話しているとなんとなく幸せになったのは紛れもない事実だ。それが、会話の意味だと思った。
「なぁ、ラーメンでも食べに行かないか?」
僕は思いつきでそう口にした。寒かったし、腹が減る頃合いだったから、悪くない提案だと思った。
「ラーメン?」
「そう、ラーメン」
彼女は少しの間何か考えていたみたいだったけど、突然僕のコートの首元を乱暴に掴むと、ぐいっと自分のほうに引き寄せてキスをした。まるで世界をショートケーキで包んだみたいに甘いキスだった。
やがて彼女は名残惜しそうに唇を離すと、何事もなかったように足元に落ちた鞄を拾い上げた。それから、また僕のことを睨みつけて言った。
「ラーメンだけならいいと思うなよ」
僕は颯爽と歩き去る彼女の少し後ろを追いながら、もちろん言った。
「キスだけならいいと思うなよ」
最初に言い忘れたけれど、これは僕の光輝いていた「
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