第28話

「叔母さんありがとう!」


 日曜日、朝8時55分。俺は叔母さんが運転する車から飛ぶように降りて走る。目の前の公園には、既にテントが立ち並び、鬱蒼と木々が繁る森を思わせるほど、大勢の人が沸き返っていた。


『それでは、決勝戦を始めますので、代表の方はテント前まで出てきてください』


 アナウンスが流れ安堵する。


ここ一週間の睡眠不足が祟って完全に寝過ごしたが、なんとか間に合いそうだ。

朝起きて時間に冷や汗を流した俺は、到底徒歩では間に合わないと悟り、車で送って欲しい、と叔母さんに懇願した。すると「ふふん、こんなこともあろうかと、ガソリンを昨日入れておいたのだ!」と言ってくれ、公園の側まで送ってくれた。休ませてくれたことといい、本当に感謝しかない。


 ただ間に合いそうであるとはいえ、決勝が開始されるまであと5分しかない。もう集合のアナウンスは流れた。急がないと。


 俺はハードルのように逆U字の車止めを飛び越え、公園の中へと入る。そのまま走って、テント前にひしめく人達の元へと向かう。


「代表! 待ってました!」


 俺の存在に気づいたのか、そんな声が上がった。それは伝播していき、大きな歓声に変わる。

 少し拍子抜けした。学校をずっと休んでいたのに、今日俺が本当に来るか、なんの不安もなかったのだろうか。


「赤兎馬ランド! 頑張ってくれよ!」

「行ってこい代表!」

「代表ファイト!」

「僕の代わりに、喉ちんこを手◯キしてもらう、夢を叶えてくれ!」

「負けんじゃねえぞ赤兎馬!」


 声援を受けながら、テント前の人混みに入る。俺の前の人が、一人、また一人と開けてくれる道を進む。


 人混みの真ん中くらいまで来たところで、ぐっと、袖を引かれて、足が止まった。


「ごめん、赤兎馬ランド、無理にプレッシャー掛けたよね……」


 引かれた方を見ると、東が心配そうな眼差しを向けてきていた。


「こっちこそ、ごめん。今日、本当に来るか心配させたよね?」


 俺がそう尋ねると、東は首を振った。


「昨日カシラが、『赤兎馬ランド、参戦確定!』って、グループラインでbotみたいに定期で言ってたから、心配はしてなかったわ」


 なるほど、だから、皆んなは、あまり心配してないのか。


「あのさ……。言わない方がいいのはわかってるんだけど……頑張ってくれないかな?」


 東は陰りを帯びた表情で、小さくそう伝えて来た。


なんだか東らしいのか、らしくないのか、わからない反応に、俺は吹き出した。


「期待に応えられるかはわからないけど、頑張るよ」

「嘘でも、しゃんと言ってよ」


 東も笑った。本当、切り替えの早いやつだ。

 再び進み始め、残りの人混みを分け入っていく。ついに先頭に立つと、人混みとテントの間にあるドーナツの穴みたいな空間に、一人瑞樹が立っている姿を見つけた。


「遅いじゃん」

「ごめん、寝坊して」

「格好わるいね。勝ちたくなくなっちゃうよ」

「なんでかわからないけど、本当? だったら嬉しいけど」

「嘘、絶対に勝ちたい」


 瑞樹がそう言って笑ってすぐ、アナウンスが流れた。

『9時になりました! それでは、決勝戦を開始します!』


 観客が騒々しく湧いた。口笛が鳴り響く。皆が皆手をあげ、口を大きく広げて喚いている。これからどうなるのか、マターナルのライブはどちらの学校で行われるのか、面白い勝負は繰り広げられるのか、たくさんの希望や期待の声が膨れ上がっている。


『それでは、競技を決めてください!!』


 観客の声に熱を帯びに帯びたアナウンスが流れた。

 俺は瑞樹にゆっくりと近づき、拳を差し出す。

 瑞樹も合わせて拳を差し出して来たので、声を出した。

 ジャンケンポン。結果、瑞樹はグーで俺はパー。

 行う競技は決めて来ていた。なんの迷いなく告げる。


「制限時間なしで、逆上がりの回数対決にしよう」


 俺の言葉を聞いた観客達は静まり返った。近くにいる人を見ると、目を丸くし、ぽかんとしている。子供ですらできる逆上がり、しかも、なんの駆け引きもない回数対決だ。内記黒、ジャングルポイント、ドッグファイトのような競技名すらない。これから繰り広げられる熱い戦いを期待した観客にとっては、見所なくつまらないものだろう。


 だけど、瑞樹と俺にとっては特別な戦いだ。


「いいよ」


 瑞樹はただ一言、静かにそう呟いた。けれど、醸し出される雰囲気は炎のように激しい。


 俺と瑞樹は鉄棒に向かって歩く。観客達は俺たちの空気に呑まれてか、黙って道を空けてくれる。そして俺たちの後ろについてくる。


 二つ並んだ鉄棒に辿り着き、俺と瑞樹は同時に手をかけた。


『え、えーと、逆上がりの回数対決? だ、だとすれば、公平性をきすために……えと、えと、南高代表が西高を、北高代表が東高をカウントしてください』


 戸惑いを隠しきれない声のアナウンスが流れると、少しして、南野と北条が、おずおずと出て来た。南野と北条は微妙な表情で、スピーカーがある方向に向けて、弱々しく手をあげた。


『そ、それでは開始します。よーい始め!』


 締りのないまま、試合は始まった。

 俺はただ回る。ひたすらに回る。

 腕に力を込め、地面に足がついては蹴り上げるを繰り返す。

 必死に、全力で。


「お、おい。西高代表、全然足つけねえぞ」

「流石体操の全国選手、逆上がりなんかお手のもんだ……」


 周囲から驚愕の声が届いた。横目で瑞樹を伺うと、足をつけずにぐるぐると、俺の何倍もの速さで逆上がりをしていた。


 焦り、無理して加速するが、足を地面につけなければ逆上がりが出来ない俺は、追いつきそうにもない。


 暫くすると、回っていた瑞樹の動きが止まり、瑞樹は鉄棒から手を離して地面に降り立った。手を開いたり閉じたりして、休憩している。


 ああ、心が折れそうになる。回数で負けている俺には止まっている余裕なんてない。瑞樹が休んでいる間も、俺は回り続けなければいけない。


 ひたすらに回る。ただ回り続ける。


 時間が経ち、しらけた雰囲気を感じるようになって来た。


 もうすでに瑞樹と俺の差は大きく開いていることだろう。誰もが、俺の負けで勝負が終わると感じているのだろう。


 でも関係ない。俺は回り続けるだけだ。


 雲ひとつない青空が目に染みる。太陽は真上へと移動し、じりじりと焼いて来る。噴き出る汗に、体力と熱が奪われ、体が怠くて仕方ない。


 ああ、回りすぎて気持ち悪い。吐き気と目眩がする。それでも、回り続けるしかない。

 1800回!!


 瑞樹は手をあげて、鉄棒から離れた。回数が宣告されて、西高生らしい歓声が届いた。


 もう数時間経っている。瑞樹とはかなりの差が開いていることだろう。だけど、ここからが勝負だ。筋力、体力なら俺の方に分がある筈だ。


 回れ、回れ、回れ。自分を叱咤して回り続ける。


 青い空が黄色に帯びて来た。


 くだらねえ、絶対に勝てねえんだから諦めろ、時間を無駄にすんじゃねえ。


 誹謗中傷が飛んで来た。悪意に塗れた言葉をぶつけられ、挙げ句の果てにはゴミまで投げつけられる。


 立ち止まりそうになって、悔しさに涙が出てくる。それでも歯を食い縛って回り続ける。


 空が茜色になると腕があがらなくなってきた。毎回、毎回、満身の力を込めて体を持ち上げる。もう1時間に数十回も出来ないだろう。


 苦しくて、苦しくて辛い。だが、気持ちは折れず、鉄棒を抱き込むようにして逆上がりを続ける。


「頑張ってください!!」


 ふと、カシラの声が聞こえた。なるほどどうやら、心が弱っているらしい。いつも、カシラを心の支えとしてしまうなんて、好きになってしまったのかもしれない。


「頑張れ! 赤兎馬ランド!」

「いけるって! 代表なら出来る!」 

「諦めないで!」


 カシラに続いて、声援が続々と届く。非難され続けていたせいで、幻聴かと思っていたが、そうではないらしい。本気で俺を応援してくれているようだ。


 目の前が滲む。視界がぼやけて、夕陽のオレンジが目の前で乱反射し、ガラスみたいにきらきらと輝いている。


 やがて公園内は、たった一人、ただ俺だけを鼓舞する声だけで包まれた。もう言葉なんか聞き取れず、雑多な喚き声でしかないのに、胸を灼いてくれる。


 また、涙が出て来た。苦しくて辛くて、どうしようもなく嬉しくて。


 ただ俺は重い体を必死で動かし、回り続ける。


 日が落ちて、あたりは暗闇に包まれた。それでも、大きな煩雑な声で満ち満ちており、寂しさなんかとは無縁だ。


 もう既に満身創痍。腕も足も上がらなくて、顎を鉄棒に引っ掛けて体を支える。

 何回も落ちては、挑戦してを繰り返す。もう手先の感覚もない。だが諦めずに鉄棒へと手を伸ばし続ける。

1795回! 

 ようやく逆上がりに成功すると、辺りからカウントの声が聞こえた。やっと終わる、終えられる。大きく燃え上がる闘志に身を任せ、力を振り絞る。


 朦朧とする意識の中、なんとか足をあげる。


 全身の筋肉があげる悲鳴を無視して、しがみつくように回る。


1796回!

1798回!

1799回!

1800回!

1801回!


 その声と破裂するような歓声が湧き上がった。瞬間、急な安堵感に襲われ、俺は意識を手放した。

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