第26話

 空は藤色から紺碧へと押し潰されつつあった。


 木造の古い住宅に挟まれた道路を寄り添って歩く。遠くまで並ぶ一軒屋は、全て影に塗り尽くされ、窓から儚げな明かりが漏れている。電柱に備えられた電灯が、地面に白いスポットライトを落とす。暗がりの中、僅かな明かりを浴びては出てを繰り返し、別れの駅へと進んでゆく。


 互いに会話はない。瑞樹はただ前を見つめていて、綺麗な横顔しか見えない。けれどその顔は、何か物憂げでいて、澄んでいるように見える。今日の昼間に見せていた明るく楽しそうな顔はすっかりなりを潜めている。何をしたわけでもなく、日が暮れるにつれ、寂寥感が自然に漂うようになったのだった。


 蝙蝠のキチキチとなく声、下水道を流れる水の音、遠くに走る車のエンジン音は聞こえる。それでも静かで仕方がなく、世界から隔離されたような錯覚を受けながらただ歩く。


 住宅街を抜け、大通りに出る。帰宅時なのか車通りが多い。歩道を歩いていると、車のライトにしばしば目を瞬かせた。


 無言のまま歩き続けていると、交差点が見えた。横断歩道の信号が青に変わる。渡れば、駅前に繋がる道へと出る。


 不意に焦燥感が湧き出した。忘れていた現状が帰ってきて、どうしようもない不安が、容赦なく胸中を荒らしだす。しかし、歩みは何故か止められない。


 横断歩道にたどり着く寸前で信号は赤に変わった。けれど、瑞樹も俺も歩みを止める気配なんかおくびにもださず、少し先に見える歩道橋を目指した。


 折り返しの階段を踏みしめるように登り、歩道橋の中央まで来たところで、ついに瑞樹が足を止めた。


 少しの間、瑞樹は空に浮かぶ青白い月を眺めていた。ポツリと「綺麗」と瑞樹は溢すと、不意に俺へと体を向け、見上げて顔を合わせてくる。暗い中でも確かな光を持った瞳は、しっかりと俺を捉えていた。


 ほんの数秒見つめあい、瑞樹はゴクリと喉を鳴らして視線を逸らす。そして、自嘲気味に笑い、再び顔を向けてきた。その面持ちは、染み付いた記憶の中で、最も印象に残っている顔によく似ている気がした。


「……あのさ。今から公園に一緒に行ってくれないかな?」


 瑞樹は、静かにそう告げてきた。色んな想いがぎっしりと詰まっているみたいに感じて、重く響いてくる。

 息が詰まって言葉が出ない。それでも俺はコクリと頷いて返事したその時。


「見つけました!!」


 大きな声が聞こえて反射的に目を向ける。

 俺たちが歩いてきた道を走ってくるカシラの姿があった。

 大きく心臓が跳ね上がる。

 慌てて瑞樹に顔を向けると、柔らかな笑みを浮かべていた。


「じゃあ、公園で待っているから」

「えっ」

「悔しいけど、今は、私よりその子が必要じゃない?」


 そう言い残して、瑞樹は背を向けて去って行く。


 俺は手を伸ばしたが、ゆっくりと下ろした。瑞樹に背を向け、カシラが上ってくるであろう階段の方を見つめる。


 俺を問い詰めにきたのだろうか、それとも連れ戻しにきたのだろうか。


 どちらにせよ、粉微塵に批難されることに違いない。当たり前だ。最低で、屑で、醜い行為をしたのだから。むしろ、それだけで済めばいい方。見つかった今、どれだけの罰が与えられても、俺には呑む以外の選択肢はない。


 逃げたいけれど、逃げてはいけない。警鐘が鳴り、身動き一つ取れない。


 忙しなく響く階段を駆け上ってくる音と、自らの激しくなる心音を聞く。


 動悸を抑えようと、大きく息を吸い込んで、ただじっとみつめる。


 カシラが上ってきた。恐怖と不安に手足が震える。


 カシラは、俺と向き合うと足を止め、拳を握りしめた。


 下の道路を走る車のライトが、カシラの顔を微かに照らす。目が細く疲労の色が隠せないでいて、髪は額に張り付いている。


 肩で呼吸をしながら、荒れた息を止められないまま、カシラはゆっくりと着実に歩を進めてくる。


 そして目の前で立ち止まった。


 時が止まったように静かになる。夜の涼しい風が吹き抜ける。


 俺は耐えきれず、暗闇の中へと逃げむように目を瞑って、カシラの言葉を待つ。



「ありがとうございます」



 かけられた言葉は、最も想像からかけ離れたものだった。俺は思わず目を開き、カシラの顔をまじまじと伺う。その顔は、ほんの少し赤くなっている。


 閂が意外な一言で簡単に外され、戸が開き、今日一日押し込めてきたものが中から漏れ出してくる。


「な、何で?」

「感謝の言葉をまだ伝えてなかったので」

「だから何で!? そんな事を言うためだけに、息切らして俺を探しにきたのかよ!!」


 わけもわからぬ憤りが、行き場を求め、怒声となって口から飛び出た。カシラは、そんなの何でもないかのように笑って「そうです」と言った。


 なぜか熱いものが目にせり上がってくる。戸惑い、焦り、苛立ち。ああ、ぐしゃぐしゃになってわからない。


 得体の知れぬものを捨てたくて、大きく首をふる。


 違う、カシラは俺を責めに来たんだ。批難し、連れ戻しに来たんだ。酷い俺の顔を見て、優しくしただけだ。公園バトルに連れ出すために、手を変えてきただけなんだ。


「……嘘をつかないでくれ。俺は恨まれても、感謝されるわけがない」

「私は感謝してますよ。それなら、私が駆けずり回ってまで、どうして、あなたを探していたんだと思いますか?」

「何も言わず、カシラや東校の皆んなに迷惑をかけた」


 元々嘘を突き通そうとしなければ、期待なんてさせずに済んだ。ライブが開催されるなんて夢も見せることはなかった。


「それで?」

「責任取るなら、俺が絶対に勝つべき。負けることがわかっていても、批判され、憎悪を向けられることがわかっていても、真摯に戦い、受け止めるべき」

「……けれど、それが出来ないから、こんな所にいるんですよね?」


 歯に力が入って、ぎしりと鳴る。悔しくて目が焼けそうなほど熱い。なのに、そこから冷たいものが頬を伝う。通った跡が、夜風に吹かれてひりつく。


 止まれ、止まれ、止まれ。


 いくら念じても、自傷するだけの涙は、流れる量がより増していくばかり。どうしようもなくて、余計に溢れていく。


 もう、何もかもがわからない、考えられない。心の檻がぐしゃぐしゃに崩れ、秘めていたものが飛び出して行く。


「だから!! そう言いに来たんだろ!!」

 怒鳴ったのに、カシラは優しく笑う。

「違いますよ」

「だったら、他に何があるって言うんだ!」

「感謝を伝えに来ただけです」

「嘘をつくなよ!」

「嘘なんてつきませんよ。それに、貴方が想像してそうなことはできませんし。得意げに説教しようにも、崇高な意思も、精密な理論も、経験に基づく価値観もないですからね」

「じゃあ、どうして!?」

「ただただ自分の我儘で、感謝を告げに来ただけです」


 カシラはフゥと息を吐いて続ける。


「この前、貴方は私に変化が怖くないのかって聞きましたよね? 確かに、他の変化は怖いかもしれません。でも、私が育ったこの街で、色んな人が関わっている公園バトルが、どうしようもなく愛おしいんですよ」


 カシラは、顔を綻ばせた。


「私は嬉しかったんです。公園バトルを蔑んでいる貴方が、私が大切にしてるものに、真剣に向き合ってくれていることが」


 船が岩礁に乗り上げたみたいな激しさで、真っ直ぐな言葉がぶつかってきた。その癖伝わってくるものは、じんわりと温い。嵐が静かに引いていくような安らかさに、心中が染められていく。


「たったそれだけのことで、それ以上も以下もないんです」

「たったそれだけの為にそこまで走って?」

「ええ。貴方が言うように、変化が怖かったからですよ。感謝を伝えないまま、貴方が消えてしまう、どこかに行ってしまうのが怖かったんですよ」

「俺のことなんか何も気にしてやしない」

「だから我儘なんです」

「……どうしてそこまで出来るんだ?」

「何もしなくても、必死で押しとどめようとしても、全てのものは変わっていきますからね。だったら、私は新しいものに期待して進みたい」

「それが答えってこと?」


 俺がそう問うと、カシラは首をふった。


「それはわかりません。でも、ビビり倒して、気取ってる癖に、貴方も変化を求めてるじゃないですか」

「何を」

「だってそうじゃないと、学校を休むなんて、普通の生活が送れなくなるような事できませんよね?」

「そんなこと……」

「変わって欲しいんですよ、貴方は。変わって欲しい事もあれば、変わって欲しくない事もある。それでいいじゃないですか。何をそんなに深く考えてるのやら」


 カシラは「こういう事ですよ」とため息交じりに言うと、苦笑しながら言葉を紡ぐ。


「私は私が嫌いです。独善的で、欲張りで、愚かな私が嫌いです。でも、私が嫌いな私は真摯で好きなんです。けれど、自分の事が嫌いな自分を好きになる私は、器が小さく厚かましくて浅はかで嫌いで、同時に可愛らしくて愛おしくて好きなんです」


 カシラの言葉が理解できて、胸に染み渡る。


 掛けられている期待に耐え切れず逃げてしまった事、確かにそれは、辛い環境を変えたかったからなのだろう。


 自分の中に異なる考えを持つ自分がいると気づかされる。すると不意に、自分は俺と生きているという実感が湧き出した。


 ただ俺は、逃げたくて変わって欲しいと思う自分を殺そうと、必死になっていただけだったのか。わからない。けれど、こうやって悩んでいる俺は辛くて苦しい思いをしていて嫌になるけど、嫌いではない。やっぱり、俺の中には俺がいて、孤独じゃない。


 カシラの言う通りだ。変わってほしいこともあれば、変わって欲しくないこともある。変わってほしい自分がいれば、変わって欲しくない自分もいる。それは当然で、どれも自分だ。否定しても新たな自分が増えるだけで、深く考える事じゃない。


 こう考えた事が、自分を増やす。そして一歩孤独から遠ざかる。ああ、くだらないけど愛おしい。


 対校戦に負けて侮蔑と嫌悪に塗れる、と悲観的な自分しかいなかったのに、むしろ、その時に増える自分を期待している、社交的なやつが現れた。


 自分の存在を認知すると、ふと疑問が浮かびあがってくる。

 俺は代表の地位から降りたかったのだろうか。

 カシラ、不良、クラスメイト、大人しそうな子、明るく中心にいそうな子、皆んな俺に対する反応は違っていた。誰もが代表に対して異なる価値観を持っていた。


 そのことについて、俺は何の否定もしなかったどころか、疑問にすら思わなかった。だって、それは普通のことだからだ。


 不良は番長相手に礼節を持つのも当然だし、クラスメイトは近くの有名人としてはやし立てる。大人しそうな子は恐れて忖度してしまうし、明るく中心にいそうな子は自らを主張しようと近づいてくる。


 今やいろんな人が認められる世の中で、それは普通だ。


 だけど、異常じゃないか。


 いろんな人が認められる世の中で、いろんな人に認められる存在なんて。


 肩の力がすっと抜け、目頭が熱くなってくる。

 不良、クラスメイト、大人しそうな子、輪の中心にいそうな明るい子、誰にとっても敬う対象の代表。それを決めることのできる公園バトルが、どうしようもなく尊い。


 熱がじわじわと体内に広がっていく。

 痺れそうなほどの昂揚感が指先まで伝わる。

 強風に吹き付けられたみたいに、一気に目が覚める。


 橋下を過ぎていく車の煙たいライト、白が弾けたような街灯、店一軒一軒から溢れ出る暖かい光、空には大きな満月が輝いている。何でもない夜の明るさに気づき、暗闇に囚われていたことを実感する。


 目の前には、影に塗られた顔に煌めく汗を流す少女。それは、誰よりも公園バトルの代表に固執した少女で、誰よりも価値を理解している少女だ。


「本当にありがとう」


 潤んだ声が出た。何も、カシラの言葉で目が覚めたとか、決してそういうんじゃない。全く見えず空っぽだと決めつけていた中に、戦いたいという自分を見出させてくれたことが堪らなく嬉しかった。そして、砂漠で何日も彷徨う中、咲いた一輪の花を指差して無垢に笑ってくれるような、カシラの存在が本当に嬉しかったのだ。


「え、なんですか?」


 俺の言葉の意図がわからず、戸惑うカシラに対して笑みが溢れた。


「今度の対校戦、本気で俺は勝ちにいく。だから、安心してくれ。俺もどうしようもないくらいに代表の座が欲しくなったから」

 

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