第13話

 東に勝った翌日、朝から胃が重い。朝食のせいかと思ったが、いやいや、と首を振る。


 叔母さんが作ってくれた朝食はチーズフォンデュだった。ふわふわサクサクのパンに、とろとろのチーズをかけて食べたのだが、これが物凄く美味かった。パンの芳醇な香りとチーズの良い乳臭さが混じりあって、一言に最高だった。チーズは高級なものだったのか、上品な塩味がパンはもちろん、旨味のウインナー、苦味のブロッコリー、甘みの人参と全てにマッチし、深い味わいを作り出していた。当然、飽きる筈もなく、朝から食べすぎたのである。


 だが、それでも胃が重いのは、チーズフォンデュのせいじゃないと首をふった。


「ネーデルランドさん! おはようございます!」


 何が原因かというと、目の前の光景である。


 校門を抜けて、校舎まで続くコンクリートの道。その両脇にぺこりとお辞儀をしている奴らが8人ずついるのだ。しかも角度90のお辞儀。追い込まれたサラリーマンか、ヤのつく人たちしかしないようなお辞儀である。


「う、うん。おはようございます」


 俺は敬語で挨拶を返した。だって、色々怖いから。


 もちろん、目の前に広がる異様な光景に対する怖いもある。だが、見た目からしても恐ろしいのだ。公立高校だというのに、こいつらの頭髪は茶色や金色に染まっていて、明らかに柄が悪い。


 できることなら、目に入れたくない。けれど光景が異様すぎて、ミスドでドーナツを眺めているような、不思議な気分にもなる。


 そんなドーナツの花道を、俺は走るわけでも歩くわけでもなく、早歩きで通り抜けて、校舎に入った。


 金属かプラスチックかわからない灰色の靴箱が並んでいる。出席番号から自分の靴箱の位置を探す。


 図書室の棚みたいに配置された靴箱の中から、真ん中の列に入ったところで肩を叩かれた。振り向くと、女子二人がキャーキャー言いながら肩を寄せ合っている。新手の嫌がらせかと思い、靴箱探しに戻ろうとしたところで、その二人から声をかけられた。


「あの! 一緒に写真撮ってもらっていいですか!?」


 突然のことに目を丸くする。こいつらは、本気で言っているのか。そう思い、まじまじと顔を見返した。すると女子二人組は、再び嬉しそうにキャーキャー騒ぎだす。


「昨日東さんに勝ったんですよね! 凄いですよ! インスタに前回りの動画が上がってましたよ!」

「うんうん、あんなの一目でファンになっちゃいますよ!」


 情報社会の恐ろしさ、自分の肖像権はどうすれば訴えられるのかが脳内を駆け巡る。しかし、費用対効果の悪さに諦めることにした。


「いや、そうなのかな……」

「そうですよ! 写真撮りましょうよ!」


 二人はそう言うや否や、俺を挟み込むように寄ってきた。一人が腕を伸ばして、スマホを斜め45度に上げる。インカメラにされた画面には、俺の微妙な表情が映っており、酷く悲しい。二人の顔が両側から近づいてきたと思うと、音が鳴って画面は静止画に変わった。


 撮影が終わると、二人はそそくさと離れ「インスタにあげとくんで、フォローしてくださいね」と言って、颯爽と靴を履き替え校内へと入っていった。


 断れず、またも拡散の材料を作ってしまったことに後悔しながらも、ちょっとどこかで女の子と写真を撮れたことに満足する。


 いいんだ。俺は普通の男子学生だから、女の子と写真を撮りたいのは当然なんだ。これで繋がりができたのだ。カシラにトップを譲ったあとは、なんというか普通の高校生活を送ろう。


 そう思い込もうとしても、公園バトルのトップと写真を撮りたがるミーハー女子と関係ができて嬉しいか、という疑問が押し寄せてくる。ぶんぶんと首をふって自らを騙し、靴箱を探した。すると、再び肩を叩かれる。


「ちっす! ネーデルランドさん! 昨日見てましたよ! マジ、ぱねえっすね!」


 振り返れば、ワックスで髪を整えた男子生徒がいた。制服のネクタイを下げており、お洒落なスニーカーを履いている。見るからにクラスの中心にいそうな男子の手には、スマートフォンが握られていた。


「まさか、写真じゃないよね?」

「おっ、流石東高の代表! 察しまでいいんですね!」

「察しが良いとも思わないんだけど……」

「すっげえ謙虚かよ! 流石ネーデルランド!」

「ソウカモネ……あはは」


 自然に乾いた笑い声が出た。何が流石なのかさっぱりわからない。とは思うものの、さっきの女の子と同様、リア充っぽい男から写真を求められることは悪くないと感じてしまう。ちっぽけな自尊心が満ちたような気がして、今度は自己嫌悪にも陥る。


 でも、それって普通の高校生だよな。


 そんなことを考えていると、リア充っぽい男子がおもむろにスマホを持ち上げ、シャッター音がなる。止まった静止画には、俺の笑顔が映っていた。


 写真を撮った後、男子生徒もまた颯爽と去って行った。後ろを振り返り、誰もいないことを確認すると、靴を履き替えて自分の教室へと向かう。


 埃が霜みたいに薄く積もった階段を登り、窓から差し込む光に光沢を放つ廊下を歩く。目の前には、数人の生徒が壁に寄りかかり談笑する姿があった。彼らは俺の姿に気づいたのか、俺に視線を固定してくる。


「あ、あれって昨日東さんを倒した……」「あれが!? ネーデルランド!?」


 そんなヒソヒソ話が聞こえてくる中、生徒の前を横切っていく。話の内容に、眉間にシワがよるのを感じる。だが、それが悪循環を生み出し、周りから「ヒィ」と息を飲むような声が聞こえた。さらには、目の前から歩いてきた生徒がそそくさと壁によって道を開ける。


 なんだこれ。くらくらしてきた。


 何が原因かも正確に理解はしているが、ここまでくると現実感がなさすぎて、夢でも見てるような気持ちになってしまう。


 俺は気でもふれてしまったのだろうか。皆んなの態度も、番長に対する感じではなかったし。


 どこか、蝶に誘われるような気持ちでふわふわと廊下を歩き、自分の教室の前に立った。気持ちを落ち着けるのに一つ深呼吸して、スライド式の扉をガラガラと開く。


 教室内は、なんら変わりない光景であった。一つの机を囲んで談笑する女子たち、黒板を消す日直、机にうつ伏せで寝ている男子。窓からは白いような黄色いような陽光が差し込んでいる。


 さっきまでの嘘みたいな光景ではないことにホッと胸をなでおろし、自分の席に向かったその時、談笑していた女子の一人と目があった。


「あ」


 目があった女子が小さな声を出すと、つられるように他の生徒は女子の視線をたどる。談笑は止み、何事、と違うグループも俺へと顔を向ける。そんな首の動きはクラスメイト全員に連鎖していく。全ての顔が俺に向くと、教室内は異様な静寂に包まれた。


 日直の生徒の手から黒板消しが離れる。朝日に煌めくチョークの煙が粉雪のように舞い、カチンと黒板消しが地面を鳴らす音が聞こえた瞬間、


「きたああああああああああああああ!」


 チョークの粉と共に、クラスメイトの歓声が湧き上がった。


 クラスメイトたちは、金八先生のオープニングみたいに集まってくる。さっきまで寝ていた生徒でさえ、笹食ってる場合じゃねえ、と柵を飛び越えるパンダみたいに、机を乗り越えて駆け寄ってくる。かたや俺は、ボールを持っているラグビー選手みたいな恐怖に襲われ、慌てて入って来たドアから外へ出ようとした。が、間に合わず、先頭で突っ込んできた男子に、タックルのようなハグを決められてしまい、バランスを崩した。


 やばい。そう思ってすぐ、景色は前から上へと流れ、背中に鈍痛が走る。悲鳴を上げたいところだが、背中から胸へと衝撃が貫通し、息苦しさに声が出ない。


「ネーデルランド良かったぜ昨日!」「これからの東高を背負って頑張ってくれよな!」「祝勝会は、また今度しような!」


 様々な賞賛の声が頭上から振りかかる。だけど俺は、息苦しさに社交辞令として笑顔を振りまくことすらできない。


 何だよ一体!? 歓迎の仕方がおかしい!


 それから、ガヤガヤとした騒ぎは続いたが、呼吸が楽になる頃には落ち着き始めた。そして、俺の体の上に乗っていた重みも離れて行く。


 あ。


 助かった、という安堵の気持ちより、どこか寂しさ、虚無感というものを感じた。たったの一瞬だけ。けれど確かに感じた。自分の心臓の血流が滞り、小さな渦が生まれる感覚を覚える。


 しかし、すぐに立ち上がった。周りを見渡せば、みんな目をキラキラさせて俺を見ていた。その眼差しに胸中の渦が勢いをます。それはやがて、無視できないほど激しくなり、自分がどういう感情を抱いていたのか気づいてしまう。


 俺は苦々しげに笑ってしまった。


 あれだけカシラを否定していたのに、いざスター扱いされると、喜んでしまっているじゃないか。


 ただそれは、直感的に汲み上げた感情でしかない。鬱々たる気分へと変わる。


 情けない。なにを俺は喜んでいるんだ。不正を働いて得た期待と羨望。そんなものに何の価値もない。それに、意味のわからない公園バトルで掴んだものだ。くだらないことで、こんな立場になればどのような事になるかわからない。だから俺は普通の生活で……がいいんだ。


「おっ、何の苦笑い?」「この程度で褒められるなんて、ネーデルランドには足りないとでもいうのか!?」「さ、さすがはネーデルランドだ……」


 俺の苦笑いを深読みしたクラスメイトが、そんなことを口々にした。


「いや、ちが……」


 普通の生活を送る意思を固めた直後に誤解を生んでしまい、慌てて否定しようとした。だが、後ろから肩を叩かれて、弁明を遮られる。


 首を後ろに回すと、東が俺の肩に手を置き、やれやれという表情で立っていた。


「あんた達、私が代表を譲ったからって騒ぎ過ぎよ」

「で、でも東さん!?」


 クラスメイト達は動揺を見せた。東はうろたえるクラスメイト達を見て、ばかにしたように笑う。


「私が二つ名を送ったこの男が、東高代表程度で満足するはずないでしょう?」


 ざわざわとしていた空気が静まり返る。クラスメイトの息を飲む音が聞こえる。そんな反応に満足したのか、東は俺の肩から手を外し、得意げな顔で続ける。


「事実その証拠に、昨日の祝勝会には参加しなかったでしょう?」


 東が言い終えても、皆は一言も口にしなかった。だが落ち着いてるわけではなく、そわそわしている。やがて、一人の男子が「かっけえ……」とつぶやいた瞬間、打ち上げた花火が割れるみたいに、一斉に歓声が湧き上がった。

 東の言葉が想定外すぎて惚けていると、肩に肘を置かれる。


「今度の対校戦、期待してるからね」


 その言葉に、エレベーターに押さえつけられるみたいな、無力感を覚える重さがのしかかってきた。

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