後編
『いい天気ねえ』
母の声に、自動車のおもちゃで遊んでいたぼくは、部屋の中から庭の方を見た。真っ青に晴れ渡った空の下、母親が洗濯物を干していた。
『日差しもぽかぽかで、洗濯物の乾きも早そう。こんな日に家でじっとしていることほどもったいないことはないわ。ねえ、そうは思わない?』
青空と、そこをたなびく雲のように真っ白なシーツを背景に、母がほほ笑む。
『お散歩、行こうか』
ふと目が覚めた。古びた天井の木目に、視界が埋め尽くされる。夏物の薄布団から体を起こすと、妙に薄暗い事に気づいて柱の時計を見たが、針はすでに午前八時を回っていた。
ぼくは初めて、この薄闇に不安を覚えた。
昨日と同じようにぼくは縁側に座り込んで、暗い空を見上げていた。考えているのは、今朝見た夢のこと。
どうして今更、母親の夢なんて見たのか。
母が死んだのは、もう五年以上も前。ぼくがまだ、小学校に入ったばかりのときだ。死因は知らない。当時に聞いた気がするが、まだ小さすぎて分からなかったんだと思う。かといって今更聞き直す事もできずに、今に至っている。ただ、病院のベッドに横たわっている母親の姿と、花に囲まれて優しく笑っている大きな顔写真だけは、今でもやけに鮮明に覚えていた。
「晴ちゃん、おやつですよ」
振り向けば、ばあちゃんがガラスの器に盛ったかき氷をお盆に乗せて立っていた。黙ってそれを受け取りながら、ぼくは小さな違和感に気づいた――ばあちゃんの家で出されていたおやつはいつも、スイカだったはずだ。水分たっぷりなのにしっかり甘い、とても食べ切れないくらい大きなスイカ。それが、昨日はアイスキャンディー。今日はかき氷。
なぜ今まで気づかなかったのか。日が出ないことによる明らかな異変が、こんなに近くにあったのに。
ぼくはかき氷を一気にかき込むと、きーんと痛むこめかみを押さえながらサンダルを引っかけ、裏の畑へと駆け出した。
向かう先はもちろん、スイカ畑。いつもなら、地を這い広がる
スイカ畑にはすぐに着いた。そこでぼくは、片手で持てるくらいに小さな、まだ食べられそうにないスイカしか見つけられなかった。
「…………」
サンダルの底で、地面の砂がざりっと音を立てた。周囲の木々の枝がざわざわと鳴って、静寂を際立たせる。昨日も見た古い社殿を、ぼくは黙って見上げた。
一陣の風が地面の砂を巻き上げ、反射的に目を閉じた。風が通り過ぎるのを待って、ゆるゆると目を開く。確かめるように見た社殿の階段の一番上に、先ほどまでなかったはずの白い人影があった。真っ白な着物に同じ色の袴をはいた、黒髪の女の人――カリンさんだった。
カリンさんはぼくに向かってふわりとほほ笑んだ。
「ようきたな。今一度、おぬしと話してみとうと思っておった」
ぼくは小さく笑い返した。
「ぼくも、同じこと思ってた」
カリンさんは笑んだまま階段を途中まで下りて段に座り、ぼくも隣に並んで座った。
「今日は、シロさんはいないんだ」
「シロはおらぬ。一度戻って、出直すつもりらしい。まったく、あれも諦めの悪い男じゃ」
「ふーん……」
それから少し、沈黙があった。風が木々を揺らす音だけが、
聞きたいことは色々あるはずなのに、なにから聞いていいのかが分からない。なにを聞こうとしていたかさえ、静けさに霧散してしまいそうだ。
「のう、晴太」
急に呼ばれて、ぼくはの心臓は跳ねた。しかし、カリンさんがそれに気づいた様子はない。
「なぜ人間は、日の光を嫌うようになったのじゃろうな」
「……そう、かな」
戸惑いながら小さく答えたぼくに向かって、カリンさんはうなずいた。
「肌が黒くなるとわめき、皮膚や目の病になると騒ぐ。なぜじゃ?」
「それは……」
「皮膚の病になるなど、かつてはあらなんだ」
カリンさんは声を大にして、ぼくは驚いて黙った。感情的になるのをこらえようとするように、カリンさんは瞳を震わせて続けた。
「日の力が人には強すぎることは、言われずともよく分かっておる。じゃが今までこれほどのことはあらなんだ。天と下界を分かつ壁によって、下界に降る日の力が殺がれ、調節されておったからじゃ。それがどうじゃ、今壁は傷つき、薄くなり、崩れかけておる。人間どもが出す妙な気体のせいじゃ」
ぼくはなにも言えずに、カリンさんを見詰めた。
「今や病を恐れて、日の下に出ぬ者までおる。じゃがそれは、照る日のせいなのか? 違うのならば、なぜ今の人間は日の下を嫌う?」
しばらく答えに迷って、ぼくはやっとぽつりと返した。
「ぼくには、難しいことはよく分からない」
「……そうか」
落胆したようにカリンさんは言い、数拍間をおいてつぶやいた。
「おぬし、晴れた日は好きか?」
少し考えて、ぼくは素直に答えた。
「冬ならまだいいけど、今みたいな夏だと、暑くて、ちょっと動くだけですぐに汗まみれで、日焼けするって女子がわめくのがすごくうるさくて。実際ずっと外にいると日焼けで顔とかがひりひり痛くなって、たまに熱中症みたいになって倒れるような人がいて、クーラーの使いすぎで電気代がめちゃくちゃかさんで。正直、面倒臭いことがたくさんある」
「……それは、嫌いということか?」
カリンさんは小さく言い、ぼくは唇を湿してから言った。
「母さんは、晴れが大好きな人だった」
一度言葉を区切ってカリンさんを見ると、カリンさんは少し驚いた顔でこちらを見ていた。
「天気がいいと、母さんはそれだけで機嫌がよかった。晴れた日には必ず、お散歩に行こうって言ってぼくを連れ出して、特に目的地もなくのんびり歩き回って、途中で公園に寄ってちょっと遊んで。ぼくもそれが結構楽しくて、嫌いじゃあなかった」
ぼくは、カリンさんに向かって淡く笑ってみせた。
「天気がいいと、それだけで食べ物が美味しくて、なにかいいことがある気がして、特に意味もなくわくわくして。母さんは生き物がみんな元気でいられるのは太陽があるからだって言ってたけど、確かに真っ青な空を見ると、とにかくすごく気持ちがいいんだ」
灰色に濁った空を仰いで、ぼくははっきりと言った。
「ぼく、晴れた日にはやっぱり外に出たくてうずうずしてる。だからぼくは、晴れた日は大好きだ」
カリンさんは呆けたような顔でぼくを見ていた。だが、突然吹き出したかと思うと、大笑いを始め、今度はぼくがぽかんとしてカリンさんを見た。なにがそんなに面白いのか、カリンさんはお腹を抱えながら、張りのある声でぼくに言った。
「よい、よいぞ晴太! わらわもそう思っておったのじゃ。素晴らしいぞおぬし。わらわの見込んだ通りじゃ」
「それは、どうも」
戸惑うぼくをよそに、カリンさんの表情は急に晴れやかになった。温かさをもたらすその笑みに、今まで彼女がいかに沈み込んでいたかが、出会ったばかりのぼくにも分かるほどだった。
「満足なされたか」
不意に声がして、カリンさんの方を見ていたぼくは驚いて正面に振り向いた。
いつの間にあらわれたのか、一様に白い装束を着た男女が複数人、立っていて、ぼくはぎょっとした。しかもなぜかみんな眉を吊り上げた怒った顔をしていて、たまらずおののく。背格好は面白いほどにばらばらだったが、一番前に立っているのが、昨日ここで会ったシロさんであることだけは分かった。
シロさんはぼくから目をそらすと、真っ直ぐカリンさんの方を見た。カリンさんは上機嫌なまま、ぼくの隣で高笑いした。
「ツクヨミよ、まさか全員つれて来るとはゆめ思わなんだぞ。おぬしも偉くなったものじゃな」
「皆、姉上の勝手に痺れを切らしておられる。一刻も早くお戻りを。闇が力を得る前に」
なぜかシロさんが答えて、カリンさんはふんと鼻を鳴らした。
「分かっておる。始めからそのつもりじゃ。じゃがまあ、確かに少し長居し過ぎたかもしれんの」
カリンさんは言いながら立ち上がって、階段を一番下まで下りた。
階段を下り切ったカリンさんは、いつの間にか白い着物と袴ではなく、たくさんのひだがついた真っ赤な衣を着ていた。いくつものまげに結った髪に、花に似た装飾きらめく金冠を乗せている。
訳が分からないままぼくが呆然としていると、飾り玉をさらりと鳴らしてカリンさんが振り返った。
「晴太。わらわが一番欲しい言葉をくれたおぬしに、心から礼を言おう。下界に降りたのは間違いではなかった。おぬしのような者が一人でもおるかぎり、わらわは天にあり続けると約束しようぞ」
ぼくはすべての状況に思考がついていけなくなっていて、なにも言えなかった。
カリンさんは衣の裾をひるがえして背中を向けて、白装束の人たちに交じった。
「皆よ、心配をかけてすまなんだ。帰るぞ」
シロさんを含めた白装束の人たちが、カリンさんに向かって
「では晴太、達者でな」
最後の言葉とともに、カリンさんの輪郭がぼやけた。ぼくは急に目がかすんだのだと思って、目元をこすり、まばたきした。しかしその間にカリンさんの姿は空気に溶けるように薄まり、気づけば消えていた。他の人たちも、どこにも見当たらなくなっていた。
途端にぼくは、昨日からのでき事すべてが現実感を失った気がした。木のざわめきと一緒に神社の
高慢なお姫様みたいにわがままで高飛車な女の人も、それに振り回される苦労性な弟も、きっと全部が夢。あまりにも全部が、現実から離れてしまっていて、夢でなければ説明がつかない。
ふと、周りが少し明るくなっていることに気づいた。空を仰いでみて、ぼくは目を見開いた。
鈍色の雲の合間から細く差し、そして広がってゆく日の光。
太陽が地上を隅々まで照らし、空が鮮やかに染まっていく。底のない澄み切った青に、ぼくはまばたきさえ忘れて見入った。
忘れていた気がする。晴れた空が、こんなに綺麗だってことを。
母さんの声がする――
『見てごらん、晴太』
呼ばれて、ぼくは路肩に屈んでいる母さんに駆け寄った。そこには畑が広がっていて、濃い緑葉の隙間から、まあるいトマトが顔をのぞかせていた。
『綺麗な色ね』
真っ赤に熟してぴかぴかと光るトマトを、ぼくは母さんを真似て見詰めた。
『ねえ、晴太』
ぼくが振り向くと、母さんはまだトマトを眺めていた。
『わたしたちが毎日美味しいものが食べられて、こうして健康でいられるのはね、お日様が毎日、わたしたちにたっくさんの元気を分けてくれているからなのよ。晴太もたくさんお日様を浴びてるから、きっとあっという間に大きくなるね』
言い終わると同時に、母さんはぼくに笑いかけた。その笑みがまぶしくて、ぼくはちょっとだけ目を細くした。
『明日も、一緒にお散歩しようね』
母さんがぼくの小さな手をとり、ぼくもそれに応えてうなずいた。
――Fin
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