晴天好日
入鹿 なつ
前編
しかくして、
――『古事記』より
◆ ◆ ◆
食べ終わったアイスキャンディーの棒を名残惜しく口にくわえたまま、ぼくは縁側にペタリと座りこんだ。正面には長く畝が連なる畑が見渡せて、そこをじいちゃんの禿げ頭が行ったり来たりしているのが見える。
もう八月も半ばだというのに、風は半袖を着た肌に心なしかひんやり感じられた。常ならやかましく鳴き立てるアブラゼミも、どこかローテンションだ。
退屈さに伸びをして、そのまま縁側にごろんと寝転がった。くわえているアイスキャンディーの棒はもう甘味も消えて、木の味ばかりになっている。視界に入った軒先では、あまり用をなしていない風鈴が寂しげにちりちりと鳴っていた。
小学校六年のお盆休みに、例のごとく親の実家に連れてこられたわけだが、やはり例のごとくなにもないど田舎で退屈な日々を送っているというわけだ。
「これ
間延びしたなまり言葉が降ってきて、ぼくは億劫に思いながらよっこらせと上体を起こした。注意をした本人はといえば、首にかけた手ぬぐいで広い額の汗を拭って、ぼくのかたわらに腰を下ろした。
「いかんなぁ」
ズボンのポケットから煙草を取り出しながらつぶやいたじいちゃんに、ぼくは首をかしげた。
「じいちゃん、どうかしたの」
「それがなぁ、なかなかお天道さまが出てくんねぇもんで、野菜がちいっとも育たねえんだ」
言われてようやくぼくは、そういえば、と思い、鈍色の空を見上げた。
確かに最近、青空を見ていない。天気予報で晴れマークを見なくなって、そろそろ半月は経つかもしれない。それ以前からすでに、晴れの日はまばらだったようにも思う。
今までそれほど気にとめることもなく、かえって過ごしやすくていいなどと安易に考えていたが、そう楽観もしていられないみたいだ。
「そっかぁ。そっちの問題が出てくるんだ」
「なんのお話をしているんですか」
障子戸を開け放した部屋の奥から、ばあちゃんがかっぽう着姿で出てきて、ぼくとじいちゃんは一緒にそちらを見た。ばあちゃんは、麦茶のコップが二つ乗ったお盆を持っていた。
「いやな、日が照らんもんだで困ったなあっちゅう話をしとったんだ」
じいちゃんは麦茶を受け取りながら言い、ばあちゃんはそうですねと言いながら裏の畑に目をやった。
「確かに、このままだと少し困りますねえ」
なんだか切実そうだと思いながら、ぼくはアイスキャンディーの棒を部屋の隅のごみ箱に向かって放り投げた。かこん、と軽快な音をさせて小さな木の棒がプラスチック製の筒の中に落ちる。
ナイスシュート。我ながらなかなかのコントロールだ。
「ばあちゃん、父さんは?」
「
「ふーん」
ぼくも麦茶を受け取ると、きんきんに冷えて水滴がたくさんついたガラスコップに口をあてた。
「ところで
ぼくは一気に麦茶を飲み干して、コップを無造作にお盆に戻した。
「ちょっと出かけてくる」
「あ、これ、晴ちゃん」
ばあちゃんが呼び止めるのを無視して、ぼくは縁台の下に置いてあったサンダルを引っかけると、一面に田畑が広がるカントリーロードへと繰り出した。
田んぼ脇の水路をまたぎ、
「なんで宿題なんてあるかなぁ」
七月の大会を最後に忙しい陸上部から解放されて、ようやくのんびりできるというのに。部活に明け暮れてた日々を考えれば、宿題があったとしても十分のんびりしているわけだけれども。
あーあ、とため息をつきながら、ぼくは軽くのけぞって空を仰いだ。
空はやっぱり灰色で低くて、涼しい風が神社を囲う木々の枝を揺らしながら吹き過ぎていく。
今年の夏は本当に過ごしやすい。夏らしくないくらい気温が上がらないのだ。その証拠に、今年はまだ一回もクーラーのスイッチを入れていない。電気代節約で家計も大助かりってね。しかし、やはりそれでは済まない部分もあったりする。
さて、これからどうしようか――。
「放っておけと言うておろうが!」
突然響き渡った怒号に、ぼくはびっくりし過ぎて階段から転げ落ちそうになった。
「な、なんだぁ?」
思わずぼくの口から出た問いに応えるかのごとく、今度はさっきとは違う声が怒鳴るのが聞こえた。
「そうは参りませぬ。あなたには責務を果たしていただかねば」
「ええい、うっとうしい奴じゃのう。おぬしは一人でとっとと帰れ」
二つの声が聞こえたのは、ぼくの背後。社殿の扉の向こうからのようだった。詳しい状況は分からないが、男女が言い合いをしているのだと思う。社殿の中でけんかとは、ずいぶんと罰当たりな大人がいたものだ。
ぼくは足音をしのばせて階段を上がると、好奇心に背中を押されるまま、扉の格子の隙間からそうっと社殿の中をのぞき込んだ。
「まったく、いつまでこんな勝手を続けるおつもりか」
「知らぬ。わらわのせいではない」
「質問の答えになっておりませぬ」
「ではなんと答えればよい」
「一言、戻ると……」
「い・や・じゃ! 嫌われるのが分かっておるのに、なぜ戻らねばならん」
社殿の中は暗かったが、わずかに差し込む外光で、人影が動いているのは見えた。祟られても知らないぞ、などと他人事に思いながらぼくはのぞいていたが、会話の続きに思わずぎょっとした。
「誰が嫌うというのですか」
「では聞いてみるか? そこにおる子供に」
ぼくは周りをきょろきょろと見回した。辺りにはぼく以外に子供どころか、人すらいない。つまり、そこの子供というのは……。
くるりと扉に背を向けると、ぼくは段飛ばしに階段を下りた。大きな賽銭箱を飛び越し、参道の砂利を蹴り飛ばしながら一目散に駆け出す。
冗談じゃない! 他人のけんかに巻き込まれてたまるか。元陸上部の足をなめるな。
ところが、前方に思わぬものが見えて、ぼくはたたらを踏んで急ブレーキをかけた。目の前に立ちはだかった賽銭箱を、信じられない心地で凝視する。
ええと、ぼくは神社に背中を向けて走ってたわけで、だから賽銭箱もあるなら後ろのはずで……というか、さっき飛び越えたのはなんだったのか。
「そう逃げずともよい」
くすくすと笑う女の声が降ってきて、ぼくは混乱の最中でおそるおそる目線だけを上げた。
賽銭箱の向こうには、当然社殿がある。さっき背を向けたはずの社殿が。そしてやはり、段飛ばしに下りたはずのささくれた階段があって、そこを下りてくる二人の見知らぬ人物がいた。
ぼくはちらりと、右に目をやった。長い濡れ羽色の髪の美女がにこにこと――なにが楽しいのか分からないが――こちらを見ている。それにぎこちなく笑みを返して、今度は左を見ると、やはり長い黒髪を後頭部で結った美男が、女性とは対照的な仏頂面で正面を見ていた。
不意に、男が目だけをこちらに向けてきた。にらむような眼差しに思わずぎくりとし、ぼくは顔を正面に戻してうつむいた。……なんだ、この状況。
逃げようとしたところを引き止められ、なぜか美男美女にはさまれて社殿の階段に座っていた。初対面の人間のけんかに巻き込まれて、もはや逃げる手段もないらしいことは理解した。なぜぼくが、ということは無益だから今は考えないことにして、とりあえず、なに者だろう、この人たち。
問答無用で他人をもめ事に引き込むのも人間としてどうかと思うが、二人とも同じ白い着物に白い袴というのもなにやら勘ぐらさせる。こんな田舎の氏神神社に、巫女や神主なんていただろうか。なによりこの人たち、しゃべり方が変わっている。
「さて、まず先に名乗るのが礼儀かの」
女は言うと、気の強そうな切れ長の目を細めた。
「わらわはカリンという。そっちは弟のシロじゃ。愛想はないが気にするな。いつものことじゃ」
それにしても、わらわなんて言い方、テレビの時代劇でもあまり聞かない気がする。二人共見た目は若いようだけれど、実はうん百年前、もしかしたらもっと前の人間ですとか言い出しそうだ。あるいは、家がとんでもないお金持ちとか。
「して、おぬしの名はなんじゃ」
考え込んでいたところで急に話を振られて、ぼくは焦った。
「え? おぬしって、ぼく? えっと……ぼくは、晴太」
「ほう、晴太か。それはよい名じゃ」
そうだろうか。ぼくとしては、古臭い感じもしてあまり気に入ってないのだけど。
「では晴太。単刀直入に聞く。おぬし、今の状態をどう思う」
なにやら勝手に話が進んでいるようだが、そう聞かれればぼくの答えは一つだ。
「なんでもいいから、早く帰りたい」
ぼくは素直に答えたが、カリンさんはそれが気に入らなかったらしくわめいた。
「ええい、そうではない」
「じゃあなんて答えたらいいのさ」
「じゃから――」
「そなたも気づいておらぬわけではなかろう」
シロさんが話に割り込んできて、カリンさんはむっと口を曲げてそちらをにらんだ。ぼくもつられて顔を向けると、シロさんは相変わらずの仏頂面で空を仰いでいた。
「なんの話?」
ぼくが問うと、シロさんは無言のままおもむろにこちらを見た。そして、なんとなく神妙に黙るぼくに向かって、抑えた声音で言った。
「そなたも、気づいておるはずだ。もうずっと、日が出ておらぬことを」
どきりとするぼくに、シロさんは続けた。
「それをそなたは、どのように見る」
なぜそんなことを聞くのか、ぼくには分からなかった。そんなのはただの自然現象だし、気象予報士でもないぼくにそんなことを聞かれても困る。けれどシロさんの顔や声は大真面目で、多分、ぼくも真面目に答えるべきなのだと思う。
少し考える間をとってから、ぼくは言葉を選びながら言った。
「ぼくは、別にどうとも。ただ、季節の割に気温が上がらないから、過ごしやすいかなってぐらいで。でも――野菜が高くなるのはいただけない」
ため息を吐き出しながら、ぼくは続けた。
「困るんだよね。食費もばかにならないし。かといって野菜食べないわけにもいかないし」
確かに大問題だと気づき、ぼくは財布の中身をきちんと計算し直してみた方がいいだろうかとうなった。
「……おぬし、歳はいくつじゃ」
「え?」
計算に没頭しかけていたぼくが聞き返しながら顔を向けると、カリンさんは驚いたような呆れたような、そんな表情をしていた。
「あ、ぼくの歳? えっと、今は十二かな」
「とても今のは十二の子供の
ぼくは軽く頭をかきながら、そうだろうかと考えた。
「うーん。言われてみれば、確かにそうかも。でもうち、母親いないからさ」
言った瞬間、両側から息をのむのが聞こえたが、ぼくは気にもとめなかった。こういうのには、慣れている。
「おぬし……」
カリンさんがなにか言いかけたが、ぼくは軽く笑ってそれを制した。
「もう帰っていいかな」
少し間があってから、カリンさんは低く言った。
「……そうじゃな。引き止めてすまなんだ、もう帰るがよい」
「それじゃあ」
ぼくは立ち上がると、挨拶だけしてさっさと神社をあとにした。
空はすでに暮れかけていて、ますます暗かった。家への道中、ぼくの頭の中は色々な感情で、なんだかぐちゃぐちゃしていた。理由は自分でも、よく分からない。きっと久しぶりに母親の話をしたからに違いないと、漠然と思った。
◆ ◆ ◆
「満足なされたか」
小さくなっていく晴太の背中を見送る横で弟が言うのが聞こえて、カリンはわずかにうつむいた。
「……のう、
シロが目をやれば、どこか憂い気な姉の横顔があった。
「どうかなされたか」
一瞬の間のあとで、カリンはぽつりと言った。
「わらわは、一体なんなのであろうな。自身でも、分からのうなってしもうた」
「姉上?」
シロが怪訝に
「ただ一つ分かるのはな、今一度、晴太と話をしてみとうということだけじゃ」
いまだ暗いままの空を、カリンは少し、見上げてみた。
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