プロットメーカー

天羽由鷹

お題「穴」

 憂鬱な目覚まし時計の先を越して、その日は珍しく早朝に目が覚めた。だが、早朝に目が覚めたところで、やるべきことは何もない。出勤時刻まで、まだしばらく時間がある。かといって、二度寝する気分でもない。とりあえず、暖房をつけて、暖まろう。

 家内が急死して以来、忘れ形見のようにおれはいくつか生前に交わした約束事を頑なに守り続けている。酒はほどほどに、煙草はやめなさい。そのことば通り、おれは酒も煙草も断った。酒に関してはやめろとまでは言われていなかったけれども、ほどほどに加減をするということがおれにはどうもできなくて、いっそ禁酒法を自分のなかに制定してしまったほうが、負担がすくなかった。口寂しさは、のど飴で潤す。冷蔵庫に入れる必要はないのに、冷蔵庫があまりに空っぽすぎて殺風景だから、のど飴を冷やすことにしている。冷蔵庫というよりは、もはやのど飴格納庫。とりあえず、一粒ぽんと口のなかに放って、渇きを克服する。

 一人暮らしにしては大きすぎる我が家に、隅々まで暖房を利かせるには時間がかかる。足元が嫌に冷たいけれど、こればかりは我慢あるのみと、かじかんだ指先など気にも留めない。冷蔵庫の脇に素っ気なくマグネットで固定している、ゴミの収集日が記されたカレンダーを見やると、今日はどうやら缶と瓶ゴミの日らしい。缶も瓶も、おれには無縁だ。まとめるべきゴミもなく、他にするべきことも見つからず。中途半端に途方に暮れていると、何気なく視界に入ったカレンダーの日付が、ふとこの世の不条理をささやいた。

 忘れていたわけではないし、ついさっきまで家内との約束事がどうのこうのと思考したばかりだから、常に意識していたはずだ。けれど、受け入れ難い現実を、意識的に無意識へとシフトさせていたのだろう。知らなかったわけではない。知っていたけれど、知らないふりをしていた。カレンダーに刻み込まれた今日の日付は、家内の命日だった。それも、ただの命日ではなくて、記念すべき三十回目の命日だ。つまり、あれからもう、三十年も経ってしまったのだ。その事実に、おれはことばを失った。いつも近くにその温もりを感じていたはずの家内は、果てしなく長い年月の向こう側、いつの間にかおれが感知することのできない遠い場所にいたのだ。先刻まではずっと傍にいてくれているに違いないと確信していたが、その確信も、三十年という時間が未曾有の大地震を引き起こして、ぐらぐらに揺れている。そうして、ようやく気付いた。おれが今この瞬間にすべきこと、それはただひとつ。発狂することだ。


 やけくそになって、発狂のムードを盛り上げるためにも、酒と煙草がほしかった。誓いは破るためにあるものだ。三十年前の約束を律儀に守り続ける一途な中年男など、面白くも何ともない。だから、どうしても、酒と煙草がほしかったのだけれど、あいにく季節は冬で、時刻は六時を回ったばかりの早朝。せっかく暖房で暖まってきたというのに、誰が氷点下の世界になどわざわざ赴くだろう。仕方がない、酒と煙草は一旦パスだ。じゃあ、何をする。冷蔵庫にはのど飴しかない。のど飴を大量に服用したところで、何にもならない。またしても目標を失って、途方に暮れることとなった。

 せわしなく広い我が家を歩き回って、何か発狂の道連れにできるものを探していた。どうせ見つからないだろうことは、想像に難くなかった。でも、可能性は意外なところに転がっている。意外性、意表を突く何か。行ったり来たり、亡霊のようにゆったりとした足取りで、部屋から部屋へと足を運ぶ。たどり着いた先は、家内が生前使っていた和室だった。

 この和室は、物の配置こそあの頃のままになっているが、定期的に清潔を保つために掃除をしてきた。だから、今でも十分なくらい生活感に溢れている。三十年という時に阻まれているだなんて、この空間を一目見ただけでは、絶対に分かりっこない。名前を呼べば、可愛らしい返事が戻ってくる。カルトナージュと呼ばれる厚紙の工作に日がな一日耽っていた家内の姿が、ほんとうはそこにあるはずなのに。机の上には未完成の箱と、そこに貼り付けるはずの美しいポルカドットの布が置いてある。もう、三十年も、置いてある。気が遠くなる。目眩がしそうだ。思いのほか発狂というものが穏やかな感情だと知ったおれは、ただ無心にそれらの残骸を眺めていた。

 残骸に見飽きて、和室を離れようとしたとき、おれの目の前に障子が立ちはだかった。格子状に隔てられた正方形の紙の軍団。そうだ、これしかない。身を滅ぼすほど強烈な破壊衝動に苛まれて、おれは、片っ端から障子を破き始めた。サッと、暗殺者さながらの機敏さで、人差し指を正方形の中心に突っ込む。なんという、なんという背徳感。悦楽の境地。お前にも分からせてやる。おれが負った傷、おれの心のなかに開いた穴。障子よ、覚悟しろ。お前は、おれの業を背負うんだ。お前は、おれと同じように、無様に穴だらけになるんだ。そうすれば、おれたちは分かり合える。おれとお前は、同じ立場を共有する。もう、おれは独りではなくなる。孤独からはおさらばだ。さあ、リズミカルに、弾むように、ビートを刻め。紙の悲鳴が、ちょうどいい具合の通奏低音のように絶え間なく鳴り響く。楽しくて、楽しくて、ただただ純粋に、楽しかった。すべての正方形に穴が開いたとき、おれは偉業を成し遂げたと言わんばかりの達成感に浸った。いつになく上機嫌だった。酒も煙草もいらない。家内の存在も、もはやどうでもいい。三十年など、くそくらえ。晴れ晴れとした気分で、おれは跳ねるような調子で、キッチンの冷蔵庫からのど飴を取り出す。そして、一仕事終えたあとに舐める飴はうまい、とひそかにひたすらほくそ笑む。


 カーテンから、淡い光が漏れ出していた。時刻を確認し、早朝が過ぎたことを知る。そろそろ支度をするべきだろう。歯を磨いて、顔を洗って、髭を剃って、服を着替えて。また退屈な、それでいて安寧に満ちた、何でもないサラリーマンの一日が始まる。今朝は一時的に発狂したという非日常的な経験すらもはや念頭にはなかった。おれは、我が家に轟くほどの、だからといって露骨に近所迷惑にはならないような控えめな大声で、慣習的な出発のあいさつを告げる。

――それじゃ、いってきます。

 呼応するかのように、昨日までは聞こえていたはずの「いってらっしゃい」の声はなく、寂しさを感じるより先に、おれは清々しさを覚えていた。




※ Tさんより2018年2月5日にお題をいただきました。ありがとうございます。

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