文野麗

星華祭の夜

 真夏の夜には雲一つなく隅々まで星が散らばっているはずだ。昔からこの日はそうと決まっているから、きっと星たちすらも身を乗り出して見物するのだろうと思う。いくら高い建物の中にいても星に近づくことはできなくて、明るい部屋からは目に映すことも出来なくて、舞台を間近に見られる地上の民衆のほうがよほどうらやましかった。


 年に一度の星華祭はこの国で一番大きな催しで、昼間は奇抜な衣装を身につけた群衆が町を踊り歩く。けれども本番は日が落ちてから。夜は中央広場に設けられた専用の大舞台の上で、昔からの言い伝えと王家が繁栄を収めるまでの様子を役者たちが芝居として演じる。その舞台に立つことは役者にとって最高の栄誉であり、国中の舞台役者が出演することを切に願っている。もちろんマチュもその一人。


 私が身分を明かしても怖じ気づくことなく話をしてくれたマチュ。彼はためらいなく「君」と呼びかけてくれた。ステファーヌ様ですら未だに敬称で私を呼ぶのに。

 二年前の夏は生涯忘れられない。

 あの日はどうしても外へ出たかった。教育係の目の届かないところで、好きなだけお行儀の悪い真似をしたかった。合図なしで椅子に座って料理を口いっぱいに頬張りたかった。お酒も飲んでみたかった。

 私は気分が悪いと言って寝室で休むふりをした。使用人たちの目を盗んで初めて一人で外に出た。初めは強盗に襲われやしないかと怖かったけれども、人が行き交う町を歩いているうちに気が大きくなっていった。私が不用意な振る舞いをしても、誰にも叱られないと思うと胸いっぱいに息を吸うことができた。

 胸に手を当てて息を整えていると、歓声が聞こえたから、そちらへ行ってみた。人々が集まっているのは劇場だった。酔っ払いや職人らしい男たちの群れの向こうに舞台があって、派手な衣装を身につけた役者が宙をかき回すような身振り手振りをして演劇をしていた。埃とアルコールの臭いで気持ち悪くなったので後ずさりすると後ろから寄ってきた客にぶつかってしまった。大柄な男が私を怒鳴りつけた。

「おい、今俺の足を踏んだぞ!」

「ごめんなさい」

「怪我でもしたらどうしてくれんだ! 明日仕事に出られなかったらよう、飯の食い上げだ。おい女、聞いてんのか?」

 私は目をつむったまま縮こまっていた。何をされるかわかったものではない。一人で出てきたのは間違いだったと激しく後悔した。

 すると別な声が聞こえた。

「まあまあお客さん、そのくらいにしときなさいな」

 現れたのは金髪の晴れ着を着た若い男だった。

「なんだお前は」

「僕こそが次世代の花形立役マチュでございます。この顔をよーく覚えていただければ。こちらが次回の講演のプログラムです。あ、そんな嫌がらず受け取ってください。拝観料は」

「知らねえや。くそっ」

 大柄な男は機嫌悪そうに立ち去った。後に残された私は、うろたえながら、助けてくれた若い男にお礼を言った。

「感謝申し上げます」

「ううん。いいよ。慣れてるから。でも気をつけた方がいいよ。うちのお客さん、結構柄悪くて」

「役者さんなのかしら」

「そう。大役者。未来のね」

 これがマチュとの出会いだった。


 その日一日は夢のような時間だった。本当の身分と、抜け出してきたことを告げると、マチュは町中を案内してくれた。一緒に辻音楽師の演奏を聴いた。露天で売っているお菓子を食べた。魚たちが小川で泳いでいるのも見た。木登りまでした。世の中には私の知らない楽しいことがたくさんあると知った。

 別れ際、私は泣いてしまった。そのままずっとマチュと一緒にいたかったけれど、暗くなっても私が帰らなかったら、お父様もお母様も余計に心配なさるだろうから、帰らないわけにはいかなかった。

 マチュはそっと教えてくれた。

「実は、すぐにではないけれど僕のことを見られるかもしれない日があるんだ」

「それはいつ?」

「二年経ったら、僕は十八歳になって、星華祭に出られるかもしれない。そうしたら、そこで僕に会えるよ」

 マチュはそう言っていたずらっぽく微笑んだ。

「わかった。絶対にその日はあの劇を見に行くから」

「うん」

「そのときまで私のことを忘れないでね」

 握手をして別れた。マチュの手は湿っていて、大きかった。


 今夜が待ちに待った、マチュの姿を見られるかもしれない日。見られる可能性のある最後の日。私は一ヶ月後にステファーヌ様と結婚する。そうしたら他の男を想うなんてふしだらなことはできない。いいえ、今もきっとふしだらなのでしょう。お父様に強くねだって、窓から演劇を見られる部屋を用意してもらった。両親と婚約者の前で別の男を想うのだから、いけないことに違いない。結婚前最後のわがままにするつもりだった。マチュを想うことは今夜でおしまい。だからこそ、どうしても、舞台に上がって顔を見せてほしい。

 ワイングラスを片手に、父はぼやいた。

「普段は芝居になんか興味を示さないのだがね。若い娘の強情さには参ってしまう」

「よろしいではありませんか。私はああいった劇団員たちは嫌いではありませんよ。人間らしくてよろしい。なにより、星華祭は重要な行事ですから、注目するのは当然のことかと」

 ステファーヌ様は父を窘めてくださる。鈍く胸が痛んだ。

「浮かれてわめきちらすような連中が大勢集まっているのが気にくわないのだよ。あのような者たちが祭典の名を汚している。行事というものは厳粛な規律をもって執り行われるべきだとは思わないかね」

「確かに言うとおりです伯爵。さてレティシアさん、お待ちかねの劇はそろそろ始まりそうですか?」

「ええ。見物人たちが静かになりましたから、もう始まるかと」

 気まずくて、ステファーヌ様のお顔をよく見られなかった。緊張と期待で胸が苦しかった。窓に映った自分の顔は青かった。

 いよいよ会場が本当に静かになって、厳かに演劇が始まった。


 私は目をこらして劇を見続けた。役者が登場するたびに顔を凝視した。しかしいつまで経っても金髪のマチュは出てこない。

 不安でたまらず、ステファーヌ様に尋ねた。

「この後新しい役者は何人くらい出てくるんですの?」

「もう半ば過ぎましたから、登場しきったでしょう」

「そんな」

「なにかお困りですか?」

「いいえ。でも本当にもう出てこないんですの?」

「おそらくは」

 それでも私は諦めなかった。どんな端役の顔も見逃さなかった。しかしマチュはいなかった。

「これで終わりですか」

「そのようで」

「なんてことでしょう」

「いいかげんにしなさいレッティ。こんなことに気を揉むのはよしなさい」

 お母様に叱られたけれど、私の悲しみは膨れ上がる一方だった。マチュの夢は叶わない。私の願いも届かない。これが世の中というものなのか。あまりに過酷で、つまらない。涙が出そうだけれど、泣いたら両親に変に思われるから、我慢する。人生は、不運に耐え忍ぶだけのものなのだから。

 

 見物人たちがぞろぞろと帰っていく。舞台は片付けられていく。涙をこらえながら眺めていると、身体に力がはいって、震えだした。

「理由は分かりませんが、悲しんでおられるのですね」

とステファーヌ様。

「この空の下にレティシアさんが悲しむことなど何一つありませんよ」

 そういって微笑むステファーヌ様に、私はむりやり作った笑顔を返した。この先の人生も、私はずっと鳥籠の中で餌をもらう小鳥なんでしょう。それが私の運命。受け入れがたくとも、定められているの。夢は、尽きた。




***

「それで、翌朝そのまま……?」

「そうさ」

「婚約者様ご当人はどうしたんだね」

「眠り薬でちょいとね。いやあ悪いことしたとは思ってるよ」

「そんなことが可能とは思えないがね」

「役者を舐めてもらっては困る。化けるのが、仕事さ!」

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