その後ー番外編ー

この医官、体力に底はなし

 日曜日の朝。

 ひよりは久しぶりに自分以外の体温を感じながら目覚めた。実に久しぶりだった。最近の八雲は忙しく、朝出かけて夜帰るというサラリーマンのような生活からは遠のいていた。

 時計は八時をさしている。ひよりはゆっくりと寝返りをうった。八雲の目蓋はいまだ硬くつむられていた。


(疲れているんだね。昨夜は何時に帰ってきたんだろう。あ、ちゃんとシャワーも浴びてる)


 八雲は医師免許を持っている自衛官で、かつレンジャー資格も持っているスーパー医官だ。その医官さんが疲れているのかまだ起きない。いったいどんな仕事をしているのか。自衛隊の医者は普通の医者とどう違うのか、ひよりはいまいち分かっていない。


(せめて、美味しい朝ごはんくらいは作ってあげないとねっ)


 ひよりは静かにベッドから抜け……出せない。


「ちょっ……え? 絡まってる」


 ひよりが動くと八雲の腕がベッドの中央に引き寄せる。しかも、眠ったままだ。

 まるで小さな子供に母親がするような行為に、ひよりは笑ってしまう。寝ていても無意識にベッドからの落下を防ごうとしているのだ。


「さすがに心配しすぎでしょ? ふふふ」


 あらためてひよりは、八雲の腕をそっと外して大丈夫だからとポンポンと腕を撫でて起き上がった。


「こんどこそ、脱出せいこーう。さて、朝ごはん、朝ごはん」



 ◇



 結婚して三ヶ月が過ぎた。新婚ホヤホヤで羨ましいと周りは言うけれど、そうは問屋がおろしてくれない。

 幹部である八雲は忙しく、いまだ新婚旅行には行けないままである。


 ひよりは八雲が買ってくれたエプロンをつけると、さっそくキッチンに立った。


「朝だから具はシンプルがいいかなぁ。でも、疲れてそうだから具沢山かなぁ」


 野菜室を漁りながらひよりは材料を取り出した。なんせ、寝起きでもガッツリ食べられる自衛官なのだ。体が欲しているのか、モリモリ食べるのだ。


 出汁をとり根菜を入れ、火が通るのを待ち味噌を入れた。火を止め、ネギを刻んで味噌汁は完成。再び冷蔵庫からおかずになりそうなものを探した。卵、ハム、夕飯の残りの揚げだし豆腐に、ほうれん草のおひたし。サラダになりそうなプチトマトとサラダ菜が少しある。

 まさか八雲が帰ってくるとは思わなかったので、食材はそんなに買っていない。


「お昼は買い出しだなー」


 結婚してからのひよりは少しだけ変わった。八雲が不在の夜でも、手を抜かずに可能な限り料理をするようになった。キッチンが充実しているのも理由のひとつだが、何よりも八雲に食べてもらいたいからだ。たとえ、その料理が任務で帰宅できずに空振りに終わったとしても。


 フライパンに卵を流して均等にのばした。みじん切りにしたほうれん草のおひたしを甘めの味付けにアレンジして、卵に巻き込んだ。


「うまく巻けますように!」


 失敗したら、ほうれん草が散って見た目も最悪だ。


「焦げる前に巻く! でも、火はしっかり通す!」


 食中毒予防は徹底した。


「よし! いいんじゃない?」


 我ながら良いできだと、ひよりは満足げに微笑む。

 あとはボールにサラダ菜とハムとプチトマトを適当に入れて出来上がり。ご飯はあと十五分もすれば炊き上がるだろう。


 八雲が隣に寝ていたのは何日ぶりだろうか。深夜の帰宅に気づかなかったのは不覚だったが、八雲の匂いに包まれて目覚めた朝は最高にハッピーな気持ちになった。

 自然と鼻歌も出てしまう。

 今日は何をしようか。いや、何もしなくてもいい。

 お茶を飲みながらリビングでゴロゴロするのもいいし、撮り溜めした映画を観るのもいい。

 とにかく、八雲のしたいことをしよう。ひよりはそう考えていた。



 ◇



「なんだよー、ひより起こしてくれよ。お? いい匂いだな。旨そうだ」

「八雲さんおはよう。ごめん、あんまり材料買ってなくて。あとで買い出ししなきゃ」

「十分だぞ。久しぶりのひよりの飯が食える。それだけで俺は満足だ」

「でもこれ、インスタントかもよ?」


 気恥ずかしさから素直になれないひよりは、そんな風にはぐらかす。でも八雲には通用しない。


「インスタントだとしても、それを食えるように整えたのはひよりだろ。ひよりの飯だ」

「もう、八雲さんてハードル低すぎだし、私に甘すぎます」

「嫁さんに甘くしなくて誰に甘くするんだよ。まさか野郎どもに? やめてくれよ、それこそ国防の危機だ」

「大げさです」


 ―― ♪♪〜


「おっ、飯が炊けたそうだ。食おう」


 炊飯器が炊き上がりを知らせた。その音を聞いた八雲は食器の準備を始める。


「ねえ、ゆっくりしてて。私がするから八雲さんは座っててよ」

「座るのはひよりだ。よっ……と」

「八雲さんてばー」


 八雲はひょいとひよりを抱き上げると、優しく椅子に下ろした。


「エプロン姿のひよりは可愛いなぁ。やっぱりエプロンはいいな、癒しだ」

「エプロン効果すごすぎ……」

「さて、バトンタッチだ。待っていて」

「八雲さん過保護すぎますよ。もっと私のことつかっていいんですよ! ねえ、聞いてます?」


 八雲は目尻を存分に下げてキッチンに戻ってしまった。ひよりの言葉など聞いていないかのように、慣れた手つきでテーブルに朝食が並んでいく。


「八雲さんっ」

「ひよりは部下ではないよ。使う使わないの関係ではないな。それにひよりは僕がいない間は一人で全部やっているだろ。ひよりが元気でいるだけでも僕のためにもなっている。感謝だな」

「どういう意味ですか?」


 ひよりが意味がわからないと首を捻ると、八雲は妖艶な笑みを浮かべたまたま顔を寄せてきた。このアラフォー医官、色気マシマシである。


「知りたいかい?」

「えっと……その」

「食前と食後どっちがいいかな」

「それは避けられない事案でしょうか、医官さん」

「避けられない事案だね、ひよりくん」


 ひよりは思わずごくりと唾を飲み込んだ。


(一晩で疲労回復ですか……医官さん)


「食後で、お願いします」

「よろしい」


 にっこり笑顔の八雲はひよりから一旦離れて席に着いた。


「そういえば安達さんが、いつでも家においでといってた。ひよりが一人でいるのを奥様が気にしているらしい。困ったときは奥さん同士のコミュニケーションだとかなんとか」

「自衛官の妻はみんな同じですもんね。なるほどー。困ったときはそうします。今のところ私はお仕事してるから、寂しくてどうのこうのはなってませんけど」

「寂しくてどうのこうのはなってないのか……」

「いや、その。仕事が寂しさを紛らしてくれてるんですよ。もちろん寂しいですよ? 当たり前じゃないですか」

「そうか、寂しかったか。じゃあその分、尽くさないとな」

「えっ……」


 身の危険を感じてしまったのは気のせいだろうか。箸で持ち上げた卵焼きが、ポトリと皿に落ちた。


(尽くし方が半端ないのが、悩み……とか、贅沢かな……あは、あはは)


「ひよりの健康チェックも兼ねているからね」

「健康チェック……さすが、医官さん」


 確かにひよりの体調の変化にはよく気がつく八雲だ。ひより自身が気づかないこともよくある。扁桃腺が赤くなっているとか、目の下のクマが濃くなり始めたとか、水分が足りていないとか。


「僕の身体のチェックもお願いしようかな」

「えっ、私が八雲さんの? どうやって? 是非! やりたいです!」


 妻として夫の健康管理は絶対だ。しかも本物の医者から学べるならこれほどラッキーなことはない。


「そう? じゃあ片付け終わったら教えるよ」

「はい!」


 ひより、八雲の罠にハマったと気付かない。


 朝食を美味しくいただいて、後片付けをして、一息ついた。


「あ、ひより。エプロンはそのままで頼むよ」


 しかしなぜか、エプロンを外すことは許されなかった。食後にコーヒーを飲んで、ニュースのチェックが終わると、二人並んで歯を磨いた。


「やふもはん、どんなことふるの? 〜八雲さん、どんなことをするの?〜」

「お楽しみだ」


 なんで健康チェックがお楽しみになったのか。うがいが終わると、八雲はひよりを担ぎ上げる。


「歩きますって!」

「もう健康チェックは始まってるんだ。うむ、体重はオッケー。腰回りもいつもどおり」


 そのまま寝室にお持ち込みされてしまう。


「なんで分かるんですか! 私もやってみます。八雲さん下ろして」

「ひよりは何をチェックしてくれるんだ?」

「じっとしててね。失礼します」


 ひよりは八雲の身体に抱きついた。手を背中に回したり、腰に回したり。腕に絡み付いたりもした。


「八雲さん……筋肉ふえてません?」

「お! すごいな。ひよりに会えない間は筋トレに励んでいたからね。ストレス発散にもなる」

「そうなんだ。ちょっと脱いで見せてくれますか?」

「もちろんだよ」


 これがゴングになろうとは思うまい。服を脱がせたのはひより、その気にさせたのもひより。だからそれに全身全霊で答えるよと、笑顔の八雲。

 ひよりにとっての、至れり尽くせりの休日が始まった。


「エプロンのまま失礼するよ」

「八雲さんっ」


 この医官、体力に底はなし……。

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