第26話 男のロマン炸裂

 それはとても情熱的だったと言えよう。

 男はいつも女を組み伏して、褒めて宥めて慰めてその身体を我が物にしてきたのだ。

 ところがこれはどうだ。女が男に跨り、男は心構えができる暇もなく、女から唇を貪られているではないか。

 目を瞑る余裕もなく、見開いた瞳には愛らしい女の柔らかな頬が映っていた。


 ――こんなキスは、されたことがないな……


 女は唇だけでは足りなくなったのか、舌を突きつけて口を開けろと催促をする。まるで男が女を抱く時のファイナルアクションのようだ。

 当然、男は唇を開いた。


 ヌル……


 その感覚に、男は痺れた。


「ん……ひよ……っ」


 こんな劣勢は初めてであった。

 東八雲二等陸佐は反撃の余地もなく、ソファーに押し倒された。ひよりは攻撃の手を緩めなかった。上半身をぴったりと重ね、今度は東の首にキスをする。

 東は幾らでも抵抗する術を持っている。しかし、なぜかできない。ひよりが時折零す、甘い吐息が肌にかかると、麻酔を打たれたように動けなくなるからだ。


 ――焼きが回ったな……


 男が女を抱くもの、男は女を悦ばせてなんぼのもの、男は女に甘えられてこそ一人前の男である。そんな考えが、完全にもやに包まれてしまっている。

 男のプライドなんて所詮は女にいいかっこを見せるがためなのだ。それがこのありさまで、東は困惑した。


「八雲さん、いいですか?」

「えっ」


 まさか同意を求める確認を、東はひよりからされてしまう。


「もう、止められないです……わたし、我慢できない」

「ひより」

「こんなこと初めてなんです。おかしいの……今日だけだと思うので、嫌いにならないでください」


 言い終わるとひよりは、自分の膝を東の太腿の間に差し込んだ。そしてその膝をぐっと東の股間の下に押し当てる。


「ひっ、ひより。君は僕をどうしようというんだ?」


 東はつい弱気な声で聞いてしまう。しかし、もう一人の東はすでに臨戦態勢であった。


「私が東さんを、いただきます」

「これはまた、大胆だな。ひよりが僕を食すとは……君はいつも僕の想像を超えてくる」

「予測不能は嫌ですか」


 顔を赤くしたひよりが東にそう問いかけると、東は笑った。


「嫌なものか。どんな状況でも対応するのが、自衛官だ。それに、この手の斜め上は大歓迎だ。ひよりの好きにしてくれ」

「よかった。では、これより状況を開始します」

「なっ……くっ、参った」


 こんなことが起きようとは、東にとって大変嬉しい誤算だろう。状況開始を愛する女から言われるなんて、自衛官冥利につきるものだ。

 ひよりの頼りない腕は今日ばかりはそうでない。シャツをめくり、ベルトを外しとなんと手際の良いことか。東の鍛え上げられた硬い筋肉を、丁寧に撫でて唇を落とす。こんな事をされては、さすがの二等陸佐も黙ってされているわけにはいかない。


「はっ、くそ。もどかしい」

「あ、動いちゃダメです。まだ始まったばかりなんですから。あ……この傷……」

「ふっ……擽ったいじゃないか。ああ、それは山を駆け下りた時に枝で引っ掻いたやつだよ。野生の木は戦闘服も突き破る」

「もしかして、レンジャー訓練の時の?」

「うん。僕の訓練じゃなくて、衛生班として同行した時のだ。付き添いが怪我しちゃ話にならんからな。気づいたら傷痕が残ってたってだけだ」

「我慢してたんですか!」

「我慢というか、気づかなかった。訓練生のことで頭がいっぱいだったんだよ。まだ若かったなぁ」


 レンジャー訓練に衛生班として同行した時の傷らしい。教官や衛生班だからといっても安全ではないのだ。訓練生と同じ道を行く。だから、彼らもレンジャーの資格が必要なのだ。


「八雲さんも、無茶するんですね」

「そうだね。僕はいつだって無茶してるよ。ひよりをお嫁さんにしたいと思ったのも、最高の無茶だろ」

「そんなことない……好きです。八雲さんとずっと一緒にいたい」

「ひより」

「ねえ、続き。まだ、状況終わってません」

「わかった。ここからは僕も応戦するから覚悟してくれよ?」

「……はい」


 太陽が傾いて、カーテンの隙間からオレンジ色の光が溢れている。少し汗ばむくらいの温度が二人を包み込んだ。

 リビングはお互いの好きでいっぱいだ。



 ◇



 少し遅めの夕飯を終えると、東は思い出したようにリビングから出て行った。その後ろ姿はなにやらご機嫌だ。

 ひよりはというと、少しだけ後悔をしていた。勢いで襲いかかったものの、現役自衛官に勝てるわけなんてなかった。ましてや東はレンジャー資格の持ち主だ。


(下半身が、ダルすぎる……私、とんでもない事をしちゃった)


 右手で腰や足の付け根を撫でながら、東の戻りを待った。


「ひよりにお土産があったんだよ。すっかり忘れていた」


 リビングに戻ってきた東は紙袋を持ち上げて見せた。


「お土産ですか?」

「うん。都会はいろいろな種類があるねぇ。通販なんてしなくてよかった。やっぱり実物見ないとダメだね」

「あの、中身は何でしょう?」


 ひよりがそう問いかけると、東の顔が一気に綻んだ。


「男のロマンが入っている」

「男の、ロマン?」


 何のことかさっぱり分からないひよりは、ただ首を傾げるだけだ。

 東はひよりをソファーに誘い、その袋の中身を出した。丁寧に包装された二つの塊が出てくる。


「さて、どっちから試すか」


 なんとなくひよりに嫌な予感が働いた。誠実でダンディな年上の東だが、いろいろな盛りのピークを迎えた男だ。しかも体力が有り余った自衛隊の医官である。


「えっ、待って。あのっ、エッチな服は着れませんからっ」

「エッチな服……なるほど、その手があったか」

「えっ? えっ?」

「残念ながらこれは、こういうものだ」


 包装のひとつを解いた東がひよりの前で広げてみせる。黒い生地、ホルターネックと思われるシルエット、膝が隠れるくらいの丈の緩やかなAラインのワンピース?


「ワンピース、ですか」

「そう見えるだろ? しかし違うんだな。立ってごらん。付けてあげる」

「このまま? 服の上から?」

「うん。だって、エプロンだからこれ」

「エプロン!」

「やっぱり似合うな。僕の見立ては間違っていなかった。この胸のラインと前でのリボン結びは、たまらなくセクシーだね」

「セクシーって……」


 東はひよりに黒いエプロンを着せると、目を細めて眺めた。まさか男のロマンがエプロンだとは思わなかった。ひよりは複雑な気持ちでドアのガラスに映る自分を見た。


「大人っぽいかも」

「だろ? もう一着あるんだよ」

「え、まだあるんですか!」


 東は手際よく黒いエプロンを脱がせると、もう一方の包みを開けてひよりの後ろからそれを着せる。

 同じようにそのエプロンも前でリボンを作るタイプだ。しかし、先ほどの黒いエプロンとは打って変わって華やかだった。


「さあ、こっち向いてごらん。うん! これはこれで素晴らしいな」


 ちょっと興奮気味に東は語った。


「ひよりの可愛らしさが引き立つね。なんてことだ……これでキッチンに立たれると破壊力があるな」

「あの、八雲さん?」


 東は惚れ惚れとした視線をひよりに向けている。ひよりはいたたまれない。なぜなら身につけたエプロンがあまりにも可愛すぎるからだ。


「ピンクのエプロンなんて、無理かも。ひらひら多くありません? それに、丈も短いですしこんな大きなリボンがついてて、実用的ではありませんよね」

「実用的かそうじゃないかは、さほど問題ではないよ。重要なのはロマン、だ」

「だから、そのロマンって……ひゃっ」

「あーだめだ。ひより、すまん。もう一回」

「なんで? えっ、嘘ですよね」

「明日は日曜日だし、ひよりの身の回りの世話は責任持ってする。なんにも心配しなくていいからな」

「いやだー」


 何が男のロマンだ! 単なる変態じゃないか! と、ひよりは心の中で悪態をついた。本気で抵抗すれば東はきっとやめてくれる。でも、ひよりは抵抗しなかった。いつも大人で冷静な男が、自分にだけ理性をなくすのだ。女冥利につきるではないか。


「ロマンじゃなくて、変態ですよ」

「いや、ロマンだ」

「いいえ。変態です」


 ベッドの上に寝かされたひよりは、せめてもの反抗と言い返す。ひよりを見下ろす東は、納得がいかないのか片方の眉をあげて見せる。


「だって、わざわざエプロン着せといて、こんなことするんだもん……」

「僕がロマンだと言ったら、変態もロマンになるんだよ。そこは譲れないね」

「すごいゴリ押しっ。八雲さんの部下さんたちは大変ですね」

「そうだな」


 ひよりに何を言われようと、東に悪びれる様子はない。

 お腹の上にあるリボンをそっと解いて、エプロンの裾から大きな手を忍ばせた。


「なにがそうだなですよ。もう、これは確実にへんっ……んん」


 ひよりは東に唇も塞がれて、全ての抵抗を封印される。なぜかそれが心地よかった。

 結局はひよりも、そうされて嬉しいのだ。


(私も、変態なんだわ……)


「ひより」

「はい」

「結婚、しような」

「はいっ」


 もう逃げられるわけがない。家事を完璧にこなせる自衛官。医師免許を持っている自衛官。そして、レンジャー資格も取った陸上自衛官だ。なにをどう間違えてヤクザだと思ったのか、今となっては不思議でならない。

 胃袋も心も身体も掴まれては、離れる理由なんてどこにもない。記憶の彼方にあるマスターが言った「彼は優良物件だよ」を、今ようやく理解することができた。


 一番いて欲しい時にいないかもしれない人。

 自分より国と国民を優先して働く人。

 でも、全てが終わったら必ず帰ってきてくれると信じている。


「わたし、八雲さんのお嫁さんになります。絶対に私のところに帰ってきてくださいね」

「ひより。ありがとう! 絶対に帰ってくるよ。だからこのエプロンは他のやつの前では使うなよ」

「そこなの?」

「そこ、重要だぞ。なんなら裸でエプっ……ぐぐ」


 ひよりは東の口を押さえて叫んだ。


「へんたーい!」


 男のロマンは変態と背中合わせ。

 そんなことを思った夜だった。




 おしまい。

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