第24話 嗚咽が止まらない

 ビデオテープも残り四十五分となった。


「もうすぐ卒業なんですね」


 ひよりは自分に言い聞かせるように呟いた。安達は黙って頷き、それを見届けた久世と増田もテレビ画面に視線を戻した。



 ◇



 訓練学生はいよいよ最後の試練に立ち向かう。

 基礎訓練から行動訓練を経て、今からそれらの総括となる作戦行動を行う。作戦終了後、行軍しながら基地へ帰ってくる。無事、自力で帰って来れたものだけがレンジャー徽章を手にするのだ。


 四十キロを超えた背嚢を背負い、彼らは基地を出発した。先ずはあらかじめ定められた時間に、定められた場所で輸送ヘリコプターを待つ。それに乗り込んで作戦現場へ突入する。作戦完了後、離脱、基地への帰還となる。

 与えられた日数は四日間。この間、食事も睡眠もとる時間はほとんどない。一日一食、しかも非常に簡単なもので、睡眠も一日平均一時間ほどである。

 計画に遅れが出てはならないし、万が一ついてこられない隊員が出たら、その場で捨てていくしかない。

 極限状況の中で、最終試験は行われる。


 列を組んだ隊員二十五名は、基地を出発し演習場へ消えていった。慣れ親しんだ演習場を抜けると、そこからは未知なる挑戦の始まりだ。


 ーーザック、ザック、ザック……


 ブーツが砂を踏みしめる音だけが響いていた。



 半日が過ぎた頃、教官が助教へ合図した。


「おい、ペースを上げさせろ」

「はい」


 慎重になり過ぎたのか、体力温存をしているのか、先頭を行く隊員の時間配分が気になった。このままでは、ヘリコプター着陸時間に間に合わない可能性がある。約束の時間に間に合わなければ、作戦は中止だ。


「おい、配分考えろ! 全員失格になりたいのか! 走れーっ!」

「レンジャー!」


 単なる平野を歩くだけではない。この先は山も谷も川もある。それらを超えて指定された地点まで行かなければならない。


 ――ザッ、ザッ、ザッ、ザッ


 背嚢とブーツの音がリズミカルに変わった。しかし、それも長くは続かない。なにしろ、昼食抜きの水分補給なしで前進し続けていたのだから。

 暑さと喉の渇きに自然と口が開く。すると更に喉の奥が渇きを覚えた。


 ――ハァ、ハァ、ハァ、ハァ


 誰も弱音を吐かない。おそよ三ヶ月、地獄のような訓練を受けてきたのだからそうだろう。体力はおろか、精神ははるかに強くなった。

 そんな訓練学生の後を、教官、助教、衛生隊員が続くのだ。三日三晩、訓練学生と行動を共にする彼らの背嚢も、当然ながら重い。


 演習場を抜けてから数時間が経ち、道なき山林を抜け、藪を掻き分けて峠を越えた。予定時刻は刻一刻と迫る。

 湿気の多い日本の山は、彼らの行く足を阻んだ。枯葉は沼のように湿り、踏むたびに沈む。蔦は掻いても跳ね返り、頬を強くった。それでも声ひとつ出さない、隠密行動は続いた。鉄帽ヘルメットから伝い落ちる汗は、ドーランを絡めたおどろおどろしい色となり、顎に流れ胸元を汚した。


 ――ドドドド‼︎


 転げ落ちるように山肌を駆け下りると、陸上迷彩塗装されたCH-47チヌークという大型輸送ヘリが着陸態勢に入っていた。


「間に合った……」


 隊を率いる班長は、震える声で囁く。


 隊員たちの正面に降りたCH-47チヌークは、機体後部を開いた。

 先頭の隊員が右腕を高く上げ、後方の隊員に合図を送る。


『速やかに搭乗せよ!』


 あっという間に隊員たちを飲み込んだCH-47チヌークは、瞬く間に離陸し目的地に向かった。

 空は彼らの作戦を憂うかのごとく、灰色の雲が空一面に広がっていた。



 ◇



 機上でのほんの僅かな休息は、隊員たちの体力と精神力の立て直しに役立った。それと同時に、これからが本番なのだと緊張がはしる。


「分かっているな。降りたら休む暇などない、敵地に向けて前進だ」

「分かっているさ」


 ――着陸地点までまもなく!


 機内放送を聞いて、全員が小銃を肩にかけ直した。


 ――健闘を祈る!


 機長のその言葉を背に、僅かに浮いたままの機体から全員飛び出した。

 背嚢の重みで着地後にゴロゴロと転がる。それでも数秒以内には体を起こし、山林に向かって走って行った。

 時刻は午後五時を過ぎている。ここからは闇と闘いながら、敵陣へと前進するのだ。

 この時点でまだ、一滴の水も飲んでいない。


 夜間装備に素早く移行した。

 作戦決行は午前三時、夜が明ける前である。敵に気づかれないよう、静かに前進した。

 途中、腰の高さまである沼があった。背嚢と小銃を肩まで上げて、音を立てずに進んだ。

 荒れ果てた陸を歩くよりも、水の中を歩くのは大変気を使う。沼底に何が潜んでいるか分からない上、深さが一定ではなく、足を取られ沈みでもしたら一大事である。

 小銃や荷物をダメにするということは、作戦への参加が認められない。レンジャーの適正から外されてしまう。


 ――ここまで来て、離脱なんかしてたまるか!


 しかし、本当の地獄を彼らはまだ知らない。


「よし、十五分の休憩だ。水、食料を許可する。後のことを考えて摂取しろよ」

「はい」


 最低限の食料しかない。いや、人が想像する最低限をはるかに下回っていた。一口かじって、一口水を口に含むと、それで彼らの食事は終了だ。

 長い一日だった。いや、どこまでが一日なのかもはや分からなくなっていた。

 目を閉じると、深い闇が襲ってくる。


「おい! 誰が眠っていいと言った! おい、こら! 目を開けろ! もう起き上がれなくなるぞ!」

「はい、レンジャー……」

「目を、開けろー!」


 閉じるつもりも、眠るつもりも毛頭ない。なのに、教官は目を開けろと自分を叱責する。なぜだ、俺は眠ってなんかいない……

 刺すような痛みで我に返る隊員。

 仲間の一人が頬を強く打ったのだ。


「みんなでやり遂げるんだ。生きて帰るんだよ」


 隊員たちは再び背嚢を背負い、歩き始めた。



 ◇



 ――パンッ! パパパンッ!


「破壊完了!」

「制圧!」

「全隊員、速やかに離脱せよ!」


 夜明け前に見事、敵の隙をついて通信部隊を壊滅させた。貯蔵倉庫も撃破し、作戦は完了した。



「ここまで離脱者なし! よくやった! これより基地に帰隊する」


 ここまで二日間を費やした。あとは、生きて帰るのみだ。帰りは輸送機などない。自分の足で進むしかないのだ。

 ただ、ひたすらに足を前にだす。作戦までの間に使い切った体力は、作戦完了と共に一気に低下した。

 成功した、達成したという安堵感が、隊員たちの心と体を蝕んでいくのだ。



「うしろー! 遅れているぞ。歩けーっ、歩かないと死ぬぞ!」

「レンジャー」

「家族が待っているんだぞ!」

「レン、ジャー」


 ――ドサッ……


 いきなり一人の隊員が崩れ落ちた。

 助教と衛生隊員が駆け寄り、声をかける。


「大丈夫か? 聞こえるか!」


 隊員は体を硬直させたまま、うんうんと頷く。素早く、背負った荷物を下におろす。


「おい、指! 何本だ? 俺の指、何本になってる」

「さんぼん、です」

「三本か?」

「はい。さん、ぼんです」

「そうか、三本かー。分かった」


 助教が隊員にかざした指は人差し指の一本だった。助教は教官とこのことについて話す。

 オーバーワークであることは明白だ。無理をさせると命に関わる。しかし、ここで脱落させると今までの努力が泡になる。

 正気ではない隊員に判断能力はない。ただ、うなされるように「大丈夫です。歩けます、レンジャー」と、繰り返している。


「どうする。やめさせるか」

「……難しいですが」


 その時、同じ班の隊員が叫んだ。


「諦めんなよ! おまえ、レンジャーになるんだろ? ここでお前は死ぬのかよ!」

「おい、やめろ。教官命令だ、こいつは外す」

「しかし!」

「だったらおまえ、こいつを背負って歩けるのか。お前が背負って歩くのなら話は別だ」

「っ……」


 口で励ますのは簡単だった。しかし、どの隊員も自分のことで精一杯で、これ以上の重みをかして進む自信はなかった。


「できねぇだろ。だったら引っ込んでいろ」

「くっ……やります! 背負います」

「荷物は俺が持ちます」

「俺も……」

「自分も!」


 班員たちは荷物を分担し、担いだ。言い出した隊員は倒れた隊員を背負った。背負うと言うよりも、背中に乗せて引きずると言った方が正解だろう。

 それでも彼らは諦めたくなかった。ここで諦めたら何にもならない。これが本当の戦争だったら、自分たちは仲間が敵に殺されるのを黙って見ることになる。


「レン、ジャー!」


 背中に仲間を背負って叫んだ。するとほとんど脊髄反射ように、背負われた隊員が反応する。


「レン、ジャー……」

「お前が言ってんじゃねえよ……」


 もう、気力だけが頼りになっていた。

 担がれた彼だけではない。他の隊員も意識が朦朧とする中、ほとんど無意識に「水をください」「食べ物はありませんか…」と、誰彼構わず乞うのだ。

 だらんと、だらしなく力をなくした腕をぶら下げて、水をくれ、食べるものをくれと彷徨う。まるで、成仏できない幽霊のように。


 ――ドサッ……


 また一人、倒れた。動けなくなった隊員の荷物を分担したことで、負荷がかかってしまったからだ。


「おい、大丈夫か」

「急に体が動かなくなって、力が入りません」

「ここは、どうだ」


 衛生隊員が隊員の肩を掴んだ。


「うあっ、い、痛いです」

「ザック症ですね……」


 重い荷物を長時持ち続けることにより、負荷がかかった部分から血流が止まってしまう。そして、麻痺して力が入らなくなる。しばらくは彼も背嚢を背負うことができない。

 その荷物をまだ歩ける隊員たちが分担して、背負うしか方法はない。

 それの繰り返しで、まさに地獄のような試練が続いた。



 ◇



 小雨が降る中、レンジャー訓練を終えた隊員を待つため、基地では式典の準備が進んでいた。

 今回、何人の隊員にレンジャー徽章を授与することができるのか。

 また、この日に合わせて隊員たちの家族も出迎えで集まっていた。息子は、夫は、婚約者は、ちゃんと歩いて戻ってくるのだろうか。

 手を合わせて、祈りながら待つしかない。


「間も無く入りまーす!」


 広報官が手を上げながら走ってきた。隊員たちはまもなく基地の門をくぐるらしい。

 耳を澄ませば遠くから、あの掛け声が聞こえてきた。


「レンジャー!」

「レンジャー!」


 声を出しているのは訓練学生ではない。彼らを支えた教官、助教、衛生隊員が、並走しながら声をかけていた。


「もう少しだ、頑張れ」

「みんな待ってるぞー!」


 所属部隊の隊員たちも整列して待っていた。そして手にはそれぞれ爆竹を持っている。

 彼らが前を通過するとき、爆竹を投げて帰還を祝う。


 ――パンッ、バババババッ!


 火薬の臭いに包まれて、最後の力で行進するレンジャー訓練学生たち。

 その姿を認めた家族は、目頭を押さえた。


「健ちゃんいる……帰ってきた」

「お母さん、お兄ちゃんよ! ほら、見て! 顔、すごいぐちゃぐちゃじゃん」

「よかった。おめでとう……おめでとう」


 ボロボロになった姿を見ながら、家族は泣いた。もしかしたら棄権していないかもしれない。それでもいいと思いながら、だけどひょっとしたら居るかもしれない。どちらでもいい、生きてさえいれば。

 過去には訓練中に亡くなった隊員がいる。それを思うと、無理はして欲しくないというのが家族の本音だ。

 だから、泣かずにはいられない。


 帰還式で無事に帰ってきた隊員に、銀色のレンジャー徽章が首から下げられた。


 意識朦朧となった隊員は、点滴を打ちながら仲間の背中で過ごした。そのあとは自分の足で歩いてきた。

 ザック症で倒れた隊員も、なんとか回復し無事に帰還。それでも三名の脱落者が出たのは致し方ない。


「これからも、君たちの職務を全うしてほしい」

「レンジャー!」


 レンジャー徽章を手にしたからといって、階級が上がるわけではない。レンジャー資格を得たからといって、手当ては以前と変わらない。

 ただ、過酷な訓練に耐え、国のために強い男になったという証がこれからの支えにる。

 胸に輝くレンジャー徽章は、彼らの誇りだ。



 ー完ー



 ◇



 全ての映像が終わっても、リビングはいように静かだった。誰も動く気配はない。

 ひよりはテープが止まっても、テレビ画面から顔を動かすことができなかった。


 完全にテープが止まり自動で巻き戻しに入った。

 それが終わってやっと、安達がテープ回収に動いた。


「終わりましたよ、ひよりさ……っ‼︎」


 振り返った安達は言葉に詰まる。なぜならばひよりは、声を押し殺して涙を流していたからだ。


「あなた、どうかしたの? あらあら、ひよりさん。これ、使って。大丈夫? 怖かった?」


 安達の妻は柔らかティッシュを箱ごとひよりに渡した。ひよりは首をブンブン横に振ってから、涙を抑えた。


「怖いとかではっ、なくて……。がんどう(感動)しだだげっ……オエっ」

「我慢しないで泣いちゃって!」

「すみません。レンジャーって、レンジャーって……うわぁぁん!」


 涙をこらえると吐きそうになる。それを理解した安達の妻が、我慢せずに泣けと言ってくれた。

 子供のようにオエオエ言いながら泣くひよりに、安達はどうもできずに眉間にしわを入れるだけ。

 久世は迷いながらも、隣のひよひの背中をさすった。

 増田は頃合いを見ながら、ティッシュを抜き取って渡してやる。


「あなた! そんな怖い顔で見ないのっ。女の子が泣くとなんにもできないんだから……」


 眉間にしわを寄せているのは、怒っているのではなく、とても心配していたからのようだ。


「あなたは三時のおやつの準備して。すぐに落ち着くわ」

「わ、わかった」


 オイオイ泣くひよりに、さすがの陸曹長も役に立たなかった。女の涙には弱いのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る