二十一世紀の鶏
@ns_ky_20151225
二十一世紀の鶏
JRの水道橋駅近くで信号が青に変わるのを待っていると、コケコッコーと聞こえてきた。周囲の人々が少しざわめく。若い娘たちは顔を見合わせて笑い出した。見ると、白い鶏が一羽、バイクの後ろの籠に入れられて通り過ぎていった。
鶏が鳴いても別におかしくはないし、どんな事情か知らないけれど、バイクで運んだって変ではない。しかし、場所に意外性がある。これが雀やカラスならなんでもないし、神田川もあるのでユリカモメなどの水鳥でも珍しくはない。
けれど、鶏である。しかも時を作った。もう昼近いこんな時刻に。こういう事に人は弱い。心の隙を突かれたようで、戸惑いが笑いになる。
ざわめきと笑いはしかし、都会の人々らしくすぐに収まった。信号が変わり、私は東京ドームの側に渡る。
どこに行こうというのではない。ただ都会の景色と人々を見ていたかった。二十一世紀の暮らし。ここは千三百万人も集まりながらも統制の取れている大都市。日本の東京。正確にはその再現。世界中に散らばった記憶装置から取り出された情報が演算され、私に流れ込んでいる。
そういった処理装置の性能はあっという間に向上する。景色は前回よりさらに高精細になっていた。以前は樹木の葉や歩道のタイル、建物の壁の模様などは一定間隔を置いて繰り返されているのが分かった。そうやって処理の余裕を稼いでいた。でも、今はもうその繰り返しのパターンがわからない。遠くの人や車の動きにも手抜きはなく、それぞれ別々に、きちんと物理法則や、交通ルールなどの規則に従って動いていた。
周りを見回しながら、そろそろだな、と、私は心の準備をした。仮想時間旅行の終わり。まばたきをした瞬間、元の世界。
五分ほど待ったが、二十一世紀の音は止まなかった。臭いも、そして、人々も建物もそのままだった。もう五分、十分待っても変わらなかった。
心の中で問合せをタイプしたが返事はない。処理中の音すらなかった。雰囲気を壊すのでメニューは非表示にしていたが、表示の要求をしても投影されなかった。何度かまばたきをしてみたが視野内にはノイズも現れなかった。
周囲では人々が流れるように通り過ぎていく。試しに観光案内を要求する信号を飛ばしたが無反応だった。というより、飛ばせたかどうかも分からなかった。
「あの、ちょっと済みません」 工事現場のそばで歩行者を誘導している警備員に声をかけた。良かった、音声命令は機能している。振り返り、こちらに愛想笑いをする。
「帰りたいんですが」
妙な間が空いた。
「どちらまで?」 愛想笑いは消えた。おかしな反応だった。明確に帰還を要求したのに。
自分が混乱してきたのが分かった。とりあえず、ここを離れて落ち着こう。
「あ、いえ、もう結構です。分かりましたから」
あわててその場を離れる。少し歩いて振り返ると、その警備員はこちらを怪訝そうに見ていたが、すぐに興味を失ったらしく、歩行者に注意を戻した。
それから落ち着ける場所を探し、後楽園に入った。池のベンチに腰掛けて一つ一つ命令を確かめたがどれも全く機能しなかった。例外は音声だけ。入園料金を払う時も音声しか機能しなかったので手間取った。
アメンボが作る波紋を眺める。ただ同心円を描いて広がるのではなく、浮かぶゴミや風、他の波紋で乱されている。処理性能の無駄遣いとしか思えない。つま先で数センチ掘ってみたがそこにも手抜きはなかった。靴は湿り気を帯びた土で汚れた。
そう言えばさっきの警備員も音声しか機能しなかった。でも帰還要求は通らなかった。なぜだろう。料金は時間分しか支払っていないのに超過の警告も表示されない。そもそも契約には自動延長は含まれていない。こっちが要求しなくても強制的に終わるはずだ。もしかすると客に損をさせないためのおまけがあるのかもしれないが、もう一時間以上過ぎている。
その後さらに一時間待ち、やむを得ずこの仮想世界の自分の家に帰った。ここでは私は一人暮らしの学生という設定になっている。今は夏休みという長期休暇中だ。座って状況を整理する。
家に向かう途中でも、今も要求や命令を試したがやはり何も起こらない。何らかの反応やエラーもない。帰り道に音声ではっきりと帰還を要求したらすれ違う人に変な人を見る目で見られた。あれはどういう意味なのだろう。音声命令はすでに行き渡っていたはずなので時代錯誤ではない。
まさか、センターで事故でもあったのだろうか。帰還できないか、保留されるくらいの大規模な障害か。それなら私に出来る事は何もない。ただ待つしかない。こうして意識はあるのだから肉体は無事だろう。世話はあちらにまかせておけばいい。
そう考えると落ち着いてきた。ならばサービスと思ってもうしばらくここの暮らしを続けよう。もっと遠くまで見物にでかけてもいい。東京だけでなく、他の大都市も巡ってみようか。なんだか楽しみになってきた。障害ならそんな簡単に直らなくてもいいとさえ思えてきた。
仮想世界での時間は過ぎていくが、それは気にしなかった。処理性能がこれほど上がっているなら比率は相当なものだ。もう一週間にはなるが、現実世界では十分経ったかどうかという所か。多分復旧作業中だろう。今は近畿地方にいる。大阪、京都、奈良。
復旧はまだか。学校が始まった。無視して行かなかったら手紙が来た。仮想の紙だった。そこまでこだわらなくてもいいのに。でも面白そうだから従ってみよう。病気だったという事にして授業に出た。二十一世紀の教育。非効率的だが興味深い。これも後で話の種になるだろう。
バイト先の人と深く知り合った。そんなオプションはつけなかったが、復旧が長引いているのでサービスかもしれない。
まだか。自分をだますのも限界だ。いつ帰れる? あれ以来命令は一切通じない。この仮想世界のやり方でないと何も出来ない。移動もここの実時間かかる。どうせ演算なんだからスキップさせてもらいたいが受け付けられない。
卒業。就職。ここのやり方だが面白くともなんともない。ただそうしないと不審がられ、ここでの活動に支障が生じるのでそうした。それにしてもこんな細かい所まで設定があり、演算されるとは思ってもいなかった。こんな精密な仮想世界を作ったのに障害はいつまで続くんだ?
会社で私と気の合う人に出会った。いや、だからそういうオプションはいいから帰還したい。
結婚。出産。そんな馬鹿な。田舎で子育て。そこまで望んでいない。離婚寸前まで行った大騒動と仲直り。そういうイベントもいらない。仮想の配偶者と心を通わせても仕方がない。しかし、仮想でも愛は愛か。
子供が卒業し、就職し、家を出た。私の肌には隠しきれない皺がより、白髪を染めるのも手間になった。これは仮想だろうか。もうどちらでもいい。
死。あの人が先だった。あの人? それとも情報が消えただけ?
すっかり体が弱ってしまった。そこまで再現するならなぜメニューのひとつも出てこないのだろう。今日は孫が花を持ってきてくれたが、病院の規則で飾れなかった。そんな規則変えてやろうとしたがいくら音声命令を発しても相手にされなかった。
管の繋がれた体は指先を動かすのですら重い。早朝から時間をかけて頭を傾け、目を動かして窓の外を見た。よく晴れている。山は春。遮るものがないので音がよく通る。
その山道をバイクが走っている。コケコッコー。鶏が時を作った。
了
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