第1話 本って凄いんだなって。

 自転車のベダルを、力任せに一漕ぎする。


 ふわりと鼻孔をくすぐる桜の花の香りが、全身を包み込むような心地よい陽光が、どれもこれも春が到来していることを実感させる。


 小説の冒頭のような、とても優しい一時。これから何かが始まることを期待させるような、そんなワクワク感を膨れ上がらせてくれる。本来ならそれを強く噛み締め、鼻歌でも奏でながらウキウキしているところであるのだが。


 今の僕には、そんな気持ちは微塵も湧く気配は無い。それどころか、腹立たしい気持ちを抱きながら、まだ買いたての銀色に輝く自転車を酷使していたりする。


 もう一度、ペダルを力強く一漕ぎ。


『人生の探究をしなくてはならなくなった。本日の部活は無し!』


 部活の顧問教諭の、ぶち殴りたくなるようなニヤケ面が脳裏でルンルン小躍りしていた。今すぐ自分の頭をかち割り、脳ミソをこして顧問の記憶を抹消してやりたい気分になる。


 顧問の「人生の探究」とは、俗に言う女漁りである。要はナンパだ。それを可能にしているのは、顧問が世間一般的にイケメンの部類に入るからだろう。腹が立つ。


 顧問曰く「俺の行く道、女性の凱旋パレード」なのだそう。もう訳が分からないし、解りたくもない。


 さあこれから部活で青春の汗を流そうか、という雰囲気の中、意気揚々と活動場所である武道場に来るなり、「今からナンパのため部活見られないから、今日は無しで」等とほざく顧問に怒りを覚えるなという方が、なかなか難しい話ではないだろうか。


 教師が聖職者と呼ばれていた時代は遥か彼方。世も末だな、と捨て鉢的な気持ちになってしまうのは、果たして普通のことだと思いたい。


 とにかく、顧問の怠慢が理由で部活ができなくなってしまったことが、僕を取り巻いてくれている春を、思うように堪能できない唯一にして最大の原因だった。


『生真面目過ぎたって良いことないし、優も適当に発散しろよな』


 つい数分前まで一緒に帰路についていた悪友の言葉だ。


 僕は生真面目過ぎるのだという。少なくとも、ある程度の余裕を持って受け入れる懐を身に着けろ、とのこと。


 まあ、自分が多少なり細かい性格であることは自覚している、つもりだ。でもそれも人並みか、それに毛が生えた程度のものだと思う。


 はっきり言って周りの人間が適当過ぎるように感じる。というか、絶対そうだ。


 職務放棄、それも不特定の異性と遊ぶため、とかいう非常にふざけた理由がまかり通ってしまうような適当さを成り立たせろ、と言うのであれば、もう生真面目とレッテルを貼られてもいいような気がしてくる。というか貼ってくれ。至って真人間な考え方だと証明させてくれ。


 悪友―――部活仲間なわけだが、こいつらのことは小学生の頃から絡みがあるので、正直そこまで不満があるわけでもない。いや、少し語弊があるか。取り敢えず、悪友諸君の人間性は大なり小なり理解しているから、それ故に受け入れることができているのだろう。


 簡単に言ってしまえば、その人を受け入れるかどうかなんて、培ってきた人間関係による、ということだ。酷く極論な気がしないでもないが。


 ただ顧問がイケメンで、職務放棄してまでナンパに駈り出て、それを成功させていることに立腹しているわけではない。断じてない。


 はぁ、と、大きく溜め息を吐きながら、自転車を停止させる。僕はチラリと、腰に着けた懐中時計を取り出した。


 年期が入っているが、未だ白銀のフォルムには要所要所に金装飾が散りばめられている。そんなアンティークな代物は、今は亡き祖父が遺していった物だ。実はマジものの純金が使われているというのは誰にも話していない、話せない事実だったりする。手入れを欠かさずしているだけあり、現役で働いてくれている。実に可愛いやつである。


 その可愛い子ちゃんの針は、しっかり16時30分過ぎを指し示していた。


 このまま自宅に帰るのもありだが、今はこのむしゃくしゃした気持ちを解消したい気分だ。


 ということで、僕が取る行動はただ一つだった。


「深淵探しに行こう!」


 えらく仰々しい言葉を使っているが、やることは本屋巡りである。


 本ーーーそれは世界の拡張、世界の創造と破壊、世界の深淵を深めるモノ。実に中二病が捗る。


 本とは世界。本は作家の数だけ世界がある。同じ物語でも、作家が違えば描写の仕方が違う、表現の仕方も違う。違いがあれば、物語の見え方が違ってくる。世界が広がる。


 興奮しないわけがない。


 ああ、なんて素晴らしいんだろう。


 因みに、その素晴らしさを悪友達に広めたことがあるのだが、あまりにも尊大すぎる考え方故に「お前には付き合いきれん」という素敵な評価をいただいたくらいだ。やっぱり本って凄いんだなって。


 そうと決まれば、帰宅する時間すら惜しいというもの。高校生になって、寄り道オッケーな風潮が我が家にはあるので、それをフル活用することにする。


 ハンドルをきり、帰宅ルートから外れ、向かうは市内の街中へ。


 自転車よりも公共交通機関を使った方が圧倒的に時間短縮になるが、そこに交通費という枷が課せられている以上、それを使用するという選択肢は皆無となる。何故なら、僕はちょっと自販機でジュースを買おう、などと至って普通でお気楽な行動ができないくらいに、お財布の中は氷河期なのだ。


 お小遣いは貰っているはず。いつの間にか失くなっているから、世の中不思議なこともあるものだと思う。お小遣い消失と同時期に、僕の本棚に大量のライトノベルやら漫画やらが詰め込まれていることが多々……いや、毎回?あるから、きっとこの世界の法則で、僕のお小遣いは本に錬成されるという絶対的ルールが存在しているのだと推測される。全く困ったものだ。いや、嬉しい。気持ちとしては半々。


 そして、未だ僕の知らない本はこの世には山程あり、僕との邂逅を今か今かと待ち構えてくれているはずなのだ。


 お迎えに行かねばならない使命感に駈られる。


 因みに、その使命感を妹の悠歌に話したことがあるのだが、あまりにも神々しいすぎる思考回路故に、赤面しながら苦笑い、というよく分からないリアクションをいただいたくらいだ。やっぱり本って凄いんだなって。


 そういえば、悠歌も最近は僕と同じくライトノベルをよく読んでいる。いや、実際には読んでいる姿を見かけることは少ないけれど、悠歌のご友人ちゃんが「お兄さん、最近冒険モノの本読みました? 悠歌ちゃんが食い入るように読んでるんだけど」と半分相談じみたことを持ち掛けられたことがある。


 兄としては妹がライトノベルを読んでいるか否かというより、妹を案じてくれる友人がいるということの方が嬉しかったりするわけだが。




 そんなこんな。何のとりとめもない思考を巡らせながら、随分と通り慣れた本屋への道を快調に進んでいるとき。春の陽光と戯れる小高い土手の道。


 「それ」は、一瞬で僕の視界の外から現れた。


 突如、僕の前方数メートルに飛び出してきた「それ」を察知したとき、脳が全身の筋肉に指令を出すよりも速く、ハンドルを無理矢理にきり倒し、ついでに上体も横に倒し。


 僕はまるでギャグ漫画のキャラクターのように、無様に土手を転がり落ちたのだった。


 視界と内臓とその入れ物がメリーゴーラウンドする中で、僕は暢気にも「このまま川に落ちたら鞄の中の本がヤバい」などと考えていた。


 衝撃は思いの外早くに訪れた。


 耳元で木の枝が折れる音と葉が揺らぐ音が騒ぐ。どうやら土手の茂みに生えていた植物の塊に優しくフィットインさせていただいたようだ。そのおかげで想像していたよりかは痛みや傷は大分少なく済んだのだった。自然、大好き。


 それでも鈍く響く痛みに耐えつつ、土手の上段を見上げる形でなんとか体勢を整えようとし、僕はふと、視線を斜面の上へと向け。


 ーーー「それ」は、悠然とそこに座していた。




 「それ」は猫だった。




 一匹の黒猫。その黒猫は滑稽な格好をした僕を、ただただじっと見つめていた。


 深い青を称える、サファイアのようなその視線には、僕の全てを見透かされているかのような、どこかゾッとする冷酷さが秘められているような気がして。しかしどこか人懐っこく甘い誘惑の香りを感じさせる温かさも感じられて。


 思わず轢きかけた僕に敵意を向けるでなく、むしろ好奇心に似た感情が秘められている、そんな気持ちにさせられていた。


 息を呑むとは、まさにこのことなのだろう。


 春風になびくこと無い黒毛の中に、白色の毛が走っている。そして、それは極限まで手入れが行き届いているのだろうと感じられる程に、艶やかで、妖しく。まるで星空の下、深緑の森の中をせせらぐ清水のようで。


 端麗さと静謐さそのものを小さなその猫の身に纏っているのではないか、そんな風に感じてしまう程に。


 その黒猫はただひたすらに美しかった。


 黒猫が一声鳴く。その声に意識が現実に戻った。


 現実味を感じない景色に、思わず脳内世界にトリップしてしまっていたようだ。


 もう一度、黒猫が鳴いた。聞き間違いか。僕にはそれがーーー




『興味深い』




 ーーーそう言っているような気がした。あまりにも頓狂だと思うが。


 フワフワとした感覚だった。小説を読み終えた後の心境に似ている。小説内の登場人物に強い感情移入をし、その夢心地のままに現実へ帰ってきたときの、あの身体の奥から湧き上がる熱い感情を綿菓子に包んだかのようなーーーいや、それも正確ではない気がする。


 今の僕ではあの感覚を言葉に表す術を持っていない。如何ともし難い、誰かに伝えたいと渇望してしまう、しかしその方法が分からない。強い葛藤に苛まれながら、それが快感にもなっていて。


 僕が見上げるその黒猫には、そう思わせるだけの衝撃があったのだ。


 どれだけの時間が経っただろう。それほど長い時を経ているとは思えないけれど、僕には悠久とも思える時間が流れた気がしていた。正しくは、ずっと黒猫を見続けていたいと思える時間だった。


 突然何の拍子も無く、黒猫はするりとその身を反転させた。


 あ、と声を出す間もなく。黒猫はさながらランウェイを歩くかの如く、宙にそのしなやかな尾を踊らせながら、土手の反対側へと姿を消した。


 僕が見たものは、一体何だったのだろうか。本当に、ただの黒猫だったのか。


 僕は気づかぬうちに強張っていた肩から力を抜き。




 バキバキッと音を立てて、僕を支えてくれていた枝が折れた。




 またしても無様に転がり、僕は今度こそ川へと転がり落ちたのだった。4月の半ばに川遊びはなかなか気が早い話だろう。


 すぐに立ち上がり、全身ずぶ濡れになりながら、とにかく本の入った鞄を探した。幸い、鞄は川には落ちずに土手に引っ掛かっていた。


 さっきまで僕を包んでいたフワフワとした感覚は、川の流水と共に流れ去っていた。次いで、どっと押し寄せる徒労感。


 この格好では、本日の深淵探しも無理だ。


 鞄が水に浸からなかった安堵の息と、被った不幸に対する溜め息が同時に口から溢れる。


 取り敢えず、不幸の原因は部活顧問のせいにするとして。


 全て顧問が悪い。世界情勢が良くならないのもきっと顧問が悪い。


 濡れて重くなった制服を纏い、やるせない気持ちになりながら、僕はゆっくりと川から出て、土手を這い上がるのだった。

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