第32話
ヴェルニーナはその日もまた、朝からシンとの交流を満喫していた。
黒髪の少年は、少し前からおはようをいってくれるようになっていた。ヴェルニーナが職務の合間に一日頭をなやませ厳選した、ささやかな日常の挨拶だったが、シンはあっというまに理解し毎朝ヴェルニーナを喜ばせるようになった。
そもそも日常の挨拶に順番をつけずとも、いくつか同時に教えてよいのでなかろうか。当然ヴェルニーナはそれを考えはした。だが、おかえりを教えたときの経験から、シンとの言葉の練習自体が球をなげあう遊びのようで、大変に楽しいものであると確認し、また、その結果その言葉を言ってもらった時の無上の感動を十分に享受するためには、一つずつがもっともよさそうだという結論に至り、ヴェルニーナは順番に教えることを継続することにした。時間は十分にあり焦る必要なないのだ。
「おあよう、ニーナ」
シンのおはようは、相変わらず絶妙に舌足らずで、彼女をこの上なく喜ばせるもので大変に満足であった。一方で、彼女は名前を呼んで起こされるということが無くなったのを、わがままにも残念に思っていた。
しかし、その朝少年は挨拶をしながら名前も呼ぶという、彼女の悩みを解決する最良の答えを示した。ヴェルニーナは寝起き早々、もはや天才ではなく神なのでは?と感動にふるえて悶えた。いつもよりはゆっくりと目覚めた彼女は、シンの寝顔を見れないかわりに、遠慮がちの小さい言葉をもらって、今日は一日シンと遊び倒そうと決心した。
ヴェルニーナはその日、自宅待機ということになっていた。
それはここ数日、南の砦のなわばり強化で連日通常より大量の魔力を消費した彼女に、念のために出された指示であった。
騎士はその職務の性質上、全員同じ日に休暇とはいかず、交代で休みをとりつつ職務を果たしている。だが、ヴェルニーナの職務は特殊であり、一回あたりの消費魔力もほかと比べ非常に多い。よって通常は昼の間だけ働き、休みもきちんと保障されていた。さらに、彼女は直接戦闘能力でもテオの街で一二を争う手だれで切り札といえる存在なので、無用な消耗を避けるために必要に応じて臨時休養を与えられていた。
ただしその場合、一人だけ休暇とは上層部としては言いずらかったのか、自宅勤務を言い渡すというのが無意味で面倒な慣例となっていた。
要するにヴェルニーナは休みであり、よって一日少年と過ごせるのだった。
あれこれ無駄に少年の世話をやきつつ朝食をとっている間に、彼女はさて今日は何をしてシンと遊ぼうかと思案する。
ふと窓を見て、庭で遊ぶのも楽しそうだと考える。数日前、本来の休日に、ヴェルニーナはシンに庭での注意事項を伝えるためにあれこれ案内してあった。
友人二人に、シンを庭で一人で遊ばせることについて相談したことがあった。
ジェイクには、そこまで小さい子供でもなく男だしまあ大丈夫だろう、と過保護ぶりをあきれられ、一方ディーネには、どうしても心配なら危険なところを教えてあげてからでどうだろうか、と助言をもらった。そして当然のように、より建設的なディーネの助言に従って、実行に移したというわけだった。
また、ヴェルニーナの家は治安がよい地区にあり、壁も高いので門の戸締りだけ忘れないようにして、シンを信頼して庭に出るのを許可しようという気になっていたのだった。
もっとも実際は、案内をはじめるやいなや、少年とただ仲良く遊んでいるだけのさまに早変わりし、待て待てとシンを追いかけていたヴェルニーナがはっと我に返ったときには、日はすでにかなり傾いていた。あわててシンの手をひきを速足で庭を回り、各所でいいえを伝えなくてはいけなくなったが、少年は短い時間でそれを理解したようだった。少し考えるだけで彼女の目をじっと見て、はいと了解の意思を次々に示す。シンの賢さに心打たれた彼女は、次の日から玄関の鍵の呪文を内側から開閉できるものに変更していた。
そういったことを思い出しつつも、ソファの前の机をみやる。そこに置かれた絵本の山もまた、ヴェルニーナの目をひきつけ大変魅力的に映った。
そして短時間の、だが深い思考の結果、両方すればよいという結論をはじきだした。さらに午前中は絵本を読んで午後は庭でお昼ご飯を食べようという妙手を思いつく。彼女は己の聡明さを自賛しながら、少年を呼び、ソファにならんで一緒に絵本を読み始めた。
だがシンと絵本を読んで楽しんでいるのもつかの間で、唐突に騎士各人に支給されている連絡具が甲高い音をたてて休日の終了を大声で伝えだした。
連絡役はジェイクだったようで、この男にしては珍しく声があわてていた。
南の砦に強力な獣が接近中とのことだった。
「今回はお仲間らしいぞ。おどろけ、竜だ」
「なに!詳細は!」
おどけるジェイクだが声にはらんだ緊張は隠せていなかった。ヴェルニーナは衝撃を受け、問い返すこともなくあわてて促す。
「いま、南の砦に近づいてきてる。砦は見逃してくれそうだから流すつもりらしいが、街に向かう気かもしれん。お前じゃないと餌は厳しい。急いで来てくれ」
「了解。合流地点は?」
そのあといくつか情報を手早く交換しあう。通話が終わると、ヴェルニーナはキッチンへいき緊急時のため用意していた保存食を机にならべてシンをよぶ。シンは驚いているようだったが、はいと小さく答え、それを確認すると彼女は手早く鎧を纏い剣を取ってコートを手に取り、玄関へと向かう。雰囲気におびえているらしいシンを最後に慰めようと振り返ると、シンはヴェルニーナに向かって笑顔を見せていた。
深刻な獣の接近にひととき酔いが醒めていたヴェルニーナは、両目が伝えるシン笑顔の違和感をいやおうなしに認識し、青ざめた顔で硬直して立ちすくんだ。そして、手の振るえをおさえつけ、なんとかシンの頭をなでると、逃げ出すように家を出た。
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