第30話

 ヴェルニーナが友人二人にシンの報告をすませた次の朝、彼女が目を覚ますと、黒髪の少年が彼女の手を両手で抱えるようにして眠っていた。


 ああ……起きたくないよう……


 朝から自分に甘えてすがっているようなシンの寝相に、彼女はこの上ない幸せを感じ、珍しく職務放棄の誘惑に駆られる。だが、彼女は自分の職務については、黒髪の少年のため妥協しないと決めていた。したがって、彼女は強靭な意思でもって、かなりの精神力を消費しつつも、少年にかかえられた腕をなんとか引き抜いた。


 その日、シンはずいぶんぐっすり眠っていて、しばらくしても起きる様子がなかった。ヴェルニーナは昨晩うっかり先に寝てしまったを思い出し、あのあと夜更かしでもしたのだろうかと考えた。


 私のこと、ずっと見ていてくれたとか…………


 いつも自分がしているのと同じように、この少年も同じ気持ちで、同じようにしてくれていたりしないだろうか。そう考えたが、ずいぶん自意識過剰で身勝手な妄想のように思われ、妙な気恥ずかしさを覚えて、すぐに内心であわてて打ち消した。


 でも、そうだといいなあ


 彼女は無防備に眠る少年のほほを指でつき、昨晩みることができなかった寝顔を少しの間堪能して、名残惜しげに少年の髪をやさしくなでた。そして足音をしのばせ玄関へむかい、しずかにそっと扉をしめて家を出た。


 ヴェルニーナは道すがら、そろそろ自分がいない間にもシンが庭にでられるようにしてもよいだろうか、でも防犯上危険なのではなかろうか、などと少年のことを思案しながら、職場へ向かった。


 さて、その日は騎士たちを集めた緊急の会議があった。同僚でもあるジェイクとディーネも参加していたが、ヴェルニーナは二人と目だけで軽く挨拶を交わし、特に言葉をかわすこともなく席についた。ディーネは、フードの奥の彼女の顔をみて、特にかわりないことを確認して、すこし安堵し胸をなでおろした。


 会議の内容は、南の砦方面の警戒の強化とその分担についてであった。

 ヴェルニーナは先日砦から戻る途中、迷い込んだ獣を討伐していたが、そこは彼女のつくるの内側であった。その獣は討伐はさして難しくない程度の力しかなかったが、しかしそれゆえ通常には近寄らないはずだった。


 同様の報告が数件されており、街の防衛担当者は少なくともヴェルニーナと同程度の圧力ある獣の接近を警戒したようだ。つまり何者かの強力な獣に追われ、こちらに流れ込んできたのでは、ということだった。ヴェルニーナも南の砦の結界をつよめるように指示をうけることとなった。


「ただいま、シン」

「ニーナ、おかぇり」


 帰宅して、少年からのおかえりを再び受け取ったヴェルニーナは、昨晩はジェイクに邪魔されて言ってもらえなかったためか、初回とほぼ同じ反応で、少年をなで回して喜んだ。はしゃいで少年を抱きしめ、笑いかけると少年はかわいらしく微笑んだ。


 ヴェルニーナの敏感な目は、微妙な違和感を察知していたが、その持ち主は少年との至福の交流に夢中になっており、その警告に気が付かない。彼女は降ってわいたような幸せを、浴びるように素直に呑んで、それに酔いしれていた。

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