第25話

 かつてなくヴェルニーナは充実していた。

 いや―――今と比較するならば、彼女の人生では充実してた時期は皆無であるといっていい。


 家に帰ればあのシンがいてくれる、それを思うだけで体から活力と気力が無限に出てくるのだった。他からの視線は気にならなくなり、足取りさえも堂々しているようだ。あまりに調子が良すぎて、いかに気をもらさないか、それを彼女は心配したほどであった。


 また彼女は、私事にかまけて職務を怠るような心配もなかった。なぜなら彼女の職務の本分は、街を守るということであり、それはすなわち、あの少年を守るということであったからだ。もとより生真面目なヴェルニーナは職務熱心であったのだが、より熱心により完璧に職務を遂行していた。


 加えて、ヴェルニーナは職務にあたり残業回避を最重要事項に設定している。なぜなら当然、夜はシンとの貴重な交流の時間であり、その時間を削るつもりは彼女にはさらさらなかったからだ。緊急の案件は仕方がないが、それはシンがきてからまだ起こっていない。

 また、友人から酒の席に誘われることもあったが、そちらはさらに長くなるので断っていた。


 あの時間を減らすなんてありえない!


 ヴェルニーナはそう思い、ここ数日の少年との出来事を振り返る――――


 たとえば、シンは食後、食器を洗う手伝いをしてくれるようになった。彼女が帰宅すると昼食につかった食器を洗っていたことがあり、それをヴェルニーナがほめちぎった効果だろうか。彼女としては、シンとのスキンシップの口実に使った意味もあった、というのを自覚しているので、多少うしろめたく感じるところもあった。


 しかし、食後にシンを洗い場に立たせ、彼女はその後ろに立つ。そして彼女の主観でこっそりと、客観的には露骨に、少年を後ろから抱きかかえるようにして、仲良く食器を洗うというのを経験すると、そのようなな後ろめたさは消え去った。


「シン、お水!」

「はい」


 ヴェルニーナが言うと、素直に、だけど必死に返事をしたシンは、蓄魔石を蛇口の魔石にあてて水をだす。そして彼女はシンの肩越しに食器を洗う。ときどきシンも手を出してきて、手が触れ合うこともあった。


 完璧な体勢すぎて死ぬ!


 効率でいえば無駄が多そうな作業であった。また、二人分の食器は特に多いわけでもなく、一人で洗っても大差ない量である。だが、それらを指摘するものはおらず、ヴェルニーナは気がついているが、こちらは自発的に掘り下げる気はまったくない。


 ヴェルニーナにとって夕食の時間はもともと至福であったが、さらに楽しみが追加される事となった。

 なお、予想以上に触れ合う回数が多い日は、シンが風呂に入る間に、あの気の毒な巨岩にを頼むことになった。


 またたとえば―――


「ヴェルニーナ、おいヴェルニーナ」

「ん?」


 ヴェルニーナは意識を現実にもどした。どうやら名前を呼ばれていたらしかったが、ヴェルニーナは重要な回想に浸っていたので、聞き流していたようだ。


 彼女たちがいるところは、テオの街の役所にある騎士の控え室だった。ヴェルニーナは今日の報告を終え、その確認を待っているところだった。彼女は今日は南の砦に、いつものようにを補強しにいったが、その帰りに珍しく街道に迷い込んだ獣をついでに討伐していた。その報告を追加したため、いつもより時間がかかっていた。


「ジェイクか。何の用だ?」


 ヴェルニーナはフードをかぶったまま顔を向けて答えた。彼女は視線を気にしなくなったが、わざわざ周りも自分も気まずい状況にする必要もないので、以前と同じように常にフードを着用していた。


 彼女に話かけてきたのは、数少ない友人のジェイクで、彼もまたテオの街所属の優秀な騎士の一人であった。


「何の用ってこの前言った話だ。いつならいけそうだ?」

「いや、この前の話なら無理だといっただろう」


 ヴェルニーナはジェイクにディーネを交えての酒の席に誘われていたが、すげなく断っていた。

 もともと彼女は酒場など人の多いところは苦手であったが、以前なら、友人に対して義理を立て、そこそこ付き合って飲みにいってただろうが。


「そう冷たくするなよ」


 ジェイクはそういって、彼女の隣に腰を下ろした。

 そして周りに聞こえないよう声を潜めて言った。


「ちょっと気になる話を耳にしたんで話きかせろ。ディーネが心配してんだよ」


 勝手にここにいないディーネを発案者に仕立て上げて、ジェイクはさも困った顔をしてみせた。見た目によらず人のいいヴェルニーナが断りにくくする作戦だった。


 ああ、そういう……


 ヴェルニーナは事情を察して、この男の耳の早さにあきれを抱きながら感心した。最初に誘われた日を考えれば、シンを買った直後には情報を仕入れていたはずだったからだ。


 どうしたものかとヴェルニーナは思案する。

 ジェイクもディーネも良き友人であり、とくにディーネは前回のときもヴェルニーナを思い、いろいろと気に病んで慰めようとしてくれた。

 ヴェルニーナは、発案者はたぶんジェイクであろうと鋭い目で見抜いていたが、無意味に彼女を傷つけるようなことはしてこないだろうとも思った。お調子者ではあったが気の良い男であることを、ヴェルニーナは知っていた。


 まあしょうがないか……


 ヴェルニーナはシンの存在により忘れ去っていたが、前回の件を考えると、友人二人が心配するのは無理からぬことに思えた。また、そのような気遣いを無げにするのはためらわれた。

 さらに、もう知られているのならば、さっさと二人に説明しておいたほうが、今後のためにも面倒が少ないだろう。そう判断し、ヴェルニーナはジェイクに了承の意思を伝えた。


「でもあまり遅すぎるのは無理だぞ」

「へいへい。じゃあディーネに確認とってからまた連絡する」


 軽い調子でそういって、ジェイクは手をひらひらさせながら立ち上がる。

 ちょうどヴェルニーナの報告の確認も済んだようで、二人はそこで別れて帰宅の途についた。

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