ライト

雨籠もり

ライト

『手のひらを太陽に』を聴きながら、私は彼女の胸元からナイフを引き抜いた。

ウン。彼女は美しかった。血潮から、最大の叫び声に至るまで美しかった。録音機を持ってきておいて正解だった。今度からはビデオを回しておくのもいいだろう。ウン。

ガタ。と後ろのドアが開く。

男の子だ。斧を持って震えながらも、その目は覚悟の光で満ち溢れている。

「お父さんとお母さんをどうした?!答えろ!僕は本気だぞ!そんなちっちゃなナイフで斧に勝てると思うなよ!僕は薪割りの手伝いをずっとやってきてるんだ!力だってあるし、お前の頭なんて、簡単にかち割ってやれるんだから!」

子供はゆっくりとこちらに近づいてきた。

私は、少し後ろに下がって、録音機のスイッチを入れる。

「ウン。いい子だね。いい子だね。お兄さん、少し怖くなっちゃったから、少し、逃げてしまおうかなァ…ふふ。可愛らしいね。君のお母さんは。そして美しい……。君のお父さんは男らしかった。ねぇ、坊や。なんで私がこんなことをするか聞きたいかい?」

男の子はなんだか、ツンドラの真冬に裸で外に居るみたいに、ガクガク足を震わせながら、ブルブルガチガチの口で、それでも強気を装って「なんでだよ」と。

「君は、嘘をつく人間が許せないと思わないかい?嘘ってのは……つくもんじゃあない。嘘は本人を偽るし、他人を欺く。いわゆる『裏切り』の行為なんだ。けれど人間は必ず人生において嘘をつく……。純粋潔白な人間なんてどこにもいやしない。私は嘘が大嫌いだ。過去に、それで散々な目にあってしまってね。…いや、私の話はよそうか。…さて、賢い坊やには、人が人生で一番正直な場面って、いったい、いつ、どこ、どの場面だと、思う?」

坊やはガタガタしながら、答えようとしても答えが見当たらないので、つばを飲み込んでいた。そして、おそらく、坊やには答えられないだろうと私は察したので、私は、疲れた教授が出来の悪い生徒に、何度も教えたところをもう一度教えるように、深く、深く、音を地中まで落とすように答えた。

「それはね……。死ぬ寸前だよ。決して、厨二病のガキの妄想や、悟ったふりの"エセ知識人"の戯言と同じ類でこの言葉を発しているわけじゃあない……。分かるかい?人間は、生に執着する生き物だ。どうしても生きていたい。その一心で、本音が次々に出てくるんだ。私はね、本音が好きなんだ。そして、それが打ち破られた時の悲しみと悔しさを孕んだ叫び声が好きなんだ。君にだって、好きなアニメイションの一つや二つ、あるだろう?そのグッズを集めるのと同じなんだ。好きなものは集めておいて、いつでも聞いたり、眺めたりしたいものだろう?だから、私はそういうのを録音して、収集しているんだ。そうだね。趣味……なんだ。趣味の我慢は自己を破壊するからね。これは仕方のないことなんだよ。君にもわかるときが来る。もっとも、今ここで君を殺してしまうから、もしかしたら君には永遠に分からないかもしれないけれどね。でも、光栄なことではないかな?人のために死ねる人生なんてそうそうあるもんじゃない。君は幸運なんだ。君の今までの行動を、神様はちゃあんと見てくれていたんだよ。」

男の子は何やら困惑したように顔を歪ませる。その醜く腐り果てた表情から恐怖がぽた、ぽた、ぽた…。

私は念を押すように男の子に近づくと力の限りに続けた。

「君のお母さんはね、私に向かって、さっき、『許してください。何でもしますから……』と泣きついたんだ。一方、君のお父さんは勇敢なことに、『俺を殺してもいいが、妻と子供を殺すことは許さない。』と宣っていたよ。二人共の真実だ……。君の母親は、"この世のどんな事象よりも自分が生きていること"にしがみつく女だったんだ……。君の父親は、"自分を愛してくれた、もしくは愛してくれているだろうと予想していた人を殺すな"といった。つまりは、死後でも、"自分が愛され続けること"を望んだんだ。これが二人の本性。この本性、とてつもなく汚いと思うだろう?だが、それがいいんだ。情に訴えかけたり、取引してみたり、無様な足掻きを繰り返して生き永らえようとする。それは確かな真実の結晶だ。そして、そういう奴らの血潮は、そういう奴らの叫び声は、とても、とても、とても、気持ちがいい。まるで、採れたてのオレンジを切らずに歯で噛み潰すように。"すっきり"と……いや、それは少し言葉が違うな。あぁ、そうだ。"爽やか"な気分になるんだ。」

坊やは怖がって後ずさりを始めた。

「人の本音は汚くて脆い。そして自己中心的だ。私はそこに美しさを感じるんだ。芸術性を感じるんだ。」

震えた足で後ずさるので、当然うまく下がれる訳でもなく、無様に転げてしまう。

「どうして、逃げるんだい?有難さが分からないのかなぁ。」

眉がきゅっとなって、涙がこぼれ落ちて、短すぎる一生の終わりが間近に迫ってきていることを脳髄の底の底の底まで感じ取って、恐怖のあまり叫ぶこともままならずに、ズリズリとカーペットを引きずりながらそれでも男から遠ざかるために必死に手を動かす。真夜中の廊下。どこからか水の滴る音。

「あ、あぁ。そうだそうだ。こう考えてくれ。」

最後の足掻き。床に落ちていた櫛を男に投げつける。当たったところで効果などあるはずもない。少年はそのことをとても理解していたが、投げない手はなかった。男はニコリともせずに、ただ"何か空虚で実態のないもの"を見つめるように男の子を見つめていた。

「『今から君のお父さんやお母さんに、会いに行ける。そして、永遠に家族の形で保存される』と。最高の形じゃないか。家族愛ほど偽美に満ちるものはない。さあ、お母さんに、お父さんに、会いたいだろう?」

ボロボロ涙が溢れ、震えはますます増していく。

男は一瞬のうちに男の子に掴みかかりナイフを腕にあてがって引っこ抜く。男の子の、ハリがあって、柔らかい肉に切れ目が現れ、それを埋めるように大量の血が溢れ出す。男の子の顔から覚悟の光がとうとう消え、最後に恐怖になって拡大した。返り血をぺろぺろ舐めながら男は続ける。

「鉄の味だァ……。鉄。良い、鉄の味だ。…柔らかいね。君の腕。それも、舐めてみたいなぁ……。腕だけ、持って帰ろうかなぁ…しかし、それは傲慢というものかなぁ…。君も、あの世で腕なしだったら嫌だろう?一本、一本だけ。片手だけ、分けてもらえないかな。利き手どっち?利き手じゃない方ならそこまで使わないだろう?」

ナイフを振る。男の子が好きな、特撮ヒーローの顔がプリントされたティーシャツが千切れる。

「ウン。ウン。そろそろ声を上げてもいいんだよ?録音データがもったいないからね。」

何とか立ち上がって、走って二階に逃げようとする。が、焦っていたせいか、階段で転けてしまう。ずきずき痛む頭の中に、『急がば回れ』という言葉がふっ……と浮かんできて、男の子はいよいよ耐えられなくなってきた。息が荒くなって、心臓がバク。バク。バク。腕から血がもっと出てくる。もう何も考えられない。自分が今、この場で、斬殺されることに確信を抱いてしまっていて、そして、その膨大な不安をかき消そうと、男に"命乞い"しようか、それとも"交渉"を持ちかけるか決断しようとしている自分がいて、やはり男のさっき言っていた通りになっていてますます怖くなった。千分の一ミリメートルもの隙間も許さないくらいに、次々に恐怖と不安の波が男の子の心を押し付けていく。今はまだ生きている。しかし、数分経てば意識のない肉の塊になる。その確信がさらに恐怖を増してしまった。男の子は神様を信じていない訳ではなかったが、どうやら期待できそうにないと考え、そもそも死後の世界なんて存在するのか。意識も、生命とともに終わってしまうのではないかという考えに揺さぶられてしまった。発狂寸前だった。今までで一度も感じたことのない、前代未聞の強い強い圧迫感に押しつぶされそうになる。涙が溢れる。血が止まらない。心臓は早くなる。呼吸は荒くなる。最早一切の思考ができなくなる。恐怖に心を支配されてしまって、何をどうしても頭の中は「嫌だ」「死にたくない」「痛い」「助けて」「苦しい」の言葉しか浮かんでこなかったので、一旦息を止めて思考を完全に停止させようと喉を締めてみるも、すぐに咳き込んでなお苦しくなり、それでも階段を上がって、ようやく上階にたどり着いて、それでも成すすべはなく、ただ、死ぬまでの時間がほんの少し伸びただけであることに確信してなお絶望する。男の足音はすぐそこまで来ており、男の足の長さから察するに、男の身長から察するに、男は自分が二階に死にもの狂いで上がっていくのに合わせて階段をゆっっくり登っていたことに気付いて、さらに戦慄する。男の呼吸音と、自分の鼓動の音、男の足音と、自分の呼吸音しか聞こえなくなって、もう目を瞑ることしかできなくなった。

     ✤

 ギュッッッと目を瞑っていたので、幾分冷静さが取り戻せた。ふと、よく聴いてみれば、男の足音がしない。

その場にあるのは、自分の呼吸音と鼓動の音のみであったことに気づいた。

男は現れない。

どういうことだ?

辺りを、見渡してみる。

男の影どころか、そこにはネズミ一匹さえいなかった。

"男"はもしかして、自分の幻覚だったのか?と、急に安心感で一杯になる。

はぁ…とため息をついて、この怪我も、どこかですって怪我しただけかもしれないなと思い直して、辺りをもう一度見渡した。

本当に男はいない。

なんだか可笑しくなって、あぁ、怖かった。と声に出てしまう。

なんだ。妄想だったのか。

妄想だ。そう。妄想。

まさか自分の妄想にここまで恐怖するとは思わなかった。

これからは日々をありがたく思い、感謝して生きよう。

そう、心から思った。

男の子は怖い夢を見た。と、自分の母親に話そうと思った。お父さんに言ったって、からかうに決まってる。お母さんに会いに行こうと、階段を降りて、歩いていると、櫛を踏んづけた。さっき投げたやつだな。と思って、それを引き出しにしまって、お母さんのところへ向かった。

「おかあさーん!あのね。」

お母さんとお父さんは同じところにいた。

お母さんは、床で寝ていた。

お父さんは、机の上で目を見開いて寝ていた。

床は真っ赤に染まっていて、まるで赤いカーペットを敷いているみたいだった。

動揺して、やっぱり、幻覚じゃないじゃないか。不安が一気に拡大していって、呼吸が荒くなり、心臓が早く動き、震えが大きくなって、目眩がしてくる。恐怖が振り向く。全身の血液が逆流するかのように目が真白く塗られていく。それはもはや狂気のパレード。なんで降りてきてしまったんだろう?

念には念を押して、二階から逃げてしまえばよかった。

ふと、左腕に鋭い感覚が走る。左腕がぽとりと床に落ちていた。

「…………っっあぁ!」

痛くて、痛くて。

痛い。痛い。痛い。痛い。

「柔ら、かいね」

男は、男の子の千切れた腕を舐め回したり、甘噛みしたり、揉んでみたりしながら続ける。

「逃してみるのも面白いと思ったのに、なんで戻ってきたんだい?そうか。とうとう、人の為に死に、家族のもとへ帰って永遠の家族愛の中に埋もれようという気になったのか。偉いよ。偉い偉い。」

男の子は今度こそ本当に、絶望した。目の前は見えているのに真っ暗になった。左手の痛みが戻ってきて、思わず吐いてしまった。吐瀉物に濡る靴下が気持ち悪い。涙がとめどなく溢れかえって、思わず泣き声を上げてしまった。男がそれを見てわらっているのを見てしまって、失禁する。

男は、録音機を持ってきておいて本当に良かったなぁ…と、時代の開発者たちに感謝した。

男の子は、直ぐに立ち上がって逃げようとしたが、お母さんの腕に足を引っ掛けて転げてしまう。

悠々と男の子へ歩いてくる死神。そちらの方向を見ることができない。

「あ、あの、助け、助けて」

「ん〜…駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。駄目。君は、死ぬことを選んだんだから……。その覚悟は大事にすべきだ…。」

そして男は男の子の耳元にそっと口を近づける。

「私が、君があの世へ行きやすいように、ゆっくり、ゆっっっっっくり、殺してあげるから。」

そのまま、ナイフを男の子の頭に沿わせて引き落とす。ぽとんと落ちた男の子の耳は唐揚げの皮みたいに乾いている。

その状況にあたって、男の子の一生で、かつて体験したことがないくらいに頭が回転し、素早い、かつ丁寧な、濃密で繊細な思考の果てに一つだけの答えというか、救いの手が現れた。

男の子はヘラヘラ笑い、元母の肉と元父の肉に一瞥くれてやると、男が、男の子の胸にナイフを突き刺すよりも先に、斧で自らの頭をかち割った。

そして、てらてら光る真紅の脳みそでもって、その男を睨みつけてやった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ライト 雨籠もり @gingithune

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ