第66夜 稲荷社
このじじいが五、六歳の頃だから、まあ何十年も前、昭和の初めの話よ。
北海道の片田舎におったからなあ。その頃、住んでいた家のすぐ近くには牧場があって、それを取り囲むように深い森があったんじゃ。
家の脇には、どぶ川が流れとって、森の中へとつづいていた。
このどぶ川ぞいに遊びに出かけてな、学校が終わったら日が暮れるまで帰らん。そんなことがよくあった。
しばらく行くと、小さな空地が開けてな、そこには赤い鳥居が立っとって、奥には赤いトタン屋根の小さな神社があった。まあお稲荷さんじゃろうな。夏の終わりから秋にかけて、あたり一面にススキが生えとった。わしの背丈くらいもあるススキがのう。
遊ぶのに飽きると、お宮の前で寝転がって、青空を眺める。そうしているのが好きだったんじゃが、あるとき、そうして寝そべってて、ぼうっと晴れた空を見ていると急に動悸が激しくなりはじめてな。目の前が真っ暗になるし、きれいな青空が白黒写真のようになってゆく。
そんなことは初めてじゃったな。大げさかもしれんが、このまま死ぬんじゃないのかと思った。
わしは慌てて起きあがって、とにかく家に帰らなければと歩きだした。母親に助けを求めようと思ったんじゃな。でも、ふらふらと二、三歩進んだところで、心臓の動悸はおさまって、あたりの風景もだんだん色がついていった。
今から考えると、そのとき寝ていたのは鳥居の内側だったんじゃな。すなわち、神社の境内にな。バチが当たったのかもしれん。
それまで寝っ転がって空を見上げるのは、たぶん鳥居の外側だった……まあ、昔の話ゆえ断言はできんが。だいたい、元に戻ったら動悸が激しくなったことも、目の前が真っ暗になったことも、すっかり忘れてしまったとはずなんじゃな。日が暮れるまで別なところで遊んでたと。
それから数年たってな、何かの話のついでにこのお稲荷さんについて、母親に話したことがある。
ところが、母親は「そんなところに神社はない」という。
子供のことだから遊ぶ場所は気まぐれで、ころころ変わる。そのときにはわしもな、どぶ川にそって森の中へと行くことは絶えてなくなっていたんじゃ。そこで、まだ日も高かったことだし確かめてみようと思って、行ってみたんじゃ。
するとな、母親の方が正しかったんじゃよ。
わしがお稲荷さんがあったと思った場所には、高さ五十センチほどの石碑だけがあった。
その前に、誰かがお供えものをしたのか、ワンカップの容器があった。
いったい、これは何だったのか。
記憶違いじゃろうか。別なところのお稲荷さんが、そこにあると勘違いしたんじゃろうか。
あるいは目がおかしくなっていて、この石碑がお稲荷さんに見えたとでもいうんじゃろうか。
確かに憶えているのはのう、その石碑の周囲にはススキが生えていたことじゃ。
わしの背丈ほどもある、背の高いススキがのう。
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