第2夜 猿の王

 わしがまだ若くて、猟師をしとった頃の話じゃ。


 うん、まあおいおい話す……やめたわけはな。まず聞いてもらわんとならんのは、猿の話じゃ。


 わしらはよく猿真似だの、エテ公だのいうて莫迦にするがの、ご存知の通り猿というやつ、なかなかの知恵を持っとる。よく見てみると、人間のようなこともする。温泉に行って湯船につかっている先客に声をかけたら猿だった、なんて笑い話もあるよのう。


 昔の難しい本には猿猴と書いてあることもある。そう、エンコウ。エンコウというと河童を指すこともあるが、本来は猿のことじゃ。 


 清国の百科事典、淵鑑類函にこんな記述がある。


爪哇国、山に猴多し。人を畏れず。授くるに果実を以てすれば、すなはちその二大猴先づ至る。土人これを猴王と謂ふ。それ、人食し畢ふれば群猴その余を食す。


 ジャワの山には猿が多く住んでいて人を恐れない。果実を与えると、すぐに猿の群れの中から二匹、大きい猿が現れて寄ってくる。土地の人はこれを猿の王と呼んでいる。人が食べ終わると猿の群れがその余りを食う。


 ――とまあ、こういうわけじゃ。


 この百科事典、清の聖祖・康熙帝のときにできたというから江戸時代の中頃、ずいぶん前じゃのう。人から見れば王のように振る舞う猿がいて、他の猿は猿の王に遠慮しておったと。猿にも人間のような社会があるというのはこんにちの常識じゃが、そんなに昔から知られていたんじゃな。


 ご存じのように本邦にもむろん、猿がおる。


 昔、加賀国(石川県)の山中にいた猿はいつも丸いものを持ち歩いておって、付近の猟師たちは皆、ありゃなんだろうと訝しがっておった。ひとりが鳥銃で撃ったところ……うん、チョウジュウというのは先に弾を込めて撃つ銃じゃ、その鳥銃をぶっ放したら、わけもなくその猿は死んだ。


 近寄って、何を持っているんだろうと丸いものを見てみると、これが木の葉でくるんである。思いのほか大きい。一枚剥いてみても中身は出てこない。つぎを剥ぐ。また木の葉。つぎも、またそのつぎも……といった具合、こりゃあただ木の葉を丸めたもんじゃないのかと、その猟師が思っていたところ、とうとう中身が出てきた。


 それは……なんてこたない、銃の弾丸だったそうじゃ。


 猿にしてみれば珍しいものだったんじゃろうて。だから宝物のようにして、大事に木の葉でつつんで持ち歩いていた。そういうことらしいな。


 わしが猟師をしていた頃の話というのも、これに似ておる。


 わしは当時、会津の黒沢というところに住んでおった。山奥も山奥……峠ひとつ越えれば新潟県、会津若松よりも魚沼の方が近い。そんな場所じゃ。


 うんにゃ、腕の方はたいしたこたない。下手でもなければ上手くもなかったよ。若いときは誰でも短気なんじゃろうが、わしは他の若者より気が短い方でな、獲物を見つけたらすぐにでも撃ちたい。そのうえ、じぶんでは冷静なつもりでも、どこか抜けとる。いつの間にか風上にまわっていたり、込めようとした弾を落としたりもする。じゃによって、ずいぶん獲物を逃がしたもんじゃ。


 さてある日、近くの山に猟に出かけたところ、大きい猿を見つけたんじゃ。清国の辞書どおり……これが猴王、そうそう。猿の王でな、家来の猿をぎょうさん従えていた。じぶんは木のてっぺんにおって、家来はその下の枝にワラワラおった。決して猿の王より上には登らない。食い物をとってきて王に献上しておるもんもおるが、渡したらすぐに下方の枝へと移る。


 この猿がまた偉く大きくてのう、他の猿の二倍ほどにも見える。


 そのうえ、これがまた珍しそうなもんを持っとって、それを手で弄んでいる。加賀におった猿と同様じゃが、丸いもんで、黒く大きい。


 むろん、猿の群れの中でもひときわ目立つわなあ……うん、そうじゃ。こりゃまた加賀の話と同じ。わしはすぐに弾を込めてぶっ放した。


 猿の王は、あっけなく落下した。


 おったのは楓の木で、ばさばさ赤い葉が舞い落ちたのを憶えとる。


 すると猿の王のすぐ下の枝に留まっておった猿が、奇声をあげつつ一気に木を降りてきた……そして、猿の王のもとに駈け寄ったと見るや、すぐさま黒い玉を奪って三、四十メートルも走り去る。


 家来の猿はあらかた逃げてしまったが、憐れよのう、木の葉をとって弾丸の穴をふさごうとしている猿もおれば、血の流れるのを恐れているのか嘆き悲しんでおるのか、聞いたことのない奇妙な声を発しておるもんもいる。


 わしはその間にまた弾を込めて、黒い玉を持っとる猿を撃った。


 これも見事に命中した。


 猿の王のまわりにいた猿も音に驚いて、算を乱して逃げまどった。


 そこでわしは、猿の王が持っとった黒い玉をとうとう手にしたわけじゃ。


 これも葉で何重にもくるまれておって、黒く見えたのは葉が腐っていたものらしい。ご丁寧にも、山葡萄の蔓をぐるぐる巻いとった。


 中を開いてみるとな、短刀じゃった。


 いやいや、そうたいしたもんじゃない。柄は腐っとったし、刃は火箸のように曲がっておった。見てすぐに、とうてい使いものにならんと分かるシロモノじゃった。


 柄を握って刃を裏返したり、元通りにしたりして見ていると、刃の部分がグラグラしているのに気づいた……と、つぎの瞬間にはそう強く握っとらんのに、柄の部分が割れた。いや、割れたというより分解したというか、粉々になったというべきか……。


 刃を指先でつまんで、もう一度検分してみると、その下の方に何やら字が彫ってあった。何の字だろうと、くっついとった木端をこれも指先で取り除けてみた。この部分はあまり錆びとらんかったんじゃが、読めんかった。


 村に帰ってからこれをよく洗い、学のある爺さんに読んでもらった。


 するとその短刀、わしの父御が何十年も前に、山でなくしたもんじゃったとわかった。


 いやいや、違うちがう。正宗や国光なんてそんな立派なもんじゃない。刀工の銘なんかじゃあない。そこに彫ってあったのは、わしの父御の名前だったんじゃな。


 父御はやはり猟師だったんじゃが、熊にやられて死んだ。わしはその頃、二歳にもなっとらんかった。


 わしと違って、腕はよかったらしいよ。


 じゃがのう、仲間とふたりで山に入り、獲物を背負っての帰るさ、熊に襲われたという。


 仲間が気づいたときにはもう、わしの父御は背後から熊に一撃をくらっておった。獣の気配を察知できんかったとは、油断したのか増長しとったのか。猟師をやっとりゃ、いや、どんな仕事でもそうかの、魔が差す瞬間があるんじゃろうなあ。


 熊を殺して父御の短刀を取り返したというんなら、仇討を果たしたことになるがのう。いま話したとおり、現実にはそんなもんじゃなかったわけじゃ。


 じゃあ猿の王は、どうして短刀を手に入れたのか。そりゃあ分からん。


 中で朽ちとったとはいえ、大事にしとったことはいうまでもあるまい。ただ、その宝によって己が身を滅ぼすことになった。そう考えると含蓄ある話ではあろうよ。


 じゃがわしはな、偶然……この下手な鉄砲撃ちのわしが猿の王を撃って、たまたま父御の短刀を手に入れた。この一件で、何だかやりきれない気持ちになった。それで猟師をやめ、東京に出たというわけじゃ。


 理由はもうひとつある。刃の下の方にあった父御の名前の左に、こんな文字も彫ってあったんじゃ。


 コフジ、と。


 うん、そうそう……むろん女の名前じゃ。いや、わしの母御の名前じゃないし、親族にもそんな名前の女はおらん。同じ村にも、コフジなんておらんかった。


 誰なのかは結局分からん。いまとなっては、知りたいとも思わん。どうせろくでもない理由で、女の名前を彫ったんじゃろう。


 ああ、その短刀の所在か……いやいや、手元にはない。東京に出る直前に、山に行って捨ててきたよ。だから、このことを知っているのは、わしだけじゃろうな。当時を知る人はみんな鬼籍に入っとろうて。


 ずいぶん長いこと喋ったから、咽喉がかわいたわい。うん、お茶をおくれ。熱いのがいい……。

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