第4話 おっさんと妹

俺には妹が二人いる。


今年で35になる俺とは年の離れた、個性的な妹達だ。


片や俺と10歳離れた、キツそうな見た目に反して控えめな性格の長女、涼。


そしてもう片方はと言えば–––



俺は鏡で自分の身体の変化を確認した後、再び布団の上で考え事をしていた。


時計の針はもうじき四時を指し示そうとしているが、自分の置かれている状況を考える事で精一杯だ。


天井のシミに目を向けながら、鏡に映っていた自分を思い出す。


…正直に言うと、嫌な予感はしていたのだ。


アバターメイキングルームで目を覚ました時の機械音声は、森の中を彷徨っている間ずっと、脳内で繰り返されていて。


その意味を理解してからは、きっとバグだと思い込んでゲームをしていた。


それは仕方ない事だ、こんな事が本当に起きるなんて考えられるものか。


今度は目線を手元に落とす。数時間前とは比べものにならない、か細い手にはスマホが握られている。


画面には、チェンジリングの製作会社の公式サイトが映っている。


内容は、"ログインに伴う骨格情報のサーチと過去データ比較"。


必死になって調べた今、俺はその内容をそらんじる事さえ出来るだろう。


…試しにやってみるか。


「弊社の用いているゲームハードには、使用者の骨格情報を読み取り、ログインキーとするシステムが搭載されております」


「このシステムは、使用者のログイン毎に適用され、身体の発達を鑑みて誤差5%までが許容されます」


「情報は毎回更新され、過去最新の情報が比較対象となります。加えて、ゲーム内での使用キャラクター製作前には、前回の情報を元にアバターが製作されます、だったか」


今の俺の見た目は、ゲームのアバターと髪の色以外一緒だと思う。


タヌキはそれを、『リアルアバターの髪を紅くしただけ』だと言っていた。


リアルアバターっていうのはつまり、過去最後にスキャンした骨格情報で形作られたアバターのこと。


ゲームに入った段階で流れたアナウンスを思えば、俺の体はあの時のリアルアバターと同じなんじゃないだろうか。


「にしても、なんでこんな事に…」


俺は大きくため息を吐いた。


定職は無くともアルバイトはある。少し前に面接に受かったばかりだというのに、この体では…。


それに、俺は訳あって他人を怖いと思ってる。今は、他人どころか知り合いにさえ会うのが怖い。


この姿を見て、涼ならともかく俺だと思う人間なんているのか?


もしかしたら涼の邪魔に–––ッ!?


–––ピンポーン


マヌケた音が、唐突に俺の耳朶を打った。


俺はビクリと肩を震わせて、自分の惨状に気付いて自嘲気味に笑う。


「いい大人が何をビクビクしてるんだ?」


自分を鼓舞するようにそう言って立ち上がる。


このボロアパートに、インターホンなんて大層なモノは無い。玄関の覗き窓から来客の姿を確認するしか無いのだ。


やけに長く感じる廊下の先、玄関の前に到着して深呼吸をする。


「まずは覗くだけ、覗くだけだ…」


ガチャリ、と音がした。


–––あ?


見れば、扉の鍵が開いている。


それはつまり、この部屋の合鍵を持った人間が来客である証拠で。


それを使って声も掛けずに部屋に押し入ってくるような人間を、俺は一人しか知らない–––!



「ちゃんと飯食ってんのかな、兄ちゃん?」


私は自分のバカ兄貴の事が気になって、ポツリと呟いた。


私が姉から、我がダメ兄貴の現状を知らされたのは昨日の夜の話だ。


兄は高校を出てすぐ大手企業で働き始め、一人暮らしを始めた凄い人だ。


会社では先輩後輩問わずに信頼されていて、人一倍真面目に働いているのだ、と自信満々に話すから、しっかり自立して生きていると昨日までは思ってたんだけど…。


昨日の夜、普段はSNSで文章でやり取りしている姉から珍しく通話が掛かってきた。


正確に言えば12時過ぎで、金曜日の夜だからとハメを外してスマホを弄っていた私は、そんな時間に姉が電話してくる事を不思議に思った。


通話ボタンをタップした私が聞いたのは、普段と様子の違う姉の声だった。


『–––希空のあっ、大変だよ!』


予想だにしない大声に、危うくスマホを取り落としかけた。


「わわっ、ととと。姉ちゃん、急に大きな声出さないでよ! スマホ落として壊れたらどうするの!?」


『あっ、ごめん…』


「まぁいいけどさ。それよりどうしたの? こんな時間に、滅多に出さない大声出して」


『う、うん。私、今日こっちにロケで来てたから、兄さんの家に寄ったの』


兄が一人暮らししているアパートは、私が今も家族で住んでる家から、電車で5駅は経由しなくちゃならない場所にある。


姉のロケ地が、たまたま兄の家に近かったから寄れたんだろうけど、少し羨ましい。


「ふぅん、兄ちゃんに行ったんだ。あ、もしかして兄ちゃんの彼女がいたとか?」


茶化すようにそう言ってみる。姉が本当に焦っているのが分かったから、空気を軽くするつもりでそう言ったんだけど。


『むしろそれが遠のくような話なの…』


「遠のく…?」


彼女が出来る事が遠のくような話、と聞いてもピンと来なかった。


だから私は、次の姉の言葉を聞いた時耳を疑ったんだ。


『兄さん、会社をクビになったみたいなの』


回想終了。


ガンガンと金属的な音の鳴る階段を登りきった私は、アパートの部屋のうちの一つの前に立つ。


表札は楠乃。


相変わらずボロい様相のアパートの呼び鈴は、時代錯誤とも言える旧式のものだ。


それをひと押しすれば、ピンポーンと間延びした音が部屋から響く。


来るなら事前に連絡しろと言われているのに、いつも私はそれをしない。今回も同じくだ。


そんな私だから、兄は私が襲来した時、長々と待たせた後に面倒そうな顔で扉を開けるのだ。


だから私は、今回もしばらく待たされると踏んでいたのだ。


予想は的中、私は6月の湿度の高い外気に晒されながら数分を過ごした。


ただ、これ以降が違った。


とっくにいつも兄が現れる時間を越しているのに、兄が一向に出てこないのだ。


ただ、扉の向こうに気配はする。


私はカバンをガサゴソと漁って、鍵を取り出した。


兄からすれば実家である我が家に保管されている、この部屋の合鍵である。


父さん達に事情を話したら、サクッと貸してくれたので持ってきていた。


両親ともに忙しいので、私が任せられた形である。


…高1の娘に兄の現状を聞きに行かせるとか、何を考えてるんだろう。


ま、いっか。無断で持って来ずに済んだし。


私はふるふると首を振って、鍵穴に鍵を差し込む。


これまでは一声掛けてから開けるようにしていたが、今回の訪問は尋問のようなものだ。


姉の話によれば、兄は会社からリストラされたらしい。新しい仕事を見つけるまでの猶予を三ヶ月与えられた上で。


が、兄はその三ヶ月をモノに出来なかったようで、コンビニのアルバイトを一つ見つけたのみだそうだ。


手切れ金を渡されているからしばらくは大丈夫だろうけど、それも永遠じゃない。


場合によっては、この途轍もなく家賃の安いアパートだって引き払わなければならないのだ。


–––ガチャリ


鍵を開けた私は、どう話を切り出したものか悩みつつ扉を開き–––


「あ–––」


こちらに向かって手を伸ばした姿勢のまま固まる、姉に似た人の姿を見たのだった。




「あれ? 姉ちゃん?」


白黒の髪にブカブカのジャージというなんともアンバランスな状態だけど、目の前にいるのは涼姉ちゃんだ。


と一瞬思ったんだけど。


見れば見るほどに違う気がしてくる。


姉が髪を黒以外にしたことなんかないし、あのジャージは兄の物だ。


それに何より、姉はもう東京に帰っている。


「もしかして…」


目の前の人をもう一度見る。ボサボサな髪、驚きに見開かれた目と口。その目の奥に見えるのは、怖がるような弱々しい光だ。


私はあの目を見たことがある。


あれはそう。


「兄ちゃん…、だったりする?」


昔、兄が私達に向けていた目だ。



部屋の中に、トントンと軽快な料理の音が響く。


俺はそれを聞きながら、テーブルの前で正座していた。


突然の訪問者、妹の希空はどうやら両親の遣いとしてここに来たらしく、俺は先程まで質問責めを食らっていた。


ただ、仕事に関する話ばかりで俺の体には一切触れてこなかったが。


多分気を使ってくれたのだろう。


その優しさに、少しだけ目頭が熱くなった。


「おまたせー、じゃないよ! ちょっと兄ちゃん、いつまで正座してんの、兄ちゃんが食うんだから手伝ってよ」


平皿に炒飯を入れた希空が、俺に文句を言う。


こんな事になったのは、詰問の最中に俺の腹が鳴ったのが原因だ。


キュウッと可愛らしく音がしたのが、悲しいやら腹立たしいやら。


希空は部屋に微かに残る酒気を感じたようで、「さては今日一日、何も食ってないな?」と言うや否や、キッチンの方に駆け出してしまったのだ。


俺は希空に言われて立ち上がり、食器類を取りにキッチンに向かった。希空は後ろからついて来る。コップと麦茶を持って来てくれるのだろう。


「それじゃ、いただきます」


準備を終えて戻ってきた俺は、席に着くなり手を合わせた。


「ほいどうぞ」


木製の匙で、店の炒飯かと思うくらいパラパラな米を口に運ぶ。


「う、美味い…。希空、料理上達したか?」


「炒飯は特別だよ、作る機会が多くてさ」


満更でもなさそうに笑う希空。


俺は目の前の料理に目を落として、しばらく一心不乱に手を動かした。


さっきの熱が目に戻ってきて、顔を上げていると妹にカッコ悪い所を見せそうだったから。


「兄ちゃん、聞いてもいい?」


皿の中身が半分を切った頃、希空が口を開いた。何をとは言わなかったが、おそらく俺の身体の話だろう。


「あぁ、大丈夫だ」


俺はやはり顔も上げず、手も止めずに答える。


「その身体、どうしたの? 高校生の時の姉さんそっくり」


「馬鹿げた話だと思うけど、信じてくれるのか?」


これから何を言われても、拒絶したりしないか? と暗黙のうちに確認する。


そんなわけないと言われたら、俺は多分立ち直れない。


「兄ちゃんが姉ちゃんになってる時点で、もう大抵の話には驚かないよ」


「そりゃそうか」


ニヤリと不敵に笑った希空に、同じ笑みで返す。


「ゲームをしたら、こうなってたんだ」


「ゲーム? 誰かと賭けをしたって事?」


どこのカ○ジだよ。


「いや、VRゲームだ。"チェンジリング"ってゲームを知ってるか?」


「よくテレビでCMが流れてるやつか。あれならクラスの男子がずっと話してるから、知ってるよ」


やっぱり高校生くらいの男子には人気なのか。


「あれを涼から渡されてな」


「あぁ、そんな事言ってた、姉ちゃん。仕事の手伝いを頼んだって。確か姉ちゃんのアバターで遊ばないといけないんだよね?」


俺は希空の言葉に重々しく頷く。


「それで、何でそうなったの?」


「ん?」


「だからそうなった理由とか経緯みたいなさ、解決策に繋がるような情報だよ」


大体理由は話したと思うけど…。


「え、まさか終わり!? ゲームしてたら謎の力でその身体になっちゃった、で終わりなの?」


そう言われても、俺にもこうなった理由は分かっていないのだ。


「はぁ…、ちょっと待ってて」


ポケットからスマホを取り出した希空は、何やら検索し始めたようで、こちらからチラリと有名検索サイトのページが見えた。


「ご馳走さまでした」


俺は炒飯を食べ終えて皿を下げると、希空の後ろから画面を覗き込んだ。


「何調べてるんだ?」


「同じような事が起きた人が居ないかと思って。でも、今軽く探しただけじゃ見つかりそうにないかな」


ネットの海は膨大だ。少ないキーワードから欲しい情報を手に入れるのには、途方も無い時間と、それが無意味になる可能性を理解した上で挑む覚悟がいる。


「今日明日で調べてみるよ。私はここに明日まで泊まるつもりだし。カレンダーを見た感じ、兄ちゃんは明日が初バイトの日でしょ?」


「え、あぁ…。でも、この身体じゃ俺だって信じてもらえないだろうし、休もうかと」


「ダメに決まってるでしょダメ兄貴。ダメ元でも一度は行ってきて。もしかしたらどうにかなるかもしれないでしょ?」


一言で三度もダメって言われた…。いや、俺に向けては二回か?


それにどうにかなるなんて、楽観的な考え方は俺には出来そうにない。


「そんな不安な顔しないで。不安な時ほど動いてみるんだよ、これ鉄則ね」


「そういうものなのか…? というか、お前泊まっていく気なのか」


何を当たり前の事を、とばかりに眉を歪めてみせる希空。


「何を当たり前の事を」


言うんかい。


「とにかく! 兄ちゃんはバイトとゲームを頑張る、私はネットで情報集めを頑張る、分かった?」


え、ゲームを頑張るって何だ?


そう思ったのが顔に出ていたようで、希空はまたも先程の表情を浮かべた。


「いや、ゲームが原因でそうなったなら、ゲームの中で情報集めた方がいいでしょ」


「いや、だけどな…」


「それに、兄ちゃんは姉ちゃんの頼み事を無視出来んの?」


ぐっ、と息を詰まらせてしまう。


「…そうだな」


別に脅されたとか、弱みを握られているとかじゃなく、これは俺自身の在り方の問題だ。


「はぁ…、まぁいいや。ねぇ兄ちゃん、昨日の夜はシャワー浴びたの? ちょっと臭うよ」


そう言われれば、酒を飲んで帰ってきてから風呂に入った記憶がない。記憶が無いという事は、つまり入っていないという事に他ならなかった。


「じゃあ、入ろっか。ほら、脱衣所で先に着替えててよ。皿洗っちゃうからさ」


俺は立ち上がりかけて、希空の言い方に違和感を覚える。


その言い方じゃあまるで–––


「何止まってんの? 早く行きなってば」


「お前、まるで一緒に入るような事言わなかったか?」


希空はあっさりと答えた。


「当たり前じゃん、女の子の身体の洗い方なんて知らないでしょ?」


それにお兄ちゃん、どうせ枯れてるから気にならないでしょ、と付け加えた希空。


「…マジか」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る