第34話『どう答えるべきか、分からなくて』

「……知らない天井だ」


 いや、まあ、知っている天井ではあるのだが。


 目が醒めると、俺は自分の部屋のベッドで寝かされていた。

 その状況を認識した直後、ズキズキとした痛みを左手に感じ、思わず顔をしかめる。

 痛みを堪えて左手を目の前に持ってくると、血で赤くにじんだ包帯が目に入った。肌の色が一切いっさい見えないほどに巻かれた包帯の所為せいで、左手はほとんど動かせなくなっていた。もしくは、動かせなくなる程に酷い怪我けがだったのかもしれない。

 記憶があやふやだが、包丁はかなり深くまで左手に刺さっていた。そこまで大きな包丁ではなかったが、刺したのが2歳児の手では話は別だ。それこそ薪割まきわりのように手が真っ二つに裂けていたとしても不思議ではない。


 もしそうなっていたら、もう左手を満足に動かすことは出来できないかもしれないな……。


 例えそうだとしても、怪我をしたのが利き手の右手ではなかったことは不幸中の幸いと言える。

 もっとも、左手しか使えないような状況に陥れば、自然と左手が利き手になるのだろうが。


 痛みから気を紛らわすためにそんなことを考えていると、部屋の扉が不意に開かれた。


 入ってきたのは、母さんだった。


 うつむきがちに部屋へ入ってきた母さんは、俺が目を醒ましていることに気づくと、慌てて近くに駆け寄ってきた。


「フェリっ……目が醒めたのね、良かった……」


 力一杯抱きしめそうな勢いだったが、俺の手を気遣ったのか、母さんは俺の頭を軽くでるだけに留めた。

 俺を優しく見つめる瞳は、少し潤んでいた。

 そんな母さんに、俺は起きてからずっと気に掛かっていたことを尋ねる。


「フォナとソラは、大丈夫?」


「ええ、ソラは起きてから少し背中を痛そうにしてたけど、二人とも怪我はないわ。怪我をしたのは……フェリだけ」


「……良かった」


 その言葉に、少しだけ安堵あんどする。

 そうだ、それが正しい。

 怪我をするのは、俺だけで良い。

 不幸になるのは、俺だけで良い。


「何も……良くないわよ……っ」


「え?」


「フェリが……怪我してるじゃない……っ」


 母さんの声は、震えていた。


「フェリは気絶していたからわからないと思うけれど、ひどい怪我だったのよ? 魔薬ポーションのおかげで何とかくっついたけれど、完全に怪我は治ってない。それに、怪我が治ったとしても……」


 酷いとは、どの程度の怪我だったのか。

 くっついたとは、何と何が、なのだろうか。

 傷が治ったとしても。その後に続くはずだった言葉は何なのか。


 母さんがえて明言めいげんを避けたであろうそれらの内容は、言われずともある程度想像ができた。


「何もできなくて……ごめんなさい……助けられなくて……ごめんなさい……」


 その時初めて、俺は泣いている母さんを見た。日本にも母親はいなかったから、本当に初めて見る光景だった。


 そして、自分が心配されているという状況に、動揺した。


 向こうの世界でも怪我をすることは多かった。

 けれど、仕事をしている父や、父の死後に俺を引き取ってくれた祖父母に心配を掛けたくない一心で、隠せる怪我はできる限り隠してきた。

 流石さすがに骨折をした時は隠しきれなかったが、打撲や捻挫、擦り傷や切り傷などの比較的軽い怪我のほとんどは隠せていたんじゃないかと思う。


 隠していたのは怪我だけじゃない。

 学校での人間関係が上手うまくいかなかった時も、勉強で分からないところがあった時も、心配を掛けまいと一人で抱えて、何とかやり過ごしてきた。


 そんな俺の身勝手な気遣いの結果、俺は他人から心配されることが殆どなくなった。

 その代わり、褒められることが増えた。

 お前は手の掛からない子だと、良い子だと褒められた。


 それが、内田創という人間だった。


 生きているだけで他人に迷惑を掛けてしまうから、せめて心配はさせまいと、つらく苦しいものは全て何処かへ押し込んで、上っ面だけの笑みを浮かべ続けた。


 別にそれを悲観したことはない。いや、もしかしたら最初は思っていたかもしれない。

 どうしてこんなに辛いのだろうと。

 何故なぜこんな思いをしなければいけないのかと。

 しかし、何もかも我慢しているうちに、自分自身がどんな思いで生活していたのかすら、忘れてしまった。

 耐えることが普通だったから、いつしか耐えているという気すらしなくなっていた。


 だから、俺のために涙を流してくれる母さんを、どんな目で見れば良いのか分からなかった。


 謝罪に対して、なんて答えるべきなのか分からなかった。


 俺は、人から心配されるような人間ではないというのに。

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