第39話「現実」
一〇〇点、一〇〇点とうるさく言うなら自分の一〇〇点はどうした?
炎怒からそう突っ込まれ、返す言葉がなかった俊道。
学生ではないから期末試験のようなものはない。
だが大人になったら試験がなくなるということではない。
契約が成立したか、上司に認めてもらえたか——
そんな点数で表せない難しい試験が続く。
さらに炎怒は続けていく。
「会社が見たいのは確実な一〇〇点だけ——」
結果が出なかった子供を、その努力もろとも鉄拳制裁。
ならば、会社も一〇〇点を取れない奴には厳しいんじゃないか?
確かにこの世は高学歴の方が出世しやすいのかもしれない。
だが、学歴が高いだけの能無しと言われないよう、彼らはいまも一〇〇点を目指し続けているのだろう。
そういう努力の結果を高学歴の一言で片付けては失礼だ。
「いまからでも遅くない。あんたも自分で一〇〇点を取って、無念を晴らしたらどうだ?」
「俺のことはいい。いまから出世できたとしても高が知れている。それよりもこれからの晴……」
「まあ、あんたには無理だがな」
おそらく「これからの晴翔や渡」云々と続くはずだったのだろう。
それを炎怒が遮った。
さっきから大した反撃ができなかった俊道だったが、さすがにこの一言には返すことができた。
「努力もせずに高学歴を僻んでるだけの根性なしと言いたいわけか?」
「違う。あんたは根性なしじゃない」
晴翔のように命を捨てようとせず、あんたは夢破れた後も就職、結婚、家庭、と人生の修復に努めてきた。
やりたかったわけではない仕事を、これからも続けていこうとしているあんたは根性なしではない。
「根性なしじゃないというなら、一体何なんだ?」
「…………」
その問いに対する答えはある。
だが……
すぐには答えず、炎怒は目を瞑ってちょっとだけ逡巡する。
学歴で遅れをとったという上辺の無念じゃない。
もう一つ、奥深くに本当の無念がある。
その無念ある限り、俊道が仕事で一〇〇点を取ることなど無理。
自覚していない無念はくすぶり続け、やがて怨念になる。
怨念は衝動となって人を悪行へと誘う。
渡への期待は無念の裏返し。
動機はどうあれ、俊道にとっては期待を裏切った憎い敵。
期待が怨念に変わるのに、それほど時間はかからないだろう。
そうなれば、この家で事件が起こるかもしれない。
まだ悪魔の目星が立っていないのに目立ちたくない。
晴翔への干渉を排除するためとはいえ、このまま渡と俊道を放置しておくのはまずいかもしれない。
炎怒は決心がついた。
俊道に真の無念を知らせる。
ショックかもしれないが、怨念に変わらないよう、知ることで自分に歯止めをかけてもらう。
本来、こういうことを伝えるのは久路乃たち天使の仕事なのに……
瞑っていた目を開いた。
炎怒のただならぬ雰囲気。
何を言ってくるのかと、俊道は身構えた。
「あんたはもう一つ、無念に思っていることがあるな」
「もう一つ? いや、身に覚えがないが?」
読心がこの瞬間も伝え続ける真の無念。
晴翔たちを夢から遠ざけなければならない本当の動機。
それは——
【どうせ夢など叶わないとわかっていたら、売れ筋なんか気にせず、自分の歌いたいように歌えばよかった】
炎怒は読心で伝わってきたまま、本人に読んで聞かせた。
俊道の中で封印していた悔いが蘇ってくる。
目を見開き、固まったまま動かない。
俊道は思い出した。
いや、思い出してしまった。
あの日の絶望感を……
***
俊道の本当の夢は、思う存分満足するまで自分の歌を歌うこと。
だから夢達成の手段としてメジャーデビューを目指した。
より多くの人たちに届けられるし、自身もより一層、歌に専念できるから。
その頃から段々と、夢は辛いものになっていったが、いつか自分の歌を歌える大舞台に上がれると信じて頑張った。
時は流れて大学三年生後期——
目指し続けた大舞台はなく、自分の歌に立ち返る時間も残されていなかった。
勉強熱心な学生ではなかったが、辛うじて卒業はできる見込みだった。
大舞台も、自分の歌も失った俊道に唯一残されたもの。
それは〈新卒の見込み〉だった。
これまで失うわけにはいかなかった……
俊道が夢を地面に置くと決めた日——
普段、意識していないから気がつかなかったが、鼓動を感じた。
夢は、まだ生きていた……
死んでなどいない。元気に生き続けていると知った上でその場に置いて去った。
何度も振り返った。
どんどん小さくなっていくのを見届けた……
誰に認められなくてもいい。
売れ筋など関係ない。
自分で好きに曲を書いて、思う存分歌いたかった。
……歌い終えたかった……
…………
炎怒が心配したような暴走はなかった。
当時の気持ちを思い出した俊道は自嘲気に寂しい笑みを浮かべた。
「夢なんて——」
朧げで実体がないから掴むことができないもの。
いまはどんな形で何色だったかも思い出せない。
そんないい加減なものだと知っていたら、追いかけたりはしなかった。
夢などという雑念に囚われて日陰の道を歩くより、日の当たる道を歩けるように、最初から猛勉強すれば良かった。
いまはそうしてきた連中が羨ましい。
ならばと、勉強で遅れた分、がむしゃらに仕事で挽回しようと志した。
しかし炎怒の言う通りだった。
猛勉強してきた連中もがむしゃらに頑張るから差が縮まらない。
そんなある日、自ら立てた新たな志なのに、まったくやる気が起きないことに気がついた。
オーディションは売れ筋を自分なりにアレンジして通ろうとしただけ。
自分の全てを出し切って敗北することができなかった。
やるだけやったがダメだった、と自分の中で終わらせることができなかった。
まだ終わっていないのだから、次の志なんて、やる気が出るわけがないのだ。
社会は真剣勝負の場。
雑念を引き摺りながら、一〇〇点を取れるほど甘いところではない。
遅れを挽回できるだけの結果は出せなかった。
会社は結果が全て。
結果を出せなかった者に日が当たることはない。
今日も日陰を歩いてきた。明日も、明後日も……
我が子にこんな苦しみを味わわせたくない。
だから——
そこで炎怒が俊道を遮り、
「我が子には脅してでも高得点を取らせよう」
とその「だから」に繋げた。
「…………」
俊道は落ち込んだまま反応がなくなった。
「そんなひどい言い方っ!」
堪らず初恵が庇う。
その様は、まるで倒された飼い主を守ろうと鬼に吠え掛かる忠犬のよう。
微笑ましい光景だが、炎怒は犬の忠義に免じる気はない。
この夫婦は晴翔に報告義務があったという。
出来損ないの話など聞く耳持たんが、それでも報告しに来いと。
出鱈目な言い分だ。
それを正す気はなかったが、今日のように絡んでくるなら話は別だ。
炎怒は忠犬もろとも飼い主に対して、追い討ちをかけることにした。
「その結果、一人はカンニング、一人は追い詰められて自殺」
生きているのに自殺、というのはよくわからないが、渡のカンニングを見逃してしまったのは事実。
晴翔が正直に報告できるような信頼関係を構築できていなかったのも事実。
子育ては仕事。
仕事である以上、問われるのは結果。
優等生という結果にしか興味がなかった。
どんな知識が身につき、どう成長できたのか。
結果に対して必死なあまり、弘原海渡という一人の人間にはあまり関心がなかった。
いま考えれば明らかにおかしいのに、炎怒に宿題のことを指摘されるまで何も疑問に思わなかった。
カンニングなんて他所の家庭で起きることと思っていた。
やる人間の神経が理解できない、親は何をしていたんだ、と呑気に非難していた。
もちろん自分たち夫婦も現役時代、不正をしたことはない。
苦手な教科も正々堂々やってきた。
そんな自分たちの子供である渡がなぜ?
いまでも信じられない。
しかし、落ち着いて考えてみれば、自分たちは親からそれほど圧力を掛けられてはいなかった。
不正をしてでも高得点を献上しなければ、制裁を加えてくる親たちではなかった。
自分たちと渡では置かれていた環境が違うのだ。
カンニングは不正。
決して正当化はできない。
だが、前提条件が違うのだから、自分たちと単純に比較して責めることはできない。
子供は親の行いに対して、良くも悪くも反応を返す。
自殺とカンニング——
これが自分たち夫婦が作った環境に対する子供たちの反応だった。
炎怒の言っていることが理解できた夫婦は沈黙した。
こうして弘原海家での第三回戦は炎怒の勝利に終わったのだった。
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