第38話「夢という名の地獄」

 俊道は今回のカンニング事件について、当初、渡だけを処罰したが、一日経って、晴翔にも責任を問おうと考えを改めた。


 記憶を共有しているという炎怒が渡のことを暴露した。

 ということは晴翔は渡の不正を知っていながら報告を怠っていたということだ。


 晴翔はいつもオドオドしていて、自信がなさそうにしている子だ。

 ちょっと発破をかけただけで震え上がり、言い訳ばかりする。

 いくら叩きのめしても真実が出てこない。

 毎回、詫びと言い訳しか出てこない。


 いまは霊体だというから、殴って懲らしめることはできないが、そういう問題ではない。

 炎怒から情報を提供してもらい、報告怠慢について糾弾しなければ!


 炎怒は話に応じてくれた。

 が、その口から語られたのは情報ではなく、家族の〈信〉だった……


 さすがの俊道も、もちろん信じ合っている! と反論できなかった。


 指摘されたことで自分の気持ちに気がついた。

 不信と言われればそうだったかもしれない。

 しかし、子供の将来を心配したというのも確かだ。


 子供が努力してなかったとは言わないが、それでは足りない。

 大人になったとき、幸せを掴むためには人並みでは足りないのだ。


 だから厳しいと思いながらも、人並み以上の結果が出るような努力を強いた。

 将来、感謝してもらえる行いではない、と自覚している。

 恨まれることも覚悟している。


 それでも、いま自分が現在進行形で味わっている苦しみを、我が子に体験させるわけにはいかない。


 この気持ちに嘘偽りはない。

 たとえ天の使いだろうと、そのことだけは否定させない。


 天界というところはきっとものすごく高い場所にあるのだろう。

 そんな遠いところから眺めているからこの世の事情に疎いのだ。


 知らない者には教えてやればいい。

〈信〉などと言っていられない、この世の苦しい現実を……


 これは言い負かすための反論ではない。

 俊道は自らの言い分を静かに述べた。


「たとえあんたの言う〈信〉を失おうと、そうでもしなければ、子供は現状に甘んじて向上しなくなるんだ」

「今日は昨日より向上するというのは大切だが、脅迫は行き過ぎだ。なぜそこまでする必要がある?」


 ——脅迫……

 そうか……他人からはそう見えるのか。


 俊道は悲しくなり、肩を落とした。

 客観的な第三者から理解されないことに落胆したが、素直に受け止めた。

 脅迫しているつもりはないが、それは自分の内心のこと。

 相手の受け取り方を非難しても仕方がない。


 だが、子供に恨まれようと、他人から誤解されようと揺らぎはしない。

 決して優等生の親になれれば周囲に鼻が高いなどという見栄ではない。


 若いとき、大きな過ちを犯した。

 その過ちから思い知った苦い教訓に基づいているのだ。


「……少しずつ向上しているくらいじゃ、世の中では通用しないんだ」

「世の中?」


 下を向いていた顔を上げた。


「あの世ではどうか知らないが、この世では過去の結果で差が付く」


 そうして語られ始めた俊道の厳しさの理由——

 長年連れ添ってきた妻、初恵も初めて聞く夫の過去。

 夢というものに対する過剰なまでの拒絶、成績に対する病的な執着。


 始まりはいまの晴翔と同じ、高校一年生まで遡る。


 それは「夢」という地獄の物語……



 ***



 一九八〇年から九〇年代、子供の頃にはテレビの中にしかなかった音楽が、その小さな箱の中に収まりきらず、巷に溢れ出していた時代。

 学校、駅前、歩行者天国……

 世に音楽が満ちていた。


 そんな時代の中で、俊道少年は高校生になった。

 だからギターを手に取り、街頭で歌うようになるのは自然な流れだった。

 音楽が彼の全てだった。


 勉強など音楽の片手間。

 渡のようにカンニングはしなかったが、それは正々堂々というより、テストに関心がなかったから。

 一応及第点に届く程度には勉強していたが、それも追試などで音楽の時間を削られたくなかったから。

 このような姿勢だから成績は常に不振だった。


 それでも大学には受かった。

 合格できたことを両親と一緒に喜んだ。

 喜んだ理由はお互い違うのだが……


 両親は元々勉強に関心がなかった子が、大学と名のつくところに進めることを普通に喜んだ。

 この子も大卒になれる、と。


 しかし彼が喜んだ理由は違う。

 とりあえずこれで親が静かになり、大好きな音楽に集中できる。

 その時間が手に入るからだ。


 高校同様、大学に進んでも留年ギリギリだったが、そんなことは関係ない。

 元々、勉学で身を立てるつもりなどなかったのだから。


 何も気にせず、オーディションをいくつも受けた。

 なんとしてもメジャーデビューしたかった。


 何度落選しようと気持ちが揺らぐことはなかった。

 揺らぎはしないが、どうすれば引っかかるのか日々考え続けた。


 ある日、

 ——好きな歌を歌っているだけでは夢に届かない。

 そのことに気づいた。


 それから自分の歌はしまっておき、どうすればオーディションで通るか、そのことに集中することにした。


 ——世の中が欲している楽曲は何か?


 以来、それだけを追い求めて大学三年生の夏まで懸命に頑張った。

 楽曲の研究、ギターの練習、ボイストレーニング……

 バイト代も時間もすべて注ぎ込んだ。


 高校一年で志してから約五年。

 努力が実を結ぶことはなかった。


 夢を諦め、現実に戻ってきたときには何も持たざる者に相応しい就職先しか残っていなかった……


 夢を目指すなら絶対叶えるしかない。

 叶いそうにない夢なら最初から目指さないほうがいい。


 子供の夢を好き好んで壊したくはない。

 だが人生の幸せをすべて賭けて追いかけた夢が、結局叶わなかったら?

 そんなリスクの高い博打をやらせるわけにはいかない。


 夢など妄想。

 妄想に現を抜かしている暇があったら、猛勉強するべきだ。

 我が子には幸せの保証がない夢より、たとえつまらなくても幸せが手に入る確率の高い道を進ませる。


 これが俊道の夢の物語。

 晴翔に自らの夢を破り捨てさせたのはこのような理由によるものだった。


 初恵は出会う前の俊道の話を同意しながら聞いていた。

 決して昔のこと、他人事と聞き流せる話ではなかった。

 これからの晴翔と渡の身に起きるかもしれない。


「あの頃、真面目にやっていても希望通りの就職は難しくて……いまも景気が良くないから……」


 就職する苦労とその苦労が報われる人生を子供に与えたいと思ったら、いまの夫のやり方も致し方ないのではないか?


 と、俊道に賛同した。


 普段、俊道は男尊女卑を信条としている人間なので、初恵が意見を述べることを良しとしない。

 だが、このときばかりは賛同してもらえることが嬉しかったのか、少し穏やかな表情になった。


 炎怒も初恵同様、昔話を静かに聞いていた。

 ただ、それは同意を意味しているわけではない。

 それじゃ異議があるのか、と問われたらそういうわけでもない。


 確かにそういう出来事はあったのだろう。

 その無念も本物だと思う。


 さっきから炎怒は俊道の急な暴行に備えて読心を発動していた。

 この能力が対象としているものは攻撃の予定だけではない。

 読み取るものは相手の心の声。


 その読心がさっきから伝えてくる。

 俊道の心の底にあるもう一つの真の無念。


【どうせ————った】


 それが炎怒に向かって鳴り響いていた。

 だから初恵のように同意することはできない。


「それであの二人を脅迫してまで、一〇〇点を求めていたのか」


 咎めるような言い草だったが、怒りはしない。

 晴翔ごっこが始まって三日——

 この半鬼が自分たち一家に対して何の興味もないことをよく知っている。

 だから、皮肉や悪態など吐くはずがないのだ。


 話を素直に聞いた上での帰結を述べたに過ぎないと解釈し、俊道はその通りだと頷いた。


 出世するには高学歴のほうが有利だ。

 これはどんな時代がやってきても変わらないと思う。

 過去にどれだけ努力してきたかを示す勲章だ。


 その勲章を持っている連中は渡や晴翔くらいのとき、一〇〇点を目指していた。

 さすがに毎回は無理だろうが、一〇〇点を目指すことで九〇点以上を量産してきたんだ。


 連中は自主的に猛勉強して達成できた奴ばかりではないだろう。

 親から厳しくされた結果、達成できた奴も多いはず。

 ならば、うちも心を鬼にして……


 うんうんと同意しているのは初恵だけ。

 同意していない炎怒は俊道に尋ねた。


「ところで、あんたの一〇〇点は?」

「は?」


 二対一の状況。

 この世の苦しい状況を、文字通り、世間知らずなあの世の住人に理解させることに成功した。

 少なくとも俊道はそう感触を得た。


 これから自分の思った通りに話を展開していき、晴翔の責任を追及していこうと思った矢先、炎怒からの切り返し。

 まるで想定していないところからいきなり襲いかかってくる伏兵のようだった。


 俊道は何も返せなかった。

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