第16話「ガラス」

 俊道は何も疑わず、いつも通り、晴翔の顔面に照準を定める。


 一人の男として自分より遥かに劣っている。

 そんな奴を息子と呼ばねばならないことが忌々しい。


 不可能とか困難とか、そんな下らない御託は聞きたくない。

 一〇〇点を取ってこいと命じられたら、命がけで取ってくればよいのだ。


 弟はそれができている。

 あの子は優秀だ。あいつこそ俺の息子と呼ぶに相応しい。


 なのに、どうして兄はできないのだ?

 こいつを見ていると、これがおまえだ、と言われている気がする。

 断じて違う。俺はこいつのような無能者じゃない。


 いまだってそうだ。

 親の目を盗んでは勉強をサボっているから、初恵が学校に呼び出されたのだ。


 出て行けとは言ったが、家に置いてくれと許しを請い続けるべきだっただろう。

 それを謝るどころかこんな夜遅くまで……

 まるで不良ではないか。


 しかも今日は何だ?

 いつもならこちらが殴るより早く、蹲りながら許しを懇願してくるのに……

 門限破りで不良の仲間入りをしたつもりか?


 忘れているなら思い出させてやる。

 自分は強い不良でもなんでもない、決して俺には敵わない弱小な存在だったことを!


 炎怒の前に辿り着いた俊道は助走の勢いをそのままに、怒りの鉄拳を炎怒の顔面目掛けて繰り出した。


 殴り飛ばされる——!!


 しかし、それを待ち構えていた炎怒。

 その両目の奥が僅かに赤く光っている。


 炎怒の持つ特殊能力〈読心どくしん〉を発動していた。


 人や霊は何かを実行する前に心で思う。

 だからこれから何をする気なのか、相手の心に先に教えてもらうのが読心という能力だ。


 無心になった高僧などの心は読み難いが、雑念の塊である俊道の心の声など騒音のようなもの。

 うるさくて耳を塞いでいても聞こえてくる。


 いままでの晴翔に対する害意もすべて聞こえている。


 その害意が事前に教えてくれる。

【左目に右ストレート】と。


 息子は打ち返してこないと確信しているから無防備に襲いかかってきている。

 そんな俊道のがら空きの顎先を見て炎怒は思う。


(あの顎、打ち抜いたら静かになるのにな……)


 完全に身体のコントロールを掌握している炎怒には簡単なことだが、手荒な真似はするなと言われているのでやめておいた。


 代わりに拳をスレスレで躱し、右前方へ移動して突っ込んできた父親に場所を譲った。


 そこにいたものが急にいなくなったから堪らない。

 スピードに乗って前のめりに傾いていた俊道は、急に止まれない。


 ガチャアアアァァァンッ——!!


「キャアアアァァッ!」


 晴翔の顔面を粉砕する予定だった拳は、その後方にあった食器棚のガラス戸へ突っ込んで派手な音を立てた。

 初恵の悲鳴が後に続き、夫に駆け寄る。


「お父さんっ!」

「うぅっっっ……!」


 なんとか太い血管は免れたようだが、無数の切り傷から血が滴る。

 俊道は血とガラス片の中で蹲って痛みに耐え、初恵は傍で狼狽していた。


 炎怒は彼らを気にせず、キョロキョロと床を探すとハンカチをポケットから取り出し、少し大きめのガラス片を拾い上げた。

 ちょうど鉈位の大きさ。


 それを上段に構え、摺り足で夫婦に近寄る。


 金縛りのまま、目の前の攻防に呆然としていた晴翔だったが、身体を共有しているので、炎怒の考えていることが伝わってきた。


(本気で振り下ろす気だ……)


 正気に返った初恵は急いでタオルを取ってきて俊道の右腕にあてがった。

 白かったタオルはみるみるうちに赤く染まっていく。

 追加のタオルを取りに走ろうとしたとき、何かが自分達の前に立ってリビングの照明を遮り、影が差した。


 夫も影に気がつき、二人で見上げるとそれは晴翔だった。


 ——いや、違う!


 制服は見慣れた喜手門高校のものだ。

 だが、照明の逆光の中、首から上の頭部にありえないものが見えた。


 ……角?


 他にもバサバサの白髪で、顔つきも違う。

 何より目が赤く光っている。


 鬼?


 二人が同時に抱いた感想だった。


 ——こいつ、晴翔じゃない!


 ようやく相手が息子ではないこと気がつき、一気に興奮が冷める。

 こいつは誰だ? なんでうちに? 晴翔は一体……


 様々な疑問が浮かび、脳みそが一杯に満たされるとパンクして何も考えられなくなった。


 ただ、そいつが振り上げている右手に何かが光っているのに気がつく。


(なんだ? あれは)


 大きめのガラス片だ。


 そんなものを持ち上げて一体何をする気なのか。

 蹲りながら見上げる俊道は鬼と目が合った。


 鬼は一瞬、微笑んだ。


 直後、蹲りながら見上げる俊道の首目掛けて、ガラス片を振り降ろす体勢に入った。


「だめだ! 炎怒!!」


 久路乃ではない。

 父を殺そうとする炎怒を見て、金縛りを自力で解いた晴翔だ。


 炎怒と両親の間に回り込み、無我夢中で炎怒の右腕に掴みかかった。


 その光景は一瞬だが両親にも見えた。

 半透明の晴翔が一瞬現れ、鬼の攻撃を阻止していたようだった。


「……お父さん、今のは……」

「あ、ああ……おまえは一体……」


「晴翔、手を離せ。何度も注意しただろ?」


 炎怒は念話ではなく、あえて肉声で右腕の辺りに向かって話しかけた。

 両親にも現在の状況を知ってもらうために。


 両親も炎怒に倣って、彼の右腕の辺りを見るが、もうさっきのように半透明の息子は見えない。


 改めて見るとさっきまで別人に見えたが、いまは息子に戻っていた。

 ただ、普段のびくびくした雰囲気は消え去り、眼光は鋭いままだった。


 押さえつけていたものがなくなったのか、炎怒は自由を取り戻した右腕を下げ、持っていたガラス片を床に捨てた。


「ご両親」


 ハンカチをしまいながら夫婦を見据える。

 見据えてはいないのだが、目付きが悪いのと、こちらは立っているのでどうしても見下ろす形になってしまうせいだった。


「なんだ?」


 と、俊道は毅然と答えた。


 正直、蛇に睨まれた蛙の心境なのだが、自分は親だ、目上の人間なのだ、という自負心が辛うじて虚勢を保たせた。


「あんた達の息子は——」


 目の前にいる息子のような者は夕方まで見知った息子ではない。

 二重人格とも違うように思える。

 さっきの半透明の息子は……

 一体何を語る気なのか。


「今日二二時頃に首を吊った」


 ???


 何を言っているのだ? 生きて目の前にいるではないか。


 当然、飲み込めないとわかっていたので、炎怒は手短に説明する。


 名前を名乗り、自分はわかりやすく言うと幽霊で身体を探していた。

 幽霊といっても悪霊ではない。任務により天から降りてきた。

 晴翔を見つけたときは首を吊ろうとしているところだった。


「首吊り……なんでそんなことを?」

「でも思い止まったんでしょう? だからここに……」


 炎怒は首を振り、説明を続ける。


 声をかけるのがあと一秒遅かったら、他の身体を探すことになっていた。

 だからこいつは思い止まったわけではない。


 止めた後、事情を説明して身体を貸してもらうことになった。

 こちらの任務が終わるまで生かしてあるだけ。


 夫婦は唖然として聞いていた。

 荒唐無稽すぎる。

 でもさっきのを見てしまった後では妄想と片付けることはできない。


「ここは俺が片付けておく——だから」


 そこで言葉を切って俊道の腕を指差す。


「早く病院に連れて行ったらどうだ?」


 夫婦はハッとする。

 そうだった。大量出血というわけではないが、決して放置できない切り傷だった。

 何針か縫ってもらわなければならないだろう。


 勧めに従って、清潔なタオルで傷を包むと、夫婦連れ添って病院へ向かう。

 駐車スペースに停めてある自動車のエンジン音が聞こえ、遠ざかって行った。

 俊道は腕が使えないので初恵の運転だ。


 騒ぎは聞こえていただろうに、二階にいるはずの弟は一度も降りてこなかった。

 晴翔の記憶によれば、こいつは……


 リビングに一人残された炎怒。

 置き場所はわかるのでモップを持ってきて、床のガラスを掃除し始める。


 ふと手を休めて見上げた壁時計は「二三:四五」と表示されていた。

 ようやく人間界も霊界も目紛しかった土曜日が終わる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る