第31話
「原島さん。今日は一緒にごはん食べようよ」
そういってくる原井の踝を軽く蹴った。
「私はそこまで暇じゃない」
そして私は逃げるかのように原井から距離をおいた。原井は追ってくることなどなかった。そりゃそうだ。飯を善意で誘ってくれた人に対して睨むだけではなく、蹴るという暴力行為をしたんだ。そんなやつの背中を追っかけて飯を誘い続ける物好きなどいるわけがない。
私は負けた。インハイ団体戦、何もできずに負けた。
無様だった。
埼玉けやきに負けたのならまだよかった。それなら来年こそはとリベンジを誓えるのだから。正直いえば、埼玉けやき高校などそんな簡単に倒せないことは知っている。
というよりもそんなに簡単に倒されてはだめなのだ。それが埼玉けやきなのだ。
それなのに。私はそこまで行くこともなく、無名の高校に立て続けに負けた。
本当にどうしてしまったのか。
怪我などしていないのに。体調も悪くないのに。目もしっかり見えているのに。耳は気持ち悪いほど、スマッシュの打つ音が聞こえるのに。
勝てないのだ。
何も悪いところがないのに。
そんな自分が嫌になってしまう。自分の腕を折りたくなってしまう。
その日は遠くから生暖かい風が泣いていた。気象情報によるとこれから大雨が降るらしい。犬の遠吠えがどこか聞こえる。
公園には私1人しかいない。私はそこに座った。
あれだけ近いはずの月が今日は見えないや。
果たして勝てない私など一体何の価値があるのだろうか。今まで私は勝てると思われていたから部内でも優遇されていた。だけど今は違う。私は勝てない。こんなやつ部活にいても邪魔ではないか。ただ団体戦のメンバーで居座っているだけじゃないか。
本当になぜ私はあの場所にいたのだろうか。
みっともない。
なぜ、私は今までバドミントンをしていたのだろうか。
思い出す。
私はよくこの公園で1人、バドミントンの練習をしていた。フットワーク、走り込み、筋トレ。
痛かった。苦痛だった。正直いえば楽しいことなどなかった。
私だって小学生の頃は普通の子供だ。
本当は友達と家でゲームをして、どこかに買い物にいって……そんな生活に憧れていた。私からしてみればその何気ない生活がキラキラと輝いているように見えた。
私もその世界に入ってみたい。
そんなことを何度、考えたのか。
「樋春ちゃん。遊ぼうよ」
そう同級生が言ってくる台詞。この誘惑に何度襲われたことか。
だけどそれも母が許さない。
練習をサボって友達と遊んだ日には母に殴られた。赤く腫れた頰。痛かった。そして何よりも怖かった。
友達と遊んだら殺される。そんなことも思った。だから自然と私は友達と距離をとるようにした。
すると次第に私の周囲から人がいなくなった。私は孤独になった。
幸いバドミントンというのは個人スポーツである。だからそこにチームプレーとかないし、1人でも強くなっていける。
私はたった1人の力でここまで這い上ってきた。
だけど最近になって限界を感じる。
私の力だけではこれ以上勝つことは無理である。
どうして私はバドミントンをしているのだろうか。これ以上先はないかもしれないのに私はさらに自分であの苦しい思いをするのか。
また恥ずかしくて惨めで死にたくなる思いをするかもしれないのに、そこに確実に幸せになる未来など存在しないのに、そんな一握りの可能性のために自分はこれからもこの孤独の練習を続けるのか。
もしかしたら今がバドミントンをやめるときなのかもしれない。
私はラケットを見つめる。
今までこのラケットを手放したことなどなかった。学校に行くときも、学校の遠足を行くときもつねにこいつがすぐ側にいた。
今、こいつとお別れをするときなのだろうか。
雨がポツリポツリと降り始める。
私の心がどっと暗くなる。遠くからは雷が聞こえた。
「そっか。私はずっと辛かったんだ」
ようやく自分のことがはっきりとわかった。本当は自分は辛かったんだ。誰かに慰めてほしかった。孤独が怖かった。
だけどそれを他人にみせるわけにはいかない。他人にみせた瞬間それに甘えてしまうから。
「本当は自分ってこんなに辛かったんだね」
雨が一滴、自分の頰に流れる。
それは涙だろうか。分からない。
今日は目の前の公園であの女の子は練習をしていない。本当の1人。本当の孤独だった。
「バドミントンなんて」
今なら私は普通の女の子に戻れる。
私はラケットを大きく山なりにする。このラケットを折ってしまったらもう私はバドミントンをすることなどできない。
そうだ。これさえおってしまえばいいんだ。
雨が強くなる。私の髪から水が滴る。それがガッドの上に落ちる。
ラケットのガッドは水分に弱い。だからこうしている今もこのラケットは弱っているだろう。それでいい。もうそれでいいんだ。
私は力をいれる。
力がでない。
私はためらっているのか。
このラケットを折るのをためらっているのか。
私はまだ弱い。
私には自分の意思などない。
だからすべて中途半端に終わるんだ。
もういいじゃないか。そんな中途半端な感情を。ここで終わらせればいいじゃない。
バドミントンをしない原島樋春など原島樋春じゃない。このラケットを折った時、私は死ぬことになる。
それでいいじゃないかな。
私は一度殺してもいいじゃないかな。
そう……私は。
バドミントンやめるのだから
「ダメだよ」
と突如後ろから声が聞こえる。
原井日向……。
傘もささないで来た彼女の髪はグシャグシャに濡れていた。
彼女は肩で息をする。
「そんなことをしたら原島さんの心が傷ついちゃう」
「うるさい! 黙れよ!」
違う。私はそんなことをいいたいんじゃない。原井に怒りをぶつけたいんじゃない。本当は寂しいだとか怖いだとかそんな感情をぶつけたい。
だけどそれはふっと浮かび上がる母の幻影が邪魔をする。
雨が地面を叩く。その音がやけに騒がしい。はやく静かになってほしい。
この雨。いつもよりも生暖かい。気持ち悪い雨。
私は今、どんな顔をしているのだろうか。
原井はふっと笑みを浮かべた。
そんな変な顔を今、私はしているのか?
そんな恥ずかしい顔を今、私はしているのか?
「私はもう勝てないんだよ! これから先どんなに努力をしても勝てないんだよ! それなのにバドミントンをして何の意味がある」
「意味なんてなくてもいいじゃないかな。だってさ」
とここで一息彼女はついた。
「私は意味を考えたことないよ。ただバドミントンが好きだからやっている。それだけ」
呆れた。
これだけバドミントンをしている意味を考えている人の前で普通の人はこんなことをいうのだろうか。
いや、いうのだろうな。それが原井なのだ。この私の気持ちを無視するのが原井なのだ。
「アホか、お前。意味を考えずにあれだけの努力をするなんて」
「どうして生まれてきた? どうして息をするの? どうしてあなたは女の子なの? どうして今は高校生なの? どうして熊谷で頑張ろうと思ったの? どうして日本に生まれてきたの? どうして明日の宿題をやるの? どうして今日の夜ご飯を食べようと思っているの?」
「お前、何を」
「そんな意味、いちいち考えていたら疲れない?」
キョトンとしたアホっぽい顔。顔をかしげて濡れた髪を揺らす。
「疲れる……かもな」
「そうでしょ。それじゃ、どうしてわざわざ疲れることをするの?」
「バドミントンをするのに説明できる意味が欲しいからだ」
「それってさ。ただ楽しいだけじゃダメなのかな」
「それが出来ないんだ」
「それはなんで?」
「バドミントンを楽しいと思った記憶がないからだ」
「それじゃバドミントン嫌い?」
「嫌いだ。嫌いだ。こうやって私を苦しめているバドミントンなんて嫌いだ」
「それじゃ、苦しめないバドミントンって」
「そんなのあるわけない。私は生まれてからずっとこのラケットに呪われてきた。苦しめられていた。ずっと孤独だった」
「本当に孤独だったの?」
「当たり前だ。私のまわりにはいつも誰もいなくて」
「でも、今私はここにいるよ」
なんだ、こいつ。
揚げ足ばかりをとって。本当にムカつく。
「ねぇ思い出してよ。本当に1人だった? あのインハイ予選対戦相手がいたでしょ? 審判がいたでしょ? 大会を運営してくる県のお偉いさんがいたでしょ? 観客がいたでしょ? 石塚先生がいたでしょ? 部長と副部長がいたでしょ? 案外そこにはたくさんの人がいたでしょ」
「うるさい、うるさい。そいつらは私に関わりがない人たちだ」
「仮にそうだとして……どうしてバドミントンを始めようと思ったの? 絶対に、そこにはきっかけになった人がいたでしょ」
そんなのいるわけない。
私はただ母にバドミントンをやれと言われてやっただけだ。そうだ。そのはずだ。
しかしそこにふと姉の姿が浮かんでくる。
そういえば……
私は姉を尊敬している。姉がかっこいいと思っている。あの凛々しく真っ直ぐな瞳で捕らえる彼女の目。
私の尊敬は姉にあった。
いつか私は姉みたいになれるのかな。
そんな姉がバドミントンをやめて、いつの間にか自分の目指す先を忘れていた。
私は姉とバドミントンをしたくて始めた。
「バドミントンって1人では始められないんだよ」
うるさいな。本当に。
雨はやまない。私の髪は雨粒で重くなる。
「もう一回、周囲を見てみてよ。そしたら案外みんな応援してくれているかもしれないよ。例えば親とか」
「そんなわけない」
「なんで?」
「なんでって。この間私が負けた時あの人はなにも言ってくれなかった。無言で私を睨むばかりで」
そういうと原島は腹を抱えて笑いだした。
「一体何がおかしい」
「いや、何となくだけど原島さんの親って多分性格が曲がっていると思うんだ」
「あぁ、そうだ」
なんだがその言い方、少し気にさわるが。
「それならさ、何も言わなかったんじゃなくてただ何を言えばいいのか分からなかったんじゃないかな。ずっと娘に応援していて、ある時負けて凹んだ娘の姿をみてどんな風に言葉をかければいいのか分からなくなっていたんじゃないかな」
「そんなわけあるわけないだろ」
「そう思うなら今度親と話してみたら?」
そんな、今になって親と喋れるわけないだろ。ここ数年お互いに避け続けていたのだから。
そう、今ごろ私と親が喋れるわけない。
そういえば一体いつ頃からだろうか。私と親がしゃべらなくなったのは。ここしばらく親の声すらもまともに聞いていない。
私は母が嫌いだ。いつも私を怒ってばかり。勝っても負けてもいつも同じ表情。
だけど、たった一回だけ。
たった一回だけ母が私を誉めてくれたことがあった。小学校の時。人生初の市内大会で優勝したとき。
母は私を自慢してくれた。あまりにも自慢しすぎるから、他の親たちは煙たがっていた。私も恥ずかしいと思った。だけど、心の奥では嬉しいと思った。
私にもそう思った時期があったのだ。
「今からさ、ちゃんと色々なことに向き合ってみてよ。そうしたら敵だと思っていたものが違う何かに見えると思うからさ」
「違う何かに?」
雨はまだ降り注いでいる。一滴、一滴が重い。私は雨が嫌いだ。
だけど、雨が叩いた後のコンクリートの香り。それはどうも嫌いになれない。そんな臭いが今、ツンと鼻をくすぐった。
私はラケットをケースのなかにしまう。
雲を見る。まだ晴れる気配などなし。
だけど信じてみる。いつかまた晴れる日が来ると。
「来週の試合、一緒に戦おうよ」
笑顔で原井はそういった。
私はまだ首を縦にも横にも振る勇気がない。
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