おれのおっさん
早瀬翠風
天使なんていない
子供が天使なんて嘘っぱちです。
疲れきって帰宅した俺は倒れるようにテーブルに突っ伏した。ひんやりしたガラスが気持ち好い。今朝ちゃんとテーブルを拭いて出てよかった。ぺったりと頬を押し付けて溜め息をつく。暫くぐりぐりしていたが、気分は全然上がってこない。こんなときには。
「酒でも飲も」
ガラスを曇らせる頬の油をスウェットの袖で拭ってから台所を漁った。個包のお安い生ハムと6Pチーズ。十分十分。洗いかごに伏せていたパン皿に生ハムをペコっと移し、6Pチーズは蓋だけ開けてテーブルに運ぶ。
少し前に友人に貰ったウイスキー。今日はあれを開けよう。結構いい酒だったはず。棚からボトルを出すときに目の端にあたりめが映った。あたりめは好きだが今日はダメだ。あれはオヤジ臭すぎる。後ろ髪を引かれつつも視線を外し、グラスを取って酒席に座り込んだ。
「はー、旨い」
氷も入れないグラスにどばどばと酒を注ぎ、ぐびっと呷る。これが一番旨いのだ。ツマミも一応用意したが、6Pチーズのアルミを剥いて二つに割っただけで手をつけていない。だって酒が旨いから!
酒はどんどん進んだ。もちろん旨いからというのもあるが、ウサ晴らしの意味合いが強いのは否めない。今日は本当に疲れた。
子供が嫌いな訳ではない。むしろ好きな方だと思う。そうでなければ子供向けの水泳教室のインストラクターなんて務まらない。
でもあいつらは天使じゃない。今日はどっちかというと悪魔だった。
グラスを置いて琥珀色の液体が揺れるのを眺める。揺れる揺れる、琥珀の水面。アルコールの匂い。漂う塩素の匂い。水面に浮き沈みする子供の水泳キャップ。プールのなかにいる間は、あいつらも聞き分けのいい天使なのだ。豹変するのは
「止めなさい。こら!」
一応の声かけはするものの、腕力に訴える訳にはいかない。体罰やら何やらに厳しいこのご時世。腕を掴んで引き剥がしただけでも大事になりかねない。しかも分厚いアクリルの大窓の向こうには、我が家の天使を見守るお母様方が鎮座していらっしゃる。俺だって職を失いたくはない。でも。
「本当にいい加減にしなさい。ほら。順番にシャワー浴びて!」
そんな俺の訴えを誰が聞くだろう。悪魔どもは知っているのだ。窓の向こうのお母様方の前では俺が反撃出来ないことを!
でもヤバい。マジでヤバい。このままではポロリしてしまう。女の子のおっぱいならともかく、男のポロリなんて誰得!? ただでさえ面積の狭いパンツを引っ張るな。この悪餓鬼どもが!!
俺は助けを求めてお母様軍団の方を向いた。おふざけの過ぎる子供を御するのはお母様の役目である。
そして俺は見た。見てしまった。
クスクス笑いながら頬を寄せ合ってその瞬間を見守る皆様を。なるほど。悪魔が生まれる訳である。
「あんなんが天使な訳あるか」
酔いが回った俺は、中身もずいぶん減ってしまったボトルに話し掛ける。返事があるはずもないが、返事などいらん。だから問題ない。
「天使ってのはなあ。もっとこう」
ボトルの影から小さな何かが顔を出す。背丈はボトルの半分くらい。白い上下に身を包んだ三頭身の生き物だ。柔和な笑みを浮かべてこちらを見ている。
「そうそう。そういう、穏やかで清らかな感じの」
危険は無いと判断したのか、その生き物はとてとてとこちらに駆けてくる。覚束ない足取りが可愛らしいじゃないか。
それは傍まで来ると、俺が割ったチーズを更に小さく千切って小首を傾げた。食べていいかと聞いているらしい。
近くで見るとその容貌がよく分かる。微笑む目尻に刻まれる笑い皺。やわらかい髪を一生懸命引っ張ってハゲを隠(そうと)したバーコード。…………。
「天使やないやん! オヤジやん! てゆうかそれ、ステテコやん!!」
大声が出ても仕方のない状況だろう。あんまりだもの。しかも、俺は酔っている。思わず変な関西弁もどきが出たのもきっと酔いのせいだ。俺、東京生まれの東京育ちなのに。
でもその大声のせいでおっさん天使はビックリしてしまったようだ。ペタンと尻もちをついて、ちょっと困ったようにこちらを見上げる。チーズはしっかりと握ったまま。
ちょっと可愛いな、おい。
いや違う。落ち着け、俺。
これはおっさん。かわいい天使じゃあない。
ぐっとグラスを呷ってぺたんとテーブルに頬をつける。酔っているのだ。変な幻は見えるし、思考回路がおかしなことになっている。もう寝ちゃおうかな。このまま。ベッドに行った方がいいのは分かっているが、このおっさんを放ったらかしにして行くのも気が引ける。
「ああ。チーズは食っていいよ」
落ちかけた瞼の下から呟いた。ぱあっと笑ったおっさんが嬉しそうにチーズに齧りつく。可愛いな、おい。
「旨いか? そうか。よかったなあ」
手のなかのチーズを食べ尽くしたおっさんがぽてぽてと駆けてくる。口の回りチーズだらけですけど。おっさんのくせにどうなの、それ?
駆けてきたおっさんは、ぽすぽすと俺の頭を撫でた。それから顔を覗き込んでにっこり笑う。
だから、チーズだらけだって。何なの? なんか癒されるんですけど。
俺の瞼は落ちてゆく。おっさんは俺の頭をクッションに決めたようで、背を預けて舟を漕ぎ始めた。
天使なんていない。
いるのは調子に乗った悪餓鬼と、
可愛いおっさんだけだ。
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