サイゴのイチニチ
小宮奏の朝は遅い。
少し大きい薄青色の寝間着をなんとなく弄りながら、小宮は欠伸をした。
彼女の通う高校の始業が8時40分。彼女が目を覚ました今、時計の針が指しているのは8時半である。無駄に厚いカーテンのせいで部屋は暗い。この家にいると気分も暗くなる、と奏は嘆息した。
普段は艶やかな肩まで伸ばした黒髪も、そんな姿は想像できないほどボサボサである。
半分寝たような状態で、パンパン、と2回手を叩く。瞬間、3人のメイドが「おはようございます、お嬢様」と声を揃えて言いながら入室してくる。
「ご苦労様」
奏がそういうと、メイドたちはその黒いスカートの裾を掴み、恭しくお辞儀をしたあと、彼女の着替えを慣れた手付きで遂行し始めた。
早いもので、奏は2分後には濃い茶のスカートに白いシャツ、ベージュのブレザーといった制服一式を着終わっている。自分で着替えられるのだが、何かメイドたちが凄く嬉しそうに着替えをやるので、もう任せてしまっている小宮である。髪を整えてくれたり、洗顔までこなしてくれるのでダメ人間になる恐怖と隣り合わせである。髪も後ろで結われており、その凛とした雰囲気に合うようにうなじで揺れていた。
行ってらっしゃいませ、と言うメイドたちに手を軽く振り、バン、と部屋の扉を蹴って開ける。広いが物が少ない部屋にその音が鳴り響く。
不幸にもその元気な扉の餌食となった父親が、不機嫌そうに奏の方を見る。
「行儀が悪いな、奏」
「冗談はキッツい加齢臭に留めておいてくれ、父さん」
互いに親しさの欠片もない会話。奏は目も合わせたくないのか、長い階段を手すりに乗って滑り降りた。
「行儀が悪いと言っているのが分からんのか!!」
「行儀なんて一体どこの誰が決めたのさ~」
「ッ、来週は俺が主催するコンサートがあるのを忘れてな いだろうな! 何を弾くのか知らんが俺に恥をかかせるんじゃないぞ!!」
「『別れの曲』。名曲だろ」
曲名は父には届かなかったし、それでよかった。娘を高級なオルゴールか何かと勘違いしている男に興味などなかったのだ。
またさっきのように、乱雑に蹴りで玄関のドアを開けた。
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奏が学校に入る頃、皆は既に勉学に励んでいる。
しかし奏は引き戸を普通にガラ、と開け教室に入る。時計が指すのは10時ほぼぴったり。2時間目の真っ最中である。
初めのころはあまりのマイペースな登校時間に皆困惑を隠せなかったが、高校という新しい環境が始まって2か月も経つと、慣れるし興味もなくなったようだ。
故に何事もなかったかのように席についた奏は、心なしか少し嬉しそうに右隣の男に挨拶した。
「おはよう、破音君」
「・・・・・・おはよう、小宮」
かなり渋めの表情で挨拶を返した男は湖心破音。唯一奏が会話をまともに交わす人間である。
「なんだい、人が挨拶をしているのに。眠いのか? 朝は辛いか。あたしも朝弱いから分かるよ」
「・・・・・・」
破音は整える気もない白髪の多く混じる髪をぐしゃ、と掻いてノートに意識を向け直す。
「無視はよくないな。あたしも会話は苦手な方だが無視はしないようにしているつもりだ。コミュニケーションには馬鹿にできない力がある。まあ君はあたし以外と会話することなどほぼないが」
「小宮は話しかけてきた人に『話すつもりはない』って言うことをコミュニケーションと誤認しているのか。凄まじい世間とのズレだな・・・・・・」
「したくないことはすべきではないと思っている」
「さっきのコミュニケーション賛美はなんだったんだ!? いや僕は無視をした訳ではなくてだな」
「何だというんだい?」
「いや・・・・・・今授業中だから・・・・・・」
奏が周りを見ると、珍しいモノを見る目をしている生徒たちと、額に皺を寄せて咳ばらいをしている数学教師の高峰先生(46)が視界に映った。
「ふむ」
「分かってくれたか・・・・・・目立ちたく無いんだ、頼むから黙っててくれ」
奏はふう、とため息を漏らした後、仕方ないといった感じの口調で言った。
「では場所を移そう」
「話聞いてたか!?」
「我が儘だな、破音君」
「どっちがだよ、どっちが!!!!」
「先生、すまないが体調が優れないので少し席を外すぞ」
「ああ、放課後湖心と生徒指導室にくるように」
「・・・・・・」
余談だが、奏は必要最低限のテスト勉強で高得点を叩きだすタイプであり、破音は努力が実を結ばず平均点以下を取るタイプである。
世の中理不尽だな、と破音は自分の行く末、あるいは自分でない自分の未来を心配した。いまとなってはどちらが本物なのか。それは神のみぞ知るところであるが。
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「全く、教師というものはどうしてああも非効率的な動きをするのか。理解ができないよ」
「僕は小宮のその限界突破したマイペースさこそ信じられないな・・・・・・」
「む。聞き捨てならないな。あたしのどこがマイペースだと言うんだい?」
「聞きたいか?」
「ああ。言えるものならね。言えなかったら今から食べに行くパフェは破音君の奢りだからね」
「僕ら今からパフェ食べに行くの!?」
「?」
「『違うのか?』みたいな顔をするな、そういうとこがマイペースなんだ・・・・・・」
「心外だ」
「何で!?」
破音が可哀そうに見えてきた。
はあ、と今度は破音が盛大なため息をつき、パフェを奢るのは嫌なので奏の問いに答えを出した。
「何で普通に学校を出たんだ、小宮!?」
「? 場所を移すと言っただろ?」
「最低でも学校内に留めてくれると思っていたんだが!!」
「学校にパフェはないだろう」
「パフェはもういいっ!!!!」
珍しく叫びすぎた破音は、肩で呼吸をしながら奏を睨みつけた。
現在2人がいるのは市立の大きな病院前。近くには商店街やマンションのある、紛うことなき学校外である。
授業を何故か抜け出せた後、破音は奏に『いいからいいから』と流されるままに、訳も分からぬまま学校の塀を越えさせられた。古臭い学校故か、抜け出すのには造作もなかった。何度も破音が理由を問いただしたのだが、全く教えてくれないので余程深い理由があるのかと思えばこれである。
「さ。パフェに行こうか」
「甘いもの大好きか!? いや学校に帰るぞ!? そもそも制服でこんな時間にほっつき歩いてたら補導されるぞ!?」
携帯の画面に映る数字は10:30。学生が平日に歩いていてはいけない時間だ。
「あたしに関わると父上がうるさいから大丈夫さ」
「そうかい・・・・・・」
もう面倒になったのか、 破音は黙って奏についていく。
歩きながら、奏は得意げな表情で振り向き、ない胸を張る。
「といっても、破音君の世間体もあるだろうからね。人気のない所は手配済みさ」
「さっき歩いた辺りはこの田舎じゃ一番人が多いが。あと手配が出来る判断力があるなら放課後まで待てなかったのか? そもそも世間体を気にしてくれるなら学校を脱走させるという暴挙にでたのは何故だ」
「ツッコミ長いな、キミ!」
「ボケが多すぎるんだろ!?」
昼間っから道端で大声で漫才じみたことをする人間の世間体とは何なのだろう、と破音は悲しくなった。頑張れ。
ふいに奏が足を止め、目の前の建物を指さした。
「着いた。ここらで一番のパフェが食べられる場所さ」
「すまん小宮。僕の目には無駄に家賃の高そうなマンションが見えるんだが」
「あたしが家にいたくなさすぎる時に泊まる用のマンションさ。ピアノというのは弾くだけで金が入ってきていい」
「日本の誇る天才ピアニスト様は住むわけでもないのにこんなマンションをさらっと借りちまうんだな・・・・・・家自体も金持ちだし、どこで差がつくのかね」
これだから天才は、と破音は皮肉を込めて拍手を送った。
「む。拍手はあたしにとって『金を払う』と同義だぞ、破音君。心配しなくてもあたしの奢りだ」
「そんなこと思いながら客の拍手受けてんのかよお前。奢りっつかメイドさんが作ってくれてるんだろ?」
「ご明察。絶品だよ」
ふふ、とポニーテールを揺らし微笑む奏は、楽しみで仕方ない様子だ。
「さあ行こう破音君、パフェはすぐそこだ」
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「それで?」
やたらと綺麗でだだっ広いリビングで、座ったことがないようなフカフカのいい椅子に座りながらチョコレートパフェを半分ほど無言で食べ終わった頃。破音は思い出したように口を開いた。
「僕を連れ出してまで何がしたかった? 無目的なんてことはないだろ」
その言葉を聞いた奏は少し目を丸くした後、やれやれ、と首をすくめた。
「ただパフェが食べたかった乙女のお茶目、とは思ってくれないのかい」
「小宮が考えていることはよくわからんが、お前は何か食いたいならメイドさんに学校まで持ってこさせる女と思ってる」
「ご名答さ」
どこか嬉しそうに奏は笑った。
パフェについているクッキーをさくりと齧り、その笑顔のまま破音を指さした。
「正解者にご褒美だ。あたしも質問はさせてもらうが、破音君の質問にもなんでも1つ答えようか」
「・・・・・・遠回しに僕が質問から逃げるのを防いでるね」
「別に遠回しにした気もないさ」
パフェはすっかり溶け、食べるのが遅い奏のアイス部分は垂れてきていた。
垂れたアイスを指ですくいながら、嬉しそうに奏の髪は左右に揺れる。
「・・・・・・ま、ずっと僕も聞きたいことがあったしちょうどいいか」
ガシガシと破音が髪を掻く。
「お、いいね。何でも聞いてよ」
破音は口を豪快に開け、パフェを大きく頬張る。ほとんど飲むようにして流し込んだ後、投げるような口調で質問した。
「僕にだけそんなに構う理由はなんだ」
「・・・・・・ふむ」
その問いを聞いた奏は、パフェのフレークをぐしゃ、と割った。
「答えることは簡単だ」
「と、言うと?」
砕けたフレークをアイスと混ぜる。本来の姿でないのに、何故かあるべき姿より美味しそうに見える。
「その質問は、あたしの質問を聞いたらなんとなく理解できると思うよ」
砕けたフレークとアイスのキメラを少し食べ、奏はふうと息をついた。
「ちなみに答えたくない質問だったら答えなくていいのか?」
「きっと答えるさ」
ふふ、と奏は笑った。
そして、破音とは違って、丁寧に手渡すような。大切な物を渡すような口調で質問を唱えた。
「破音君、何かずっと嘘ついてるよね?」
破音の質問の扱いは、やはりぞんざいだった。
「何のことだ」
対する奏は、やはり質問を大切に想っていた。
「あたしはね、嘘を見抜くのは得意なんだ。小説や漫画なんかでよくみると思うけど、実際にゴマすりなんかを小さいころから見まくってると嘘には敏感になるものさ」
「で、僕が何か嘘をついていると思ったのか?」
「うん。それも入学した時からずっと」
いつの間にかお互い食べ終えていたパフェのカップは、ここにいる誰かの空っぽを見透かしているみたいだった。
「ずっとお? そんなの・・・・・・そっちが本当なんじゃ、ないのか」
少し言葉を出すのに躊躇しながら破音は言った。言ってはいけないことだと分かっていたのに、一縷の希望を持って。
「何だろうね・・・・・・こう、あたしも語彙が豊富なわけではないからうまく言えるかわからないのだけど」
ううん、と腕を組み考え込む奏。いまいち考えがまとまらない、といったようにろくろを回しながら口を開いた。
「嘘、というか。入学式の日、君を見た時から違和感があったんだ。陳腐で淡白に聞こえる自己紹介も。ちょっと不自然な結び方のネクタイも。周りに関心がないような態度も。全部本当の君に見えなかった」
「出鱈目だな。ただの勘じゃないか」
「いや、破音君」
「意味わかんねえんだよ」
食い下がる奏に対し、破音が人生で初めて・・・・・・そう、『初めて』怒気をはらんだ声を出した。何かを殴るといった行動を起こすことはしないが、コツコツと机に指を当てている様子からそのイラつきが見えた。
「じゃあなんだ? 僕の自己紹介が本当に聞こえない? つまり僕に自己がないとでも言いたいのか。 そりゃ随分な言い草だな、小宮」
「違う、そうじゃなくて!」
「何が違うんだ?」
破音は小さく舌打ちをした後、無駄に沈む邪魔くさい椅子を立った。
最低限の荷物しか入っていないはずの鞄は、やけに重く、辛く感じられた。
「学校戻るわ。小宮がどうするのか知らないけど、戻るなら勝手にしろ」
「待って、破音君! あたしは・・・・・・!」
「じゃあな」
奏の制止を無視し、破音はその部屋から出て行った。揃えられていた靴にも気が付かずに。
マンションの長い廊下を歩きながら、破音は質問の回答を聞いていないことに気が付いた。奏は自分の質問を聞いたら何となく答えが分かると言っていたが、破音には全く分かっていない。
「まあ、いいか」
そう、どうでも。口の中でそう呟き破音はエレベーターに乗った。
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ふと時計を見るともう3時を回っていた。
「・・・・・・やっちゃったか」
奏はため息をついて、椅子の背に身体を預けた。
「やっぱり、聞かれたくないことだったのかな」
すっかり冷めきった哀れな紅茶を流し込む。
ずっと気になっていた。あの何を考えているのか分からない少年の秘め事が。
だから執拗に絡み続けていたのだ。それが問いへの答え。
しかして、それだけではなくなってしまっているのは奏本人も最近気が付いたことだ。
さっきより大きなため息をつき、1冊のノートを鞄の中から取り出した。薄いピンクのノ表紙には『diary』と奏の少し丸い文字で書かれている。4分の1ほど埋まっている、入学式の日から書き続けている日記だ。
何となく、初めのページを読む。記憶のドアのノックだ。
『4月1日 入学式
高校に入学した。どうせピアノで潰れる3年だが、高校卒業の資格は何かと便利だから欲しい。学校側もあたしがここを卒業しました、という実績が欲しいらしく、ほとんど学校に来なくても卒業資格はくれると約束してくれた。反吐がでる優しさだ。
しかし。こんなクソみたいな高校生活に1人面白そうな奴を見つけた。
名前は湖心破音。特に話したわけでもないが、彼のした自己紹介に違和感を感じた。
とにかく嘘くさい。名前すら本当かわからない。
あたしには分かる。嘘を見抜くことが趣味のようなものだし。
でも、その正体が分からない。一体何を誤魔化している?
興味がある。暴いてやりたい。
少しはこの3年間に興味を持てそうである。』
ページをいくらか捲る。
『6月11日
破音君が毎日お昼を食べていないのが気になったので、お弁当を作ってみた。料理はあまりしないのでメイド共とやったが、思ったより美味しそうにできて驚いた。ピアノなんかよりよっぽど難しいな、料理というのは。
破音君は遠慮していたが無理やり渡した。昼に食べていたから安心したよ。
明日、感想とかくれるだろうか。』
「あたし、異次元級にわかりやすいな」
自分で書いたものなのに、読んで笑ってしまう。
小宮奏という少女は、湖心破音のことが好きだった。だから彼とだけ話した。他に何もいらなかった。
恋などしたことがなく、愛だの何だの下らないと思っていた。
スキ、とはこんな感じなのかと。理解できたことは幸福かは分からないが、恋をしている奏は幸せだった。
互いに話すのは互いだけ。特別な何かなのだと、優越感に浸っていた。
あたしの我が儘も聞いてくれる。優しさとか好意とかではなく、一種の『諦め』からくるもののように感じられたが、それでも奏は嬉しかった。
もう何を誤魔化してるとか嘘ついてるとかどうでもよかった。
そのはず、だった。
好奇心が働いてしまった。
2人で秘密を共有したいと思ってしまった。
トクベツになりたかった。
欲張った結果がこのザマだ。やはり恋など理解できない、と奏は日記を机に放った。今日のことを書く気にはまだなれなかった。
「・・・・・・戻ろう」
今日はこのままさぼってやろうと思っていた。呼び出しなど無視しても何も言われないが、それに応じてでも今は破音に会いたかった。
すぐに鞄も持たないまま部屋を飛び出した。どうせ学校に行ったって勉強なんてしない。
ダンっ、と閉じられた扉の衝撃で日記は机から滑り落ちた。
_________________
ああ、気がはやって仕方がない。
やけに変わるのが遅い信号にイラつき、奏は腕を組んで下を向いた。
なんだか、遅くなってはいけない気がした。取り返しのつかないことになりそうで。ガラにもなく奏は焦っていた。
関係性を壊したくなかった。とにかく、早く。この信号を越えればすぐ学校だ。
そうだ、もうすぐ。
信号機の赤が消え、緑に光った。『通っていいよ』と促すように。
『こっちにおいで』と、蜘蛛が獲物を誘いこむように。
ガゴン、と音がした。
急に周りは騒がしくなった。ピーポー、と素っ頓狂なサイレンが耳をつんざく。
奏は、と自分がすべきだったことを忘れていることに気が付いた。
何をすべきだったか。
何を、したかったか?
・・・・・・私は、誰だっけ?
視界はどこまでも暗かった。あの家みたいに。
検索サイトのトレンドに、『天才ピアニストの悲劇の事故』が浮上した。
『現役女子高生の天才ピアニストが飲酒運転の車に轢かれた。奇跡的にも命に別条はなかったが、右腕に障害を遺した。ピアニストとしての将来は絶たれ、そして』
世界中から注目されていた天才ピアニストは死んだ。命あっても弾けないのでは死んだも同然だ。
しかし、小宮奏の不幸はまだ鳴り止まない。幸福のワルツは終わり、不幸のコンツェルトはその裏で鳴り響く。
『その記憶を失った』
かくして。
1か月の時を経て、2人は再開を果たす。
たった数日の逢瀬と恋のために。
ヨルとヒノハナ パEン @paenn
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