愛も、命も終わるものでよかった

四月

開戦前夜

 雨がアスファルトにはねる音と秒針が規則的に時を刻む音が交わる六畳ほどの部屋の中で、ところどころ黄色い染みができている白い天井を眺める。時刻は午前三時の少し手前。ベッドに入り寝る体制を整えてからもう二時間が過ぎた。夕方にアルバイトで品出しをしていた時の眠気は跡形もなく、僕はまだ眠れないでいた。大学に入学してからはや一ヶ月。幸せの解釈を自分なりに捻じ曲げて、あろうことかそれを他人に押し付けることになんの恥じらいもない教授や、楽しければすべてをよしとする学生に囲まれて、退屈な講義に寿命を奪われる生活は、僕の多少なりとも前向きだった気持ちを根こそぎかっさらうのに充分な理由になりえた。とは言え、期待しすぎていた僕にも少なからず非がある。冷静になって考えてみれば、何も難しい話ではない。人間とは結局自分が一番かわいい生き物なのだから。無償の愛も友情も存在しない。何事も優しさには見返りが付いているものだし、人間関係において心のどこかではどうすれば損で、どうすれば得かをしたたかに計算している。ほとんどの人間が、いじめを目撃して酷いねなんて言っても実際に助けたりはしないし、どこかで自然災害が起こっても時間とともにそれを忘れているし、それどころか本音では自分の周りで起こらなくてよかったと安堵すらしている。もし本当に自分の身を投げ打ってでも誰かを助けるような人がいるなら、それは守りたい何一つを失ってしまった人間の狂気か、前世で相当な得を積んだお人よしか、それか正真正銘の馬鹿かのいずれかだろう。

 例えばこうしてくだらない思考に頭を巡らせている真夜中。環状線を回り続ける電車の車窓から移り行く景色をぼんやりと見つめている時。大学の同期が呑んでいるインスタグラムのストーリーを画面の右側をタップして飛ばした時。あるいは、ツイッターのタイムラインに元恋人の投稿が流れてきて反射的に見入ってしまう時。生きていく上で大切なはずのもの、にもかかわらず無意識的にいつのまにか忘れてしまっていたなにかを、決定的に、永久的に欠落しているような気がするのは何故なのだろうか。エミール・シオランが、あらゆる思想は損なわれた感情から生まれると言ったように、失敗や後悔、懺悔や憎悪によって手放してきたものたち、失わざるを得なかったものたちが、僕たちの輪郭を形成しているのだとしたら、生きるという行為はいささか非生産的だ。

 僕らの人生は、九十分の映画になんてなりやしないし、三百項の小説にも、ましてやたった五分の歌にだってならない。人並みに悲しんで、人並みに喜びながら、高校を卒業し、大学に入り、酒を呑み、煙草を吸い、たまに単位を落としつつ、時期が来れば就活の対策をして、興味のない一般企業に頭を下げて就職する。手に職就いてからは、納期や締め切り、仕事のノルマなどに一生追われ続けて、国民健康保険や年金の税を払い、決まった時間に起き、決まった時間に働いて、円滑に社会の歯車を回すように努める。特別でも劇的でも何でもない。悲劇的でも喜劇的でもない。約七十億の人口に埋もれる、ごく有り触れた人生の一つ。その旅路を、喪失することでしか前に進めないのだとしたら、生きるとは前向きなように見えてその実後ろ向きでしか歩けないのだ。

 その真理に気付く者、気付かない者、気付いていないふりを決め込む者、種類は様々だとしても、いつか僕たちの命は尽きる。呆気なく、そして無様に、いつか死ぬ。その時が訪れた時僕は一体何に後悔し、何を思うのだろうか。きっと「死ぬ前に一蘭のラーメンをもう一度食べたかった」とか、「スタバの新作を飲んでみたかった」とか、「そういえばZOZOTOWNのつけ払いの支払いを忘れていた」とか、そんなどうでもいい事ばかりが頭に浮かんでくるのだろうし、「もっと親に感謝の言葉を伝えておくべきだった」とか、「真面目に働いてばかりいないでもっと遊んでおくべきだった」とか、ありきたりな事に思いを馳せるだろう。死ぬ間際に考えることなんてせいぜいこれくらいだろうと予想している。きっと、誕生日プレゼントに何が欲しいかと訊かれても、急に欲しいものが浮かんでこないのと似たような感じで、死を実感した時、本当に思い出したい事は思い出せない気がしてくる。思い出したい事が、本当はたくさんあるはずなのに。

 しかし一つだけ確かなのは、「もっと抗っていればよかった」、「もっと貪欲になりたい自分を目指せばよかった」と、悔しさを噛み締めながら息絶えるのだろうという事。自分を認められないまま死にたくはないのだという事。過ぎた思いやりは己の体を滅ぼすが、いくら悔しんでも人の寿命には限界がある。幸せで流す涙はともかく、悔しくて泣くのは死ぬよりも心が痛い。それが、僕が筆を執り続ける最大の理由である。

 眠れないまま、時刻は午前四時に迫ろうとしていた。少しずつ弱まる雨音。はるか遠くに微かにバイクのコール音が鳴っているのが聞き取れる。溢れんばかりの感情のコントロールする方法を知らず、暴走することでしかそれを発散できなかった不良。自らが性根は悪人だと理解する事を放棄し、善人ぶっている偽善者。今日もどこかのビルで顔も知らない誰かが飛び降りた。清楚に見せかけたくそビッチも、人殺しのろくでなしも、常識離れの天才も、どれだけ散財しても有り余る金を持つ大富豪も、泥水すすってやっと生きられる貧しい子供も、いじめっ子も、いじめられっ子も、百年後には同じ土の下。大丈夫、死んだら皆仲良くただのたんぱく質。大丈夫、何も怖くない。大丈夫、大丈夫。僕は諭すように自分に言い聞かせる。呪文のように、子守歌のように、ゆっくりと噛み砕いて咀嚼する。大丈夫、大丈夫。布団を肩まで掛け直し、そっと瞼を閉じる。明日のアラームはセットしたんだったっけ。混濁した意識の中そう考えた記憶を最後に、僕は眠りに落ちた。


 ところで、これはあまりに凡庸な僕が、その平凡さだけを武器にこの世界となんとか戦おうと試みた、とんだ茶番劇である。あるいは、運命とか定めとか、そういった都合のいい当てつけから逃げ続けた壮大な逃走劇でもある。

 浴室で血まみれだった彼女。五階の廊下から見た夕焼け。ワインレッドの壁紙。冬の海岸。投げ捨てたペアリング。捨てられなかった手紙。左の耳に開けたピアス。梅田の歩道橋。ごみ箱に山積みになった紙屑。隕石が落ちたあの映画。夜のタクシー。僕が喪失したそれらに捧げる、ささやかな物語。

 お涙頂戴や、そこらの安っぽいラブソングみたいな綺麗事で取り繕ったお話、どこぞの漫画のような形勢逆転ハッピーエンドのお話をお望みの方は、これより先のページを捲る事をお勧めしない。なぜならばこれはことごとく現実的で、挫折と失望にまみれた僕の数年を描いた全く面白味のない物語だからだ。だが現実は小説より奇になる場合も、ごく稀に存在する。

 物語としてはおちがあるのが正解なのかもしれない。起承転結があるのが正しいのかもしれない。だが現実というのはいつも退屈で、待っている限り奇跡も起きなければ奈落の底に突き落とされることもない。僕らはヒーローにはなれない。お姫様にもなれない。地球最大のピンチに自分が駆け付けることはない。白馬の王子様が来ることもない。大切な人はいつも救えない。報われたい努力ほど報われないし、神に祈ってもご加護を得られることはない。それでも人は生きるしかない。自分の人生の主人公になれる人間ばかりではなくても。


 十二月の聖夜。午前零時の海にて、僕は丁度一年前のこの日の事を思い出していた。

 水平線と空の境目がくっついて、まるで世界に暗幕でも落とされてしまったかのようだ。波が引いては押し寄せる音が、僕と、この海と、この世界の静寂を切り裂いてはまた気まぐれに縫い合わせようとする。ただその気まぐれが、今の僕にとっては心地よいのであった。

 真っ黒い海に僕は、何千枚、何万枚、下手したら何十万枚にも到達しうる原稿の束を投げ捨てる。水面に沈むや否や、おびただしい数のそれは、水に浸り、黒いインクがじわじわと滲んでいる。なんだ、こんなものか。僕の費やしてきた努力、労力、時間の結晶であったはずの紙切れは、ものの数秒で文字通りの水の泡へとなり果てた。慎重に積み上げてきた積木が手を一振りすれば崩壊させられるように、正確に並べたドミノも一つを倒せばあっという間に倒壊してしまうように、ああ、壊すという行為はなんと簡単な事だろう。苦労して作り上げてきたものを盛大にぶっ壊すのは、どれだけ解放感に満ち溢れるものだろう。一年前の今日、彼女はこんな気持ちだったのだろうか。

 彼女と最後にあった日の事は、鮮明に覚えている。クリスマスムードに染まった東京駅。煌びやかなイルミネーション。キャンドルライトに見立てられたゆらゆらと揺れる光。やたら大きな球状のオーナメントが吹き抜けになっている天井を飾っていて、彼女はいつもと変わらぬ様子で綺麗だねとはしゃいでいた。しかし彼女はその二日後、なんの予告もなく自宅ビルの屋上から翼も持たないまま飛び立ったのだ。

 その日、僕は一人東京タワーとにらめっこしていた。音もなく雪が降りしきる夜。彼女から僕への遺言は残っていなかった。

 「私にとって純粋さは、もう凶器でしかない」と彼女は言った。その意味が、今は少しだけわかる気がする。黒が白に、白が黒に、無が有に、有が無に、もともと対極に位置するはずの二つが、一瞬で入れ替わり変貌する事は、なにも珍しい話ではないのだ。今まで信じてきたことに裏切られた時、人は無防備にならざるを得ない。それは初期装備のままラスボスに挑む時のような悲壮感と酷似していた。立ちはだかる巨悪になんの手段もなく立ち向かわねばならなくなったら、人はどうすればよいのか。言葉では彼女を救えない。そんな窮地に立たされた時、それでも僕にまだできることが果たしてあっただろうか。

 海に浮いたくしゃくしゃに散りばった紙は、波に攫われて徐々に遠く、遠くなっていく。

 耳に突っ込んだイヤフォンからは、STUTSの「夜を使いはたして」が流れていた。

 山手線は朝日はおろか、歪んだ日常ですら運んでくれなかった。それどころか失意と無力感ばかりを乗せ続けて、終着点もなく、途中下車もできない袋小路へと僕らを誘うしかなかった。人は日本語の初めに「あい」を学ぶというが、ならば何故そのあいの終わらせ方を教えてくれなかったのか。きっと、何もかもが仕方なかったのだ。そう思うにはもう遅すぎる。しかし、だからと言って何のせいにすればよいのか。そもそも何かのせいにして僕の罪悪感は消えてくれるのかは見当も付かなかった。

 「何の話をしたら、君は救われたんだろうな」

 一人吐き出した言葉は行く宛てもなくそのまま僕の心に突き刺さった。僕は泣きながら思い切り笑った。せめてその笑い声くらいは、君のもとに届いたらいいなと思った。

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