災難に巻き込まれる女・八神奈津子
賢者テラ
第1話『交響曲第931番ヘ長調 ・カトちゃん屁(ペ)』
鳴り響く目覚ましを止めた八神奈津子は、モゾモゾと布団から抜け出し、大きなあくびをひとつした。
今日も、そう代わりばえのしない一日になるはずだった。
会社に行って、仕事して、帰ってきて連ドラなんか見て——。
あと三日頑張らないと来ない週末の休みに思いを馳せ、就寝。
奈津子は、今年32歳になるOLである。
まだ、独身。
彼女が勤める会社からはJR線で5駅分ほど離れたマンションで、一人暮らしをしている。
「……何だかヘンだ」
奈津子は起きた時、体に何かいつもと違う違和感を感じていた。
その原因が何かはすぐには分からなかったが、彼女はやがて驚愕の事実を知ることになる。
五枚切りの食パンをトースターにセットして、挽いたコーヒー豆をフィルターに入れ、コーヒーメーカーにセット。そしてマグカップ一杯半ほどの水を、メーカーに注ぎ込む。
それだけのことをしておいて、奈津子はクローゼットから通勤用に着るカッターシャツとスーツの上下を引っ張り出した。
パジャマを脱いで、スカートに足をくぐらせる。
「…………!」
奈津子は、信じられないものを見た。
まるでメタボの中年オヤジのように、お腹がプックリとふくれていたのだ。
「ななななななにこれ!?」
焦った奈津子は、恐る恐るスカートを腰まで引き上げ、エイッとばかりにホックを留めてみる。
何とか、はけるにははけたが、スカート周りから無様に肉がはみだしていた。
ため息をついた奈津子は、そっとお腹を押さえてみた。
「……これって、ガスがお腹に溜まってるのかな?」
奈津子は、こうなった原因を考え込んだ。
確かに、焼き芋好きの奈津子は、昨日退社後に走行中の軽トラック焼き芋屋を呼び止めて、千五百円分を衝動買いして道々食べた。
昼食時にはイタ飯屋にランチに行く他のOLたちを尻目に、松屋に行って牛とろろ丼に『おかめ納豆』を付けてがっつり食べた。
しかし。奈津子は今回たまたまそういう暴挙にでたのではない。
これらは、奈津子が日常茶飯事に行っていることであるから。
今回だけお腹が出たというのは、何とも解せないのだった。
奈津子は運動が好きで、週に数回は地元のバドミントンクラブで汗を流しているから、お腹の脂肪は大してついていないはずだから、まずメタボではない。
「もうっ」
自分の情けない恰好に腹を立てた奈津子は、ぷっくり膨れた下腹部を力任せに押し込んでみた。
……ブチャッ
何だか、嫌な音がした。
中身の残りが少なくなったケチャップのチューブの中に空気を入れて、思いっきりチューブの腹を押して中身を出した時のような音・そして感覚。
圧迫などすれば、された分の空気なり物体なりは、逃げ道を求めて移動する。これは、物理の常識である。
ガスは皮肉にも、少々生成されつつあった液便……言いにくいが、あえてきちっと言葉にすれば 『ビチビチうんちゃん』を旅の道連れにして、パンティ内にこんにちはをしてしまった。
「…………」
奈津子は泣きそうになった。
しかし、こんなことで悩んでなどいられない。今日は会社で、大事な会議がある。そこで奈津子は、新商品企画のプレゼンをしなければいけないのだ。
彼女は、自分のあまりの情けなさに涙目になりながら、実と汁の付いたパンティを洗面所で丹念に洗った。
ぐずぐずしてはいられない。こんなもの、洗濯は帰ってからだ——。
奈津子はそのまま、時間ギリギリまで便器に座って力み続けることにした。
しかし。こういうものは、都合の良いときになかなか出てくれないものである。
多少の空気は貧弱な車の排気のようにプスプスと出はしたものの、ボスクラスのものはなかなか出てくれない。
奈津子は腕時計に目をやった。
「7時45分か」
もう、糞切り……いや違った『踏ん切り』をつけなければ、遅刻してしまう。
奈津子は祈るような気持ちで身支度を整えた。残念だが、トーストとコーヒーは、あきらめるしかない。
カチカチになったトーストをゴミ箱に捨て、冷めきったコーヒーを流し台に流す。
……ブビビビビ
奈津子は、幻滅のあまり顔を伏せた。
皮肉なことに、捨てたトーストはヤマザキパンの『超芳醇』であった。
実に、『チョー芳醇』な香りは、奈津子の周囲をゆったりと漂うのであった。
整腸剤を飲みたかったが、そんなもの彼女の家になかった。
今まで健康優良児でありすぎた奈津子は、常備薬さえ置いていない。
この前常備薬のセールスが来た時に、何も考えずに追い返したことが悔やまれた。
……グゥゥゥゥ~ キュルルルルルル……
朝御飯を抜いたのと、お腹の調子が悪いのとで、奈津子が駅に向かって歩く間に実に複雑な音がお腹の中に響いた。
「頼むから、社に着くまでは持ちこたえてちょうだいっ」
彼女には、人知れず悪と闘う正義のヒーローの辛さが分かった気がした。
こんなにも奈津子がのるかそるかの戦いをしているのに、周囲の人は誰もその苦労を知らない。
……うらやましい。
便意も尿意もなく、普通に歩けることが、どんなにありがたいか奈津子は身をもって知った。
平然と歩く周囲の通行人がどれだけ輝いて見えたことか!
もし、『ヘクソシスト』という、便意祓い師の神父がいたら、迷わず祈ってもらう。てか、もしこの苦しみから救ってくれるなら、信者になってもいい——。
駅の改札を抜け、ホームを上がった奈津子は、上りの電車を待った。
彼女がいつも利用する駅は大きくはなく、急行も止まらない。
だから、手前の駅で結構降りる人がいるため、たいがいのケースで座席に座れる。そして、次の駅からまた混み出す。
奈津子は、まるで出走前のマラソン選手のように、せわしなく足踏みをして、気を紛らわす。
ホームに滑り込んできた電車へ勢いよく飛び込んだ奈津子は、カバンを抱えて一番端の座席に座った。
発車した電車の中で、奈津子は気を紛らわそうと、車内の吊り広告に目を走らせた。ぱちんこ冬ソナ2の宣伝がある。何だ、『屁 (ぺ)・ヨンジュン』……?
便意が最高潮に達した状態で見ると、何でも屁やクソに関連させてしまうから不思議である。
こうなったら、『クイズ・屁キサゴン!』なんてのもアリだ。
奈津子がそんなアホなことを考えている時。
……バフッ
空気の少ない風船でもお尻で(この場合『ケツ圧』で?)割ったかのような、鈍い音がした。
実際、彼女はそのロケット噴射のような空気の暴発に、自分の体が宙に浮き上がったかのような錯覚さえ覚えた。
その瞬間、電車は次の駅に到着し、待っていた沢山の乗客たちがドドドと乗り込んできた。奈津子の座っている目の前まで、つり革につかまった乗客ですし詰め状態になった。
「やばいっ」
奈津子には、今しがた放出した焙煎にんにくなどよりも香ばしい空母級の『すかしっぺ』のにおいが、じわじわと上に立ち昇ってきているのを感じた。
彼女は必死で手のひらを動かして、オナラの空気を自分の鼻でみな吸ってしまおうと、必死でニオイを鼻に集めだした。
要は証拠隠滅であるが、そのむなしい努力をもってしては、とてもではないが奈津子の鼻の曲がりそうな臭いオナラを隠しつくすことは不可能であった。
もうあきらめの境地だった奈津子は、顔を真っ赤にしてモジモジした。
目の前のサラリーマン風の男性は、顔の片側だけの筋肉を異様に吊り上げた。いかにも不自然なその表情は、『鼻が曲がった』という表現が正にピッタリである。
人と言うのは、オナラに関しては人の臭いには敏感だが、自分のそれには結構甘いものである。大して嫌悪感のないことも多い。
しかし、この時奈津子は自分のオナラを『クサイ』と感じたのだから、他人は一体どう感じたのかは押して知るべし、である。
言葉には出さないが、みな顔をしかめて、奈津子の方を見ている。
ダメよ、ダメよと思う心とは裏腹に——
……ブリロロロロロロロォォォォォォォ……
もはや、言い逃れの出来ない音が奈津子を震源地にして、人の密集のせいで容積の少ない空間を拡散した。まるでオナラの音が、お腹がすいて胃が収縮した時の音とコラボしたかのようだ。
「ウヘッ」
今まで気を遣っていて声を発さなかった乗客の一人が、ついに耐えられなくなってうめいた。
離れた所にいた女子高生さえも、「これって、マジヤバ」とか言ってハンカチを鼻にあてがう始末。
奈津子は、ファーストキスの時に大きなオナラをしてしまった過去を思い出した。
今は、その時以上の気まずさをかみしめつつ、言うことを聞かない肛門を必死に制御しようと試みた。
目的の駅に着いたとたん、奈津子は逃げるようにして車外に出た。
席は空いたのだが……ホンワカと温かく、またそこはかとな~くかぐわしいメタン臭のするスペースには、すぐには誰も腰掛けようとはしなかった。
腰の曲がったお婆さんが全力疾走するかのように、奇妙な前傾姿勢で猛ダッシュする奈津子。
彼女のゲート(門)は、もう限界寸前だった。
「さぁ出せ! 今すぐ出せっ」
体は、悲鳴を上げてそう要求してくる。
「ダメッ! こんなところじゃダメッ」
シチュエーションによっては誤解しそうな言葉である。
彼女は超内股走行で、公衆トイレを目指した。
般若のような形相で腰を振りながら気味の悪い走り方をする奈津子に、通行人は引きまくりだった。
……ハッ!
奈津子は、ここで重要なことを思い出した。
腰をかがめ、お尻を突き出した姿勢のまま彼女はバッグの中をあわてて物色した。その姿は、さながらダチョウのようであった。
「よりによって……ポケットティッシュがない!」
そう。その駅のトイレには備え付けのトイレットペーパーなどという都合のよいものはないのだ。
「仕方ないっ」
トイレの前で、一個50円で売られているチリ紙を買うことにした。
「うがああああああっつ」
奈津子の雄叫びに、周囲の人々は怯えて、より足早に彼女のそばを通り抜けていった。財布の中には小銭がまったく残っていなかった。あるのは……福沢諭吉どんだけであった。
叫んだ拍子に——
……にゅもっ
ちょびっとだけ、出たのを感じ取った。
奈津子は、その出たものが下着に到達しないように、左右に割れた尻肉をできるだけ引っ付けあわせて、出たブツをキープする動きに出た。
もはや彼女の動きは、エイリアンであった。
「来るな、来るな……」
さっきから、奇行の目立つ女性が一人芝居でもするかのようにのた打ち回るのが見えていた。
キオスクのおばちゃん、一之瀬富子は何とか係わり合いにならずに済みますように、とひたすら祈りまくった。しかし、意地悪な女神様はそういう時にあえて試練を与えてくるものである。
クワッと血走った目を見開いた奈津子が、アメフトの選手のようにドドドと地を蹴ってこちらに突進してくるのが見えた。
「来るぅ! きっと来るぅ!」
恐れをなした富子は、狭いブースの中で後ずさりした。
「ひいいいいっ」
本来ならば、笑顔で「いらっしゃいませ」と言わねばならないところだ。
それを忘れるほどに富子は怯えていた。確かに、お客様に向かってヒイイイなどと言って迎えては店員失格だが、この場合彼女を責めるのはちと酷というものだろう。
キキイッと停まった奈津子は、ニュッと腕を伸ばし、一万円札を富子の目の前に突き出してきた。
そして、有無を言わさないような鋭い眼光でこう言い放った。
「これ、両替してちょうだいっ 50円玉を必ずくわえなさいよっ」
普段の富子なら、キヨスクの店の壁に貼ってある 『両替お断り』 の紙を指差して断るか、何かを買ってくれるように言うかするのだが、彼女の頭はこの時恐れのあまり真っ白であった。
「おっ、お待ちください……」
震える手で、札と硬貨を数え上げる。まるで、銀行強盗に金を用意させられている銀行員であった。
富子がお金を渡すと、「ありがとう」 と言うでもなく——
「ウガウガウガァッ」
……と人間離れした奇声を発して、駅構内をまた逆走して行った。
まるで、『猿の惑星』 だと富子は思った。
いや、そういえば映画ではサルもちゃんと言葉をしゃべっていたっけ。
排泄本能に支配されていた奈津子は、もはやサル以下の動きと思考しかできていなかったのだ。
まるで人気海外ドラマの 『プリズン・ブレイク』 の囚人たちのように、何かに追われているかのように女性トイレに突っ込んできた奈津子は、叫んだ。
「ア゛————ッ!!!」
そう。三つしかなかった個室は、全部埋まっていたのだ。
もはや理性の二文字はなかった奈津子は、インディアンが焚き火の周りで踊るような奇妙きてれつな動きを始めた。
そして、ゴンゴンと片っ端からドアを叩き——
「はよ出ろやあああああああああああ」
……と絶叫した。
とたんに個室内でガサゴソ、というせわしない物音がしたかと思うと、空くのはひとつだけでいいのに三箇所全部から女性が飛び出した。そして、手も洗わずに猛ダッシュで出て行った。
奈津子は洋式を選んで入り、フィルムの早回しのような速度で下着を下ろすと、待ちきれないように重力の加速に尻を預けた。
便座に尻が付くコンマ0.1秒前に、奈津子は今まで死守していた水門を、一斉に解き放った。
とたんに、奈津子の緊張にこわばっていた体が弛緩していく。
得も言われぬ爽快感と開放感が、奈津子を包む。
ナイアガラの滝のように、ドボドボと落下していく水便たち。
オーケストラのフィナーレはブゥゥゥゥというオナラ音だった。
こうして、かのビートルズの名曲 『オブラディ・オナラダ』 は演奏を終了。
やっと、奈津子の心に、人間らしい理性が戻ってきた。
社での重要なプレゼンが待っていた奈津子は、整腸剤を買いに薬局に寄るヒマなどなかった。
溜まっていたものを放出して何とか人心地ついた奈津子は、『まぁ、大丈夫だろ』 とそのまま社へと直行した。この油断が、後で命取りになった。
奈津子の勤める会社は、『大海物産』という。
言ってみれば、わかめやひじき・海産物の乾物やらふりかけやらを扱う会社だ。
彼女はそこの販売促進課の二係の係長という立場である。
今回、大手食品メーカーである『日唐食品』とのコラボで何か画期的な新商品が作れないか、ということで今回、日唐食品の取締役以下重役3名がやってきて、新商品に関する奈津子のプレゼンを見に来るのだ。
「準備はいいかい? 八神くん」
すでに会議室には、日唐食品の大平社長以下の面々が席についていた。
課長の大倉は中をチラチラと見ながら、奈津子を送り込むタイミングを見計らっていた。こちらの社長との挨拶はもう済んでいたから、あとは奈津子の出番である。
大平社長が大海物産と手を組むかどうかは、奈津子のプレゼンにかかっているのだ。つまりこの時の彼女は、社運を背負って立っていたのだ。
会議室の中にいた、大海物産の社長からの合図がかかった。いよいよ、出番だ。
「頑張ってくれよ、期待してるぞ!」
大倉課長の声援を受けて、奈津子はここ一番の大勝負に挑んだ。
部屋を暗くし、さっそく奈津子はプロジェクター用のスクリーンに、パワーポイントで作ったプレゼン用の資料画像を映す。
さらに奈津子は、統計グラフなどの資料を映すべく、データを作成したノートパソコンをプロジェクターに接続した。
「……え~、今回わが社が提案いたします新商品は、日唐さんの得意とする『麺製品』と、我が大海物産が誇る『乾物わかめ』をコラボさせた「わかめラーメン」でございます。もちろん、その昔にエースコップが開発し、現在も細々とではありますが製造を続けているあの『わかめラーメン』が競合しますが、秘策はあります! もちろん、商品名の工夫もこれから考えていかねばなりませんが——」
説明しながら奈津子は、違和感を覚えた。
どうも、笑うところではないのだが、皆が失笑しているように感じる。
大平社長が口を開いた。
「君ぃ、それはなにかね……もうCMに起用するタレントも考えてある、ということかね?」
背後のスクリーンに映っていた映像を確認した奈津子は、冷水を浴びたように身震いした。
そこには……奈津子が好きなタレント・松本潤の壁紙画像が大写しになっていた。
この前こっそりと、仕事時間の合間に奈津子がダウンロードしたものだ。
……しまったっ! 開く画像ファイルを間違えたっ!
あまりのことに呼吸困難に陥った奈津子は目を見開き、金魚のように口をパクパクさせてあえいだ。
空気をしこたまのどから飲み込んでしまったお陰で、奈津子はものすごく下品な音を立てて『ゲップ』をしてしまった。
それは、腹巻をしたようなオヤジでさえ出すかどうか、という素晴らしい音域に達していた。
これには、大海物産側は社長以下、全員が青ざめた。
「もう、あかん……」
会議室の外から様子をうかがっていた大倉課長は、廊下にガックリと膝をついた。
果たして、次の夏のボーナスはきちんと出るのか? それとも、現物支給か?
しかし、悲劇はそれだけでは終わらなかった。
……んまてふっ!
大昔のサザエさんのラストのように、のどが詰まった時のようなシャックリが奈津子を襲った。
そのとたん、今まで大人しかったお腹が、騒ぎ出した。
プレゼンと便意との戦いのため今まで何も食べていなかった奈津子の腹の虫が、水を打ったように静かな会議室内に響いた。
……グ~~~~~キュルルルルルルルルルルルルルル
同時に、オモチャのラッパでも吹いたような間抜けな音が、お尻から漏れた。
……プゥ~~~~~~~~ ブリッ ブリッ
最後のは、オマケのようである。
場内の一同は、その音の高さと破裂音にも似た響きから悟ってしまった。
奈津子が出したのは、もしかして空気だけではないんじゃないか? と。
「……す、少し失礼しますっ!」
案の定、鶏のような滑稽な歩き方で奈津子は会議室を出て行った。
行き先は、どんなバカでも想像がつく。そう、それはトイレ。
「しゃ、社長! こんな失礼なところと手を組むには及びませんっ! お話になりませんよ。帰りましょう」
日唐食品の重役達は、大平社長にそう耳打ちをしてくる。しかし、大平社長は意外にもその場を動こうとはしなかった。
「まぁ、焦るな。最後までこのプレゼン、聞こうやないか」
大平社長は怒るでもなく、落ち着き払って奈津子の復帰を待った。
その頃。
奈津子は女性トイレで、便座に座ったまま泣いていた。
「うわあああああああああ~~~~~~~~ん」
……今日は、なんてついてない一日なんだろう。
もう、負けると分かっている試合だった。どう転んでも、提携の成立はない。
しかし。負けると分かった試合であっても、途中で投げ出すわけにはいかない。
最後まできっちり、けじめをつける。それが企業戦士として最低限のマナー。
涙を拭って服を調えた奈津子は、萎えそうになる自身の心を奮い立たせて、会議室へと戻っていった。
最後に出発の汽笛のようなオナラを、高らかに響かせながら。
奈津子のプレゼンは終了した。
拍手する者は誰もなかった。
何をどう言っていいのか、誰もが考えあぐねて、気まずさに身を揺すった。
数秒の静寂が場を支配したが、それはすぐに破られた。
奈津子はペタリ、と床に座り込んで、顔を真っ赤にして泣き出した。
「びええええええええ~~~~~ん」
かつて、取引先の社長の前でオナラやゲップをし、最後には泣いた者などいたであろうか!
もはや大海物産の社長も、大平社長に「どうですか、ウチの案は。考えていただけますか?」などというずうずうしいことは聞けない状況であった。
「……あんたは確か八神さん、でしたな」
急に立ち上がった大平社長は、奈津子に近付いた。
「プレゼン自体は素晴らしかった。じゃが、わしが聞きたいのは、今日あんたにどういう事情があったのか、ちゅうことなんや。できたら、教えてくれるか?」
奈津子は、今日の朝からの悲劇の数々を、大平社長に語って聞かせた。
「そうやったんか」
周囲はあまりのバッチい話にドン引きムードであったが、大平社長だけは納得顔で聞き入っていた。
「わしも経験したことがあるからようわかる。トイレ我慢できないのにできる状況にない、っていうのはホンマ苦しいもんや。このお嬢さんはそれでもプレゼンのためや、思うて辛い体を押して頑張ってくれたんや。わしはそこを評価したい」
周囲からエエッ!? という驚きのどよめきが起こる。
「決めたで。今回はこの日唐食品、おたくに力貨しまひょ。よろしくたのんますわ」
大海物産の一同から歓声が上がった。
「やったぁっ」
外から成り行きを見ていた大倉課長はガッツポーズを決めた。
彼の頭の中は、もらえるであろう夏のボーナスのことで頭がいっぱいだった。
やったよ~~!
奈津子の頭の中で、ロッキーが勝利して恋人と抱き合うシーンが壮大な音楽と共に再生された。
「ロッキー!」
「屁ードリアン!」
あれ。またヘンな連想を——
ハッピーエンドを迎えて、思わず奈津子の気が緩んでしまったその時。
……ブビリッチュゥゥゥゥゥゥ
再び、場が静まり返った。
……神様。もう、焼きいもや納豆の暴飲暴食はいたしません。
そう心に誓った奈津子は、恥ずかしさのあまり目を伏せた。
~終~
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