私はあなたの目を隠す

まくら(惰眠)

私はあなたの目を隠す

 私は舟に乗っていた。ぼやけた灰色の小舟で、乗っているのは私だけらしかった。空は、小舟と同じ色。パステルカラーの泡の海は、空の色を映して一様にくすんでいる。ゆらゆらと、小舟は漂う。淡い桃色、紫色、緑色の泡を弾けさせながら。ずいぶんと長い間これに乗っている。一体どこへ向かっているのだろうか。

 言いようもない不安を感じて、自分の手のひらを見た。手のひらは、どろりとよどんだ、鈍色の液体にまみれていた。


*


 はっ、と、自分が息をのむ音が聞こえた。目の前には見慣れた天井。もう秋だというのに、全身を薄くぬらす汗。静かに冷えた朝の空気。何だか、嫌な夢を見た気がする。

 背中を起こせば、ほほに張り付いていた髪の毛がはらりと落ちた。多分あとが付いているんだろう。

 どんな夢だったろうか。なんだかとても不安だったような……。

 それでも、寝ぼけた頭が覚醒するに従って、夢の中で感じた不安も、生々しさを失っていくようだった。


*


「早紀、おはよう!」

 幼なじみの底抜けに明るい声が、閑静な住宅街に響く。いつもより少し遅めに玄関を開けた私を、日奈美は待っていてくれたらしい。

 おはよう、と返事をすると、日奈美は満足げに笑った。大きな目が細まって、右ほほにえくぼができる。整った顔をくしゃっと崩したような、どこか幼い、なんとも言えない親しみを感じさせる笑顔だった。

「じゃ、行こ?」

 日奈美は私の手に指をからめると、早紀の手冷たい、とびっくりしたように言った。

 日奈美の手はあたたかかった。


 秋風に吹かれて、紅葉した街路樹がかさかさと音を立てる。空は高く、まだ少し橙色を帯びた朝日はまぶしい。

 いつも二人で、学校まで歩く十五分。私が黙っていても、日奈美がしゃべるので、退屈したことはない。さっきからも、先生のことやテレビのことなんかをとめどなくしゃべっている。現在の話題は、クラスの友達の、その彼氏のことらしい。

「ねえ、早紀はさ」

 ふと、日奈美はそう言った。半分聞き流していた私は、なに、と聞いた。

「好きな人っているの?」

 どきりとして、彼女を見た。いたずらっぽい笑み。だけどその瞳は、まっすぐに私を見ていた。考えの奥を無遠慮にのぞくような目。耐えきれなくなった私は、そっと目線をそらした。

 一瞬だけどう答えるか悩んで、特にいないと声に出した。すると、なんだか日奈美は嬉しそうな顔をした。

「そっか、そうなんだ……」

 そうつぶやく彼女の声は、弾むような色をしていた。


*


 チョークが黒板を叩く音。教室は静まりかえっている。それでも、私の頭の中は絶えずざわめいていた。

 ……うるさいなあ。

 窓の外を見つめる。中庭のカエデが赤い。綺麗なはずの赤も、曇り空の色を映してくすんでいる。私は、自分の左手の甲を口もとに持ってきて、噛み付いた。


――早紀はさ、好きな人っているの?


 ……私には人を好きになる資格なんてない。私の醜さは私が一番知っている。それなのに、誰かを好きになるとか、ましてや愛してもらおうとか。そんなことを考えるなんて、浅ましい。なのにどこかでそれを望んでいる。

 そんな考えを見抜くような日奈美の目。

 歯形が、ひとつ。あまり痛くない。ああ、まだ駄目だ。もっと……。


 日奈美。日奈美は私を好いてくれているんだろう。幼なじみの親友なのだと。そのせいで私がたまらなくみじめな思いをしていることなんて知らずに。


 彼女は眩しい。愛嬌があって甘え上手で、スポーツができて、可愛い。それになにより、決して驕ったりしない。

 私は、昔から彼女に嫉妬ばかりしているのに。彼女はただまっすぐに、私のことを友達だと言うのだ。

 そんな彼女に、何もかもを見抜かれそうな不安を覚えるようになったのは、いつからだったろうか?


 ふと、ノートをとっていないことに気づく。口を離すと、さっきよりもくっきりした跡ができていた。それを右の人差し指でなぞる。しばらくしたら消えるだろう。

 窓際の席は、風が入って少し寒い。私は音を立てないように窓を閉めた。


*


「早紀、帰ろ!」

 校門の前で抱きつかれたと思うと、背後から日奈美の声がした。振り返るとすぐそこに、無邪気に笑う日奈美の顔があった。彼女の髪の毛が甘く香り立つ。

 うん、帰ろう、と返すと、日奈美はまた手を繋いできた。やっぱり温かかった。


 住宅街の路地を歩く。昼間は曇っていたが、今はある程度晴れている。夕日に染められた雲は充血したような色をしている。

 噛んだ跡は、一見分からなくなっていた。

 日奈美はしばらくクラスメイトのことを話していた。でもその話が終わると、また、早紀の手冷たいね、と言って、繋いでいた私の手をさすった。

「心があったかいからだね」

 日奈美が言った。私は、そんなことないよ、と答えた。歯形がぴりぴりする気がする。

「そんなことあるよ」

 どうして? 私はそう聞いた。

「だって、早紀は私の、命の恩人でしょ」

 その言葉に、私は固まった。日奈美が楽しそうに話を続ける。

「あの時、早紀が助けてくれたんだもんね」

 そうやって私の目をのぞき込んだ日奈美に、思考が凍った。私は、あのことを思い出してはいけない。あのことを思い出してはいけない。

どくり、と、心臓が動く。

「まだあんなこと、引きずってるの?」

 内心の焦りを隠して嘲笑し、そう言うのが精一杯だった。日奈美はあっけに取られたような顔をして、それから苦みを帯びた笑顔を見せた。

「……えへ。そうだね」

 そして丁度よく家にたどり着いた。また明日ね、と言ってから、私は逃げるように玄関を閉めた。


*


 泡たちはすべて弾けた。もう、鈍色の海を隠すものはない。私は水面を覗き込んだ。それはたちまち鏡に変わっていく。

 そこには、日奈美が映っていた。彼女は見ている。かたちを失っていく私を。日奈美はただ、私を見ている。鏡は割れた。割ったのは私かもしれなかった。


*


 アラームが鳴る。汗をかいた手で音を止めると、私は起き上がった。

 もやのかかった思考と、静かな世界。心臓が首もとまで上ってきている気がする。自分が息を止めているのに気づいて、私は眉をしかめた。


*


「おはよ、早紀」

 いつもよりひとつ低い声のトーンで、日奈美は私を呼んだ。私は、おはようと返事をして、どうしたの、と尋ねた。

「……なんでもないよ、早く行こ!」

 日奈美は無理に明るくした声で、そう言った。強がっているのがありありと分かる。私は何か声を掛けようかと思ったけれど、掛けるべき言葉を見つけられなかった。

 朝の空気は冷え込んでいる。日奈美は手を繋いでこなかった。


*


 昨日の、日奈美の言葉と、苦々しい表情。私は、彼女を傷付けてしまったのだろう。

 命の恩人、命の恩人、命の恩人……五年前。思い出したくない記憶。忘れていたかった思い出。

なのに彼女の声の残響は、私を暴力的に過去に誘った。

 ……ああ。今が、遠ざかっていく。



 真っ先に思い出すのは、輝く海と、きらきらと舞う水しぶき。よく晴れた夏の日。私と日奈美は、大人にはプールに行くと嘘をついて、二人だけで人気の少ない砂浜に行っていた。

 疲れて日陰に座る私と、有り余った元気で泳いでいる日奈美。そんな時、日奈美は、岩場の近くで溺れたのだった。


 はじめは遊んでいるように見えた。日奈美が水底に潜って、沢山の大きな泡が浮かんできて。でも、すぐに違うと気づいた。彼女の手が、がむしゃらに水面を叩き始めたから。

 慌てて、近くにあった浮き輪をつかんで、岩場へ走った。白い砂が足の裏を焼いた。

そして、岩の上から日奈美へ浮き輪を投げようとした時。

 どうしてだろう、脳裏に過ぎったのだ。


 私も、あの、日奈美が着ている水着がほしかったのに、と。


 声帯がこわばったのが分かった。水着のことに続いて、日奈美に抱いていた後ろめたい気持ちが、次々と浮かぶ。

 日奈美は私より運動ができる。友達が多い。作文の賞も取った。私よりも可愛い。勉強は私よりできないくせに、先生に好かれている。日奈美はずるい。日奈美はずるい――


 ふと、溺れてもがく日奈美と目が合った。


 急に現実に引き戻された。日奈美を助けなきゃ、そう思った。

 日奈美、と大声で彼女を呼んで、浮き輪を投げた。彼女はすぐ浮き輪を掴んで、陸に上がった。

彼女はすぐに元気を取り戻した。だけど、それからだった。


 ……私は私が恐ろしくなった。

 私は、日奈美を見殺しにしようとしたのだ。一瞬のことだったとはいえ、私が飼う暗い心によって、日奈美を殺そうとしたのだ。

 今回は自分を取り戻すことができた。けれど、次は分からない。四肢の末端から凍りついていくような恐怖が襲った。

 日奈美はそんな私に、以前よりもべったりとくっつくようになった。心から信頼しきった顔を向けるようになった。私が彼女にどんな感情を持っているのかなんて露知らず。そしていつしか、自分への恐れは、彼女への恐れに変わった。


 閉じ込めておかなければならない。私は、閉じ込めておかなければならない。何もかも絡めとるようなこの澱を。


 左手の甲には、沢山の噛み跡がついていた。私はそれを見ていた。ノートは真っ白だった。チャイムが鳴った。


*


 校舎を出ると、日奈美が手を繋いできた。思いつめたような表情だ。日奈美は何も言わない。私も何も言わないでいた。

 公園の前を通りかかったとき、日奈美が立ち止まった。

「ねえ、早紀」

 私は、なに、と彼女に訊いた。

「ちょっといい?」

 そう言って、日奈美は私の手を引いた。


 公園には誰もいなかった。私と日奈美は、青いペンキがまだらになったベンチに腰をおろした。

「どうしたの」

 ここまで来ても、私はとぼけてそう言うことしかできなかった。日奈美はうつむいて、私の左手を握る。

 沈黙が続く。噛み跡は消えただろうかと、私はほんの少し心配した。

「ごめんね」

 出しぬけに日奈美が言った。

「早紀、あのね」

 日奈美が私を見た。涙がいっぱいに溜まったその目に、私が恐れる力はなかった。ただ弱々しく私を映していた。

「私、ね」

 泣きそうな声。湿り気を帯びた声。

「早紀が、……好きなの」

 そう、まるで媚びるような。私が目を見開くと、日奈美の口からは、堰を切ったように声が溢れ出はじめた。

「好きなの。ごめんね、私……ごめんね」

 彼女は、何に対してなのか、謝罪を繰り返す。私は、いつも明るい彼女が自分の隣で泣いているのを不思議に感じた。

「落ち着いて、ゆっくりでいいから」

 私はそう言って彼女を宥めた。他にどうしていいか分からなかった。彼女がどうして泣いているのかも分からなかった。

 過呼吸になりかけているのか、彼女の胸が激しく動いている。

「私、変なの。早紀、好きなのに、ずっと、早紀に、し、嫉妬して、て」

「え」

「変よね。駄目なの。早紀は、命の恩人

、なのに、私、優越感とか、劣等、感とか、そういう、のが、あって」

 驚いた。日奈美にも、そんな気持ちがあったなんて。

「わたし、どうすればいいの……」

 日奈美は、助けを求めるように私の肩にすがり付いてきた。髪からだけじゃなく、全身から甘いにおいがした。


 日奈美が、ずっと私が憧れ焦がれて、恐れて羨んでいた、完璧に思われた彼女が、今、私の前で弱点を晒している。潤んだ瞳で私を見ている。親を見失った子猫みたいに。

 ずっと考えていたこと。――あの時、彼女を見捨てていたならば? 指先が熱を失っていく。私が私じゃなくなる。茜色の町が、溶けていくような気がする。

「あのときのこと、早紀はそんなに気にしてないんでしょ」

 大分呼吸が落ち着いてきたのか、日奈美がそんなことを言った。気にしていないわけがない。私はずっとその記憶に縛られていたのだから。

「だからね、私きのう、すごく不安になって」

 ぽつりぽつりと、日奈美の鼻声が耳をくすぐる。私の制服の肩を、日奈美の涙が濡らす。

「早紀が、どっかに、行っちゃう気がして……」

 泣きじゃくる彼女を、私の首に腕を絡めた彼女を……私は、抱き締めるべきだと思った。なのに、私の両腕は、いや、私の全身は、見えない澱みに絡まって、ぴくりともしなかった。


*


 粉々になった鏡の破片は、きらきらと飛び散って、私の左手の甲に傷をつける。理不尽なほど濁った空気の中では、呼吸すらままならない。

 やがて、割れた鏡はひとりでに収束し、日奈美になった。ああ、どうしても、彼女からは逃れられないのか。

「早紀」

 日奈美。

「私、早紀が好きなの」

 やめて。

「どうして?」

 私は、あなたのことが……。

「嫌いなの?」

 そう。嫌い。あなたのその、何もかも見抜くようなその目が、大嫌い!

 私の叫びに、日奈美はゆっくりと俯き、ぐらぐらと不規則に、首を揺らした。そして彼女の唇から、そう、それなら、と、無機質に声が漏れて。

 ――日奈美は、その両の目に指を押し込んだ。


*


 日奈美の眼孔から血が滴り落ちる、そんな映像が脳裏に焼き付いたまま、私は目を覚ました。ここのところ、目覚めが良くない。昨日や一昨日も、覚えていないだけで、彼女にまつわる夢だったのだろうか?


*


 日めくりのカレンダーは青く日付を示している。十一時、チャイムが鳴った。私は冷えた鍵をまわす。

「早紀」

 開けた扉の隙間から、日奈美の声がした。日奈美は淡い桃色のワンピースを着ていた。よく似合っている。

「おはよ」

 いつもよりひと回り小さな声で、彼女は言った。私は馬鹿みたいに、おはよう、と返して、日奈美を部屋に上げた。


*


「早紀」

「何」

「好きな人、いないんだよね」

 また、あの見抜くような瞳。丸い目。二重まぶた。カチリと分針が音を立てた。私が黙り込んだのを見て、日奈美は言葉を続ける。柔らかくて小さな、唇が動いて、

「……私を傷付けないようにしてる?」

私を釘付けにした。


 やめて。

 日奈美は机に上半身を乗り上げて、私の顔を覗き込む。

 ――見ないで。

 そう口にすると、日奈美の顔がこわばる。ぞくぞくと背筋が震えるのがわかった。それが頭まで届いて、真っ白になる。白。水しぶきの白。私は立ち上がって、日奈美の目を覆い隠した。

「きゃっ」

 彼女は小さな、油断した悲鳴を上げる。そのまま日奈美の背後にまわって、しっかりと、その目を覆い隠す。

「早紀?」

 日奈美は不安げに首を揺らす。暗闇に溺れる彼女の目を、私は塞ぐ。日奈美の眼球の動きまで、手のひらにはっきりと伝わってくる。温かい。

 喉に澱がせりあがってきて、痛い。駄目。苦しい。頭の中でざあざあと波の音がして、貫くみたいな熱が指先まで、だから、もう、これ以上は――

「日奈美。お願いがあるの」

「……なに? 早紀のお願いなら、何でも聞くよ、私……」


「……目隠し。日奈美に目隠しさせて」

 そうしたら、全部、話すから。吐き出すように、私はそう口にした。


*


 制服の赤いスカーフを、日奈美の目に巻き付ける。ああ。私はつかの間、息をつく。彼女の瞳が覆い隠されて、私はようやく、日奈美の前で安堵した。

 離れようとすると、彼女は裾を引いた。

「……怖い。怖いよ、早紀……」

 うろたえるその姿に、もう恐怖はない。愛おしいとすら思った。手で髪をすくと、彼女はぴくりと肩を震わせる。甘い匂いを漂わせて。

 分針が音を立てた。

 私は怖がる日奈美を抱き締める。柔らかくて、温かい、小さな体を抱き締める。

「あ」

 日奈美の唇から、震えるような声が漏れた。

「怖い?」

「……う、ううん、もう、怖くない」

 彼女の胸元に手を滑らせると、その心臓が動いているのがよく分かった。私はその音を掻き消さないように、恐る恐るささやく。

「日奈美。私」

 息が詰まるのを無視して、言葉を繋ぐ。

「ずっとあなたのことが嫌いだった」

 窓の外で、雨が降り出した。


 日奈美の頭を撫でながら、私は約束通り、どうにか全てを話そうとする。

 日奈美は私より運動ができるでしょ。

「そうかも……しれないけど」

 友達、多いでしょ。作文の賞取ったでしょ。小学校のとき。日奈美は私よりも可愛いから。先生に好かれてるし、みんなに好かれてる。

 それに、あの時、ピンクの水着を選んだ。今もそう。ピンク色の服、着てる。

 プツリ、私は日奈美のワンピースのボタンをひとつ外す。すると日奈美は何か言おうとするのをやめて、息を殺した。

 日奈美が羨ましい。あの時、私、見殺しにしようとしたんだ、日奈美のこと。だからおかしくて。命の恩人だなんて言ってるの。

「……なんで?」

 ピンクの水着、私も着たかった。日奈美みたいに可愛くなりたかった。だから、……だから、死んじゃえって思った。

 日奈美の手が、ぼやけた視界の端でゆらりと動く。

 私、日奈美の目が嫌い。見られてるみたいで。嫉妬――そう、嫉妬……。私は、ずっと。だから。知られてはいけなかったのに。閉じ込めておかないといけなかったのに。


*


 目から血を流した日奈美がかたちを失った私を抱き締める。私はそれに安心して、ぽつぽつと言葉を零す。日奈美は私のほほに触れた。涙を流していたことに、その時ようやく私は気付いた。温かい手が、それを拭う。

 灰色の空からはさらさらと秋雨が降り続く。鈍色の私を、薄めて、いつか、透明にしてくれるだろうか。

 そんな浅ましい願いが、許されるだろうか。


*


 目を覚ますと、日奈美が床で眠っていた。赤いスカーフがずれて、伏せられた睫毛が見える。私も床で眠っていたらしい。固まった背がきしむ。重く腫れた目元を擦って、私は日奈美を見つめた。

 ……私には人を好きになる資格なんてない。

 私の醜さは私が一番知っている。それなのに、誰かを好きになるなんて……。

 それなのに、私の全てを知ってもなお、彼女は私を好きだと答えた。それどころか、「同じだ」と言った。私と彼女が同じだと。正反対の、私たちのことを。

 二人で泣いて、泣いて、訳が分からなくなるまで泣いた。同じでいいんだろうか。殺そうとしたのに。「でも、助けてくれた」と日奈美は言った。私には、ただの結果論としか思えない。「それでも、それでも」と、日奈美はまた泣いた。

 分針が音を立てる。窓の外、細い雨音が響く。

 私は眠っている日奈美の左手を軽く噛んだ。寝息に呻き声が混じる。ほんの少し苦しそうに歪められた眉、その下、今はまぶたに覆い隠された瞳に、私は軽く唇を落とした。

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