第3話 一章 発端 その2
トレメル村の祭りとはいかなるものだったのか。トレメル村の教会には祭りに関する詳細な記録が残されていた。事件より四代前の神父は筆まめな性格だったらしく、多数の備忘録を残していた。事件の後、その一部が回収されている。
以下はその記述を抜粋したものである。
「日が沈むと、教会より鐘を鳴らす。鐘の音が鳴り終わるまでに村の者たちは子供から老人に至るまで一斉に火を消し始める。ろうそくや油だけでなく、かまどの火もかがり火も一切を神の御許に捧げ、光を太陽神様にお返しする。闇の中にこそ輝く光の尊さを知る。(中略)鐘が鳴り終わる頃には村人たちは、組んだやぐらの前に集まっている。私が太陽神に祈りをささげると、村人たちは平伏し、山の向こうに消えた太陽を惜しみながら祈りをささげるのである」
祭り自体は昔からこうだったわけではなく、何度かの変遷を経ているようだ。
もう一度四代前の神父の備忘録から引用する。
「昔は太陽神のご加護の尊さに感謝をささげつつ、朝まで家でおとなしく過ごすのがならわしであった。それが、私が派遣された頃には、広場にて盛大に火を焚くようになり、巨大な炎の元で歌い叫ぶ。そこには年功の序列もなく、ブドウ酒を飲み、鹿肉をかじり、女に声を掛け、人前でふしだらな言葉を掛けつつ抱きつく。そこに信仰の尊さはなく、享楽をむさぼる肉欲の場になってしまった」
神父様は信仰の堕落を嘆いているが、祭りの変遷自体はさして珍しいものではない。
むしろこうした変遷がなければ、祭りの存続自体が難しかっただろう。
アッヘンバッハ州のオックス村や、パーシウス州のレーメ村など、同様の儀式を行っていた村もあるが、二世紀も前に廃れている。
楽しみがあるからこそ我慢もできるのだ。
万緑月十二日の日が暮れた。太陽が山の稜線に消えたのを確認すると、ドミニク神父が小間使いのヤコブ老人に教会の鐘を鳴らすように指示した。
田舎の村である。鐘の音も貧相な物だった。カウフマン氏の言葉を借りるなら「牛の鈴よりはマシというしろもの」だったようだ。
村人たちは次々とかまどの火を落とす。信仰とは程遠い、形のみの儀式である。
空には雲が立ち込め、月も星も出ていない。火を落とし終えると村人たちは広場のかがり火の元に集まり始めた。
ドミニク神父が祈りをささげ、祭りは始まった。
祭りは滞りなく進行し、ハレの日を迎えて、酒も入っていた。
そのため二つの小さな影が巨大な板塀を乗り越えたことに誰も気づかなかった。
抜け出したのは、ヴィオラとエリカである。
女の子たちが抜け出したのには目的があった。
蜂の巣である。二人はちょくちょく、村の外に出てかくれんぼや遊んでいたのだが、二日前森の中に大きな蜂の巣を見つけたのだ。二人ともハチミツは大好物である。無論、巣の周りにはミツバチが羽音を立てて飛び回っているわけだが、問題はない。蜂を追い払う方法は知っている。去年、父親のルドルフが巣の下に煙をいぶして蜂を駆除していたのをエリカは見ていた。その時、巣から手に入れたハチミツはとろりと甘くて極上の味だった。見つけた巣はその時に比べると一回りほど小さかったけれど、もう少し待てば蜂が花の蜜を集めて来てくれるだろう。
ところが、村の大人たちが「熊が出る」と騒いでいる。
ハチミツは熊の好物だ。食べられては一大事だ。どうにかして守らないといけない。
しかし、熊が出たことで二人とも村の外に出ることは禁止されてしまった。
どうしようと悩むヴィオラに、エリカは密かにささやきかけた。
「祭りの日なら誰も気づかれないよ」
夜に村の外に出るなど、熊が出なくても大人に反対されるのだが、今日は別だ。
いつも森へ向かう時に通る北と南の門には、見張り役のお兄さんたちがいるので通れない。なら暗闇に乗じて板塀を乗り越えればいい。
「でもあの塀ものすごく高いよ」
「大丈夫」エリカがどんと胸を叩く。「ちゃんと方法は考えてあるわ」
「でも、真っ暗だと何にも見えないよ?」
村中の明かりが消えると、真っ暗でお互いの顔もよく見えない。
ヴィオラの疑問はもっともだが、そちらにも秘策があった。
蛍である。
村の東の森にはリース川の上流が流れている。今でこそ工事による環境の変化でほぼ全滅してしまったが、この時期には夏になると淡い光が粉雪のように舞っていた。
エリカは夜中に抜け出すと決めた時から網と虫かごを持ってひそかに集めておいたのだ。一匹の放つ光は頼りなくても、数を集めれば目印程度にはなる。
蛍の明かりは大人たちも目にするわけだが、蛍自体は川からしょっちゅう迷い込んでくる。ごまかせるとエリカは踏んでいた。
祭りの夜、二人は計画を実行に移した。明かりがすべて消されると同時に足音を忍ばせ、かがり火の焚かれている広場から抜け出した。祭りに興奮した子供が村の中をうろつきまわるのは珍しくない。ヴィオラとエリカが広場を離れても不審に思うものはいなかった。
板塀を乗り越える作戦を実行に移すためである。最初に考えたのははしごであるが、板塀を乗り越えるようなはしごは重すぎて運べそうになかった。
ヴィオラの家では耕作用の牛を飼っている。足場代わりにその牛を引っ張ってきて、その背中に乗るつもりなのだ。牛は自分で歩いてくれるから運ぶ必要がない。牛は夕方のうちに牛舎に忍び込んで手綱を緩めておいてある。もちろん、牛の背に乗っただけではニフート(約三・二メートル)の壁は越えられない。向かうのは村の北東の端、ショルツの家だ。ショルツの家は塀の間際にある。家の側には大きな木があり、太い枝は塀を通り越して村の外まで伸ばしている。幹がとてもつるつるしていて普通の方法では登れそうにない。そこで牛を使って幹の分かれ目まで這い上がり、そこから枝を伝って村の外に出る手はずになっている。もしかしたら誰かが蛍の光を不審に思うかもしれないが、家屋の陰になって、見えづらいだろうという判断もある。
「どう、完璧でしょう?」エリカは胸を張っていばった。
帰りのことを全く考えてない、穴だらけの方法である。いかにも子供の考えた作戦だった。
ヴィオラの家に向かい、牛のロマを引っ張ってきた。少女が二人手綱を引くと、ロマは鳴き声を上げた。
「静かにして、ロマ」
ヴィオラがあわてて静まるように言ったけれど、聞くはずもない。
何度も鳴いたけれど、幸いなことに大人が近づいてくる様子はなかった。
なかなか言うことを聞かない牛を二人で引っ張りながらもう少しで塀に来る、というところで後ろから声をかけられた。
「どこへ行くの?」
ヴィオラとエリカは同時にすくみ上がった。
話しかけたのは、当時七歳のクラリッサ氏である。
その時の様子を氏はこう回顧していた。
――その時の様子はどうでした?
「私は祭りの時に母と一緒に広場まで向かっていたんですけれど、忘れ物をしちゃって。確か髪飾りか何かだったと思いますが、もう少しで家というところで牛の声がしたでしょう。牛を飼っている家は村に何軒かありましたけれど、ヴィオラの家の牛だってぴんと来ましてね」
――声だけでわかったんですか?
「わかりますよ、それくらい。みんな声が違いますもの。特にあの家の牛はね、変な声で鳴くものですから、もうね、聞くたびに父は笑い転げていましたから。それで、声の方に行くと、蛍の光が見えましてね、誰かいるな、と思ったらあの二人でした」
――その時の二人の様子はどうでした?
「最初はね、訳がわかりませんでしたよ。二人して虫かごと牛の手綱持って青い顔しているんですから。でも何か知られるとまずいことをしているんだろうな、とはすぐに感づきました」
――何か二人は言っていましたか?
「いえ、あまり正確には。お父さんに頼まれて牛を連れて行く、みたいなことを言っていたような気もしますけれど」
――それを聞いてどう思われました?
「ウソ臭いなあと」
――まあ、そうでしょうね。
「そこで私が『それじゃあ、本当かどうか聞いてきてあげる』と言うと本当のことをしゃべりました。『だまっていてくれたらハチミツ分けてあげると』」
――そこで、何も見ないことにして二人を見送ったわけですね?
「そうです」
クラリッサ氏の返事はどこか辛そうだった。
自分がもし大人に告げ口していれば、その後の悲劇も避けられたのかも知れない、と考えておられるようだった。
あるいは、この事件で二度と会えなくなった幼い友人を偲んでいるかのようでもあった。クラリッサ氏は事件より二年後、村を離れて隣の州の親類を頼りに家族共々移住している。
現れた熊に、村の外へ抜け出した少女たち。多くのトラブルの種を抱えながらも祭りは平穏に進もうとしていた。
だが、本物の悲劇は誰一人予期しない方向からやってきた。
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